年明け6日よりNHK大河ドラマの新シリーズ「八重の桜」の放送が始まっている。主人公の新島八重(旧姓・山本)は、幕末に会津藩士の娘として生まれ、明治初年の新政府軍との会津戦争を経て、のち夫の新島襄とともに今日の同志社大学の前身を設立した女性教育者の草分けであるとともに、日清・日露戦争では看護婦として従軍した人物だ。


いまのところ「八重の桜」はまだ八重の少女時代である幕末を舞台としているが、いずれ時代は明治へと移る。大河ドラマで明治時代が本格的にとりあげられるのは、1990年放送の「翔ぶが如く」以来、じつに23年ぶりのことだ。

今年は大河ドラマの第1作「花の生涯」が放送されてからちょうど50周年という節目の年にあたる。井伊直弼を主人公とした「花の生涯」以降、幕末を舞台とした作品は数あれど、そのあとの明治までちゃんと描いた作品は、歴代52作中、「八重の桜」も含めても4作しかない。その理由としては、大河といえば一般的に時代物のイメージが強く、近代物はなかなか視聴率をとりにくいというのもあるのだろうし、また時代がなまじ現代と近いだけに(何しろ30年あまり前ならまだまだ明治生まれの人がたくさん存命していたわけで)、描きにくいというのもあったはずだ。

そう考えると、大河ドラマで明治をとりあげることはある意味で冒険ともいえる。
実際、今回とりあげる明治物の大河3作には、やはりさまざまな野心的、意欲的な試みが見られ、時代物の大河とは一線を画している。近代日本の原点である明治時代が、国民的番組ともいわれる大河ドラマでどう描かれてきたのか。以下、くわしく見ていこう。

■架空の主人公を通して明治前期の事件を網羅――「獅子の時代」(1980年)
「八重の桜」の第1回は、アメリカの南北戦争のシーンから始まった。画面ではやがてゲティスバーグでの激戦と、会津戦争で銃をとり戦うヒロイン八重の映像とがオーバーラップし、さらに、南北戦争で使われた兵器は海を渡り日本にもたらされ、会津戦争でも使われたとの説明が入る。同時代の世界史と、幕末の内乱が密接にかかわりがあったことを示す演出だ。


こうした今回の大河のオープニングも印象深いものであったが、33年前の「獅子の時代」のオープニングはそれ以上のインパクトを視聴者に与えたのではないか。何しろ、物語は現代のフランス・パリのリヨン駅に、ちょんまげ姿で刀を提げたさむらいの集団が降り立つシーンから始まったのだから。彼らは明治維新の前年、1867(慶応3)年に開催されたパリ万博に参加するため、ときの将軍・徳川慶喜が派遣した幕府使節団だった。この万博には、日本から幕府とは別に薩摩藩も参加しており、両者は会場でにらみ合うことになる。幕府使節団に参加した会津藩士の平沼銑次と、薩摩藩士の苅谷嘉顕(加藤剛)という同作の主人公2人が出会ったのもこのときだった。

ただし、銑次も嘉顕もドラマのために設定された架空の人物である。
大河ドラマで初めて原作のないオリジナル作品となった「獅子の時代」の脚本は、山田太一が担当した。架空の人物を主人公としたことについて、山田は次のように説明している。

《ぼくはNHKから大河ドラマのお誘いを受けたとき、特定の人物や特定の事件をテーマにするのではなく、明治時代の前期全体をテーマにしたい、つまり明治前期を多面的、総合的に書きたいと思ったわけですね。だから、パリ万国博も、会津戦争も、五稜郭の戦争も、北海道開拓も、さらに自由民権運動も、大きな事件はみんなこのドラマに入れたい、しかもそれを多面的、総合的に書きたいと思った。そうなってくると、実在の特定の人物を主人公にしたのではどうもうまくいかない。架空の人物を主人公にしたほうが書きやすい》『街で話した言葉』

山田はまた、明治維新の敗者である会津藩士と、勝者である薩摩藩士と主人公を2人立てることによって、《明治前期を勝った側、負けた側、光と影、陰と陽の両面から書くことが》できると書いている。
明治前半の事件総ざらいといった趣きの「獅子の時代」には、先の引用文にあがっている以外にも、西南戦争はもちろん、会津戦争での敗戦後、青森・下北半島に移住した旧会津藩士たちの過酷な開墾生活も描かれた。

主役のひとり銑次は劇中、たびたび官憲に捕えられ、後半にいたっても北海道の樺戸集治監に収監され脱獄したり、最後は自由民権運動の高まりのなか起こった秩父困民党の蜂起に参加する。歴代大河のなかでも彼ほど移動を続けた主人公もいないだろう。実際、スタジオ撮影の多い大河のなかでも、ロケ日数のもっとも多かった作品だという(鈴木嘉一『大河ドラマの50年』)。

「獅子の時代」には実在の人物も多数登場するのだが、権力の側ではとくに大久保利通(鶴田浩二)と伊藤博文(根津甚八)がクローズアップされている。従来、冷徹な実務家というイメージの強かった大久保だが、このドラマでは理想を語り、同郷の後輩である嘉顕など若手の面倒見のいい情のある人間として描かれた。
このあたり、この前後の山田太一作品「男たちの旅路」シリーズで鶴田が演じた戦中派の警備員・吉岡と重なる。むしろ冷徹な人物として描かれているのは伊藤のほうであり、シリーズ終盤、理想的な憲法案を実現しようとする嘉顕の前に立ちはだかる。

銑次も嘉顕も、自らの信じる理想に生きた、ある意味ファンタジックな存在だ。思えば山田太一の作品には、社会派ファンタジーというか大人のファンタジーともいうべき趣きを持ったものが少なくない。たとえば前出の「男たちの旅路」シリーズでいえば、「シルバーシート」は、社会から見捨てられた老人たちが路面電車に立て籠もって抵抗するという、現実にはありえなさそうなできごとを描きながらも、高齢化の問題を視聴者に突きつけてみせた。明治に起きた事件にことごとくかかわりを持つという、現実にはいるはずもない人物を主役に据えつつ、この時代の本質をあぶり出そうとした「獅子の時代」も、こうした作品の系譜に位置づけられるのではないだろうか。


■中島丈博脚本の明治物は昼ドラ調!?――「春の波涛」(1985年)
1984年から3年間、大河ドラマでは従来の時代物を一旦休止し近現代がテーマとなった。近現代シリーズの2作目にあたり、日本における女優1号の川上貞奴の半生を描いたこのドラマ(原作は杉本苑子『冥府回廊』、『マダム貞奴』)は、放送終了と前後して、貞奴の伝記作者から著作権を侵害されたとして訴えられている。結果的に原告側の訴えは棄却されたものの、10年以上もの裁判が続いたためか、いまもってソフト化されていない。それが最近になってやっとCSで本編が再放送されたほか、NHKオンデマンドでも昨年10月より総集編が配信されている(配信は今年11月3日まで)。当時小学3年生ながらこのドラマをオンタイムで見ていたぼくは、28年ぶりにNHKオンデマンドで視聴したのだが、明治村のプロモーションビデオのようなオープニングからして懐かしかった。

本記事でとりあげたうち本作だけは幕末が舞台とならず、物語は明治10年代、自由民権運の時代から始まる。ヒロイン貞奴を松坂慶子、その夫で俳優の川上音二郎を中村雅俊、さらに貞とは生涯を通じ深い交友のあった実業家の福沢桃介を風間杜夫がそれぞれ演じている。その3年前に公開された映画「蒲田行進曲」では松坂と風間が共演(しかも松坂はこの映画でも女優の役)、中村が主題歌「恋人も濡れる街角」を歌っていたことを考えれば、このドラマのキャスティングは「蒲田行進曲」を見て決めたんじゃないかと思わせる。

冗談はさておき、劇中では先述の3人に加え、桃介の妻で福沢諭吉の娘である房子(檀ふみ)、さらに時代を下り、貞奴の女優としての最大のライバルとなった松井須磨子(名取裕子)も登場することで、ことあるごとに女たちの対決が展開される。とりわけ、桃介と房子と貞奴の三角形は、ドラマ後半まで引きずられることになる。

桃介は房子との結婚前、貞奴と互いに愛しあいながらも、経済的な事情から断念する。彼は諭吉の娘婿となることで、その援助を得てアメリカに留学したのち実業界にデビューすることができたのだ。そんな桃介に対し、房子は夫はあくまで留学めあてで結婚したのであって、自分を愛しているわけではないという思いを終始抱いていた。そんな思いから、房子は桃介に直接思いをぶつけたり、自邸に小劇場を建てることになったときには、貞奴に舞台を立たせようとする夫に対し、妻は松井須磨子の出演を画策する。脚本を手がけた中島丈博が後年、昼ドラで男女のドロドロを好んで描くようになることを考えると、その片鱗はすでに現れていたといえる(そういえば「春の波涛」というタイトルからしてどこか昼ドラっぽい)。

もっとも、一年分のドラマをわずか3時間にまとめた総集編では、修羅場らしい修羅場はほとんどカットされてしまっている。おまけに、本編に出てくる山県有朋(高橋悦史)、坪内逍遥(仲谷昇)、黒岩涙香(滝田栄)、平塚らいてう(岡本麗)など明治を彩った人物の登場シーンもことごとく削られ、蟹江敬三演じる幸徳秋水もほんの一瞬だけ出てくるだけである。明治物としてもっと楽しみたいので、ここはぜひ本編のほうもオンデマンド配信されることを切に願いたい。

■大河における西郷・大久保像の決定版――「翔ぶが如く」(1990年)
大河ドラマにはたびたび原作を提供してきた司馬遼太郎だが、「維新の元勲」西郷隆盛と大久保利通を主人公とした『翔ぶが如く』については映像化をずっと断ってきたという。それが平成に時代が移ってまもなくドラマ化されるにいたった。

司馬の原作では、明治政府内にあって両者が「征韓論」の是非をめぐり対立したのち、野に下った西郷が不平士族とともに決起した西南戦争までが描かれる。ただし、これだけでは主人公の一生を視野に入れる大河ドラマになりにくい。そこで、司馬のほかのいくつかの作品を下敷きに、西郷と大久保の青春時代から江戸開城までを描いた「第1部」と、維新後を描く「第2部」の二部構成となった(鈴木嘉一『大河ドラマの50年』)。なお脚本は、「3年B組金八先生」(1979年)をヒットさせ、大河ドラマでは「徳川家康」(1983年)を手がけた小山内美江子が担当している。

この前より大河ドラマにたびたび登場した西郷と大久保だが、「翔ぶが如く」で西田敏行と鹿賀丈史が演じた両者はその決定版という印象がある(ちなみに西田と鹿賀の年齢差はちょうど西郷と大久保と同じ3歳違い)。とりわけ劇中の西田の風貌は、後世に伝えられる西郷の肖像にもそっくりだった。その後の大河での西郷役……渡辺徹(「徳川慶喜」1998年)、宇梶剛士(「新選組!」2004年)、小澤征悦(「篤姫」2008年)、高橋克実(「龍馬伝」2010年)、そして「八重の桜」では吉川晃司といったキャスティングからは、あえて一般的なイメージから外そうというつくり手の意図を感じる。これというのも、西田の演じた西郷像があまりにも完成されていたからではないだろうか。

西郷と大久保を取り巻く明治政府の面々では、朝鮮問題において西郷と同調しつつも謀略をめぐらす江藤新平を、隆大介が不気味に演じているのが目を惹く。政府ではこのほか、岩倉具視(小林稔侍)と三条実美(角野卓造)ら公家たちが、気まぐれで大久保と西郷を翻弄する(なお、角野が「幸楽」でラーメンをつくり始めたのはこのドラマの放送と同じ1990年)。ただ、彼らの演技はちょっと軽すぎやしないかという気もしないではない。小倉久寛演じる伊藤博文にいたっては、ほとんどコメディリリーフ的役回りだ。この点、「獅子の時代」での伊藤とはかなり違う。

とはいえ、大久保が冷徹なイメージではなく、情に厚い人物として描かれたことは「獅子の時代」と通じる。西郷の考えに大久保は真っ向から反対するのだが、その本意は(史実はどうあれ)、西郷がそのカリスマゆえ若い武士から担ぎ上げられ、いずれはつぶされてしまうのではないかという懸念からだった。年齢からいっても西郷のほうが兄貴分なのだが、最後まで純粋に理想を追いかける西郷に対し、大久保は新しい国づくりのため権謀術数をめぐらせる。大人になった大久保と、子供のような純粋さを捨てきれなかった西郷と、このドラマは両者の立場が逆転するさまを描いた物語と見ることもできるかもしれない。

最後にもう一度「八重の桜」に話を戻すと、その作者である山本むつみはかつて、NHKの連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」(2010年)の脚本執筆にあたり、ある程度取材をした段階で、まず年表をつくったという。年表には、主役である水木しげる夫妻と家族の変遷だけでなく、マンガ関係のできごとや、同時代の社会でのできごとなどが書きこまれ、それをもとにドラマ全体の構成案、主要人物のキャラクター表をつくっていったというのだ(「ドラマ」2010年11月号)。そのおかげだろう、「ゲゲゲの女房」はその時代ごとの世相もうまくとりこみながら物語を展開させていた。

山本は《自分でいろんなことを調べながら、そこから人間の何かを発見していって、物語に血を通わせていく――(中略)そういう仕事の仕方をしていきたいなと思っています》とも語っていた(前掲)。その姿勢は大河ドラマを手がけるにあたっても変わってはいまい。綿密に調べた史実を生かしつつ、そこからどんな人間ドラマが描かれるのか、今後がますます楽しみだ。(近藤正高)