さて、紅白出場回数で森に次ぐのが、今回で44回を数える五木ひろしである。2人は何かと対比されるが、先に売れたのは森であり、五木はブレイクまでに長い下積み生活を送っている。レコード会社も芸名も何度か変えた五木は、1971年、23歳にして現在の芸名で再デビューを果たした。その再起の曲こそ、今回の紅白で歌われる予定の「よこはま・たそがれ」だった。この歌の作詞者は、今年9月に77歳で亡くなった山口洋子である。山口は生前、五木に対し「あたなは歌がうまい。しかしあなたがもし迷ったりなんかしたときは、『よこはま・たそがれ』を思い出して」とよく言っていたという(山口洋子『ヒット曲、スゴイ話』)。それだけに、彼女を追悼するのにこの選曲ほどふさわしいものはないだろう。
■崖っぷちの無名歌手に「闘う男」の姿を見た山口洋子
山口と五木の出会いは1970年にさかのぼる。当時「三谷謙」という芸名で活動していた五木は、大阪の読売テレビの「全日本歌謡選手権」というオーディション番組に出場した。
一方、山口はこのとき、のちに「よこはま・たそがれ」でコンビを組む作曲家の平尾昌晃とともに審査員を務めていた。ほかの審査員から酷評も出るなかで、山口はいち早く五木に注目する。《彼が手にしたマイクロフォンがナイフかピストルに見えました。マイクを持って闘う男がいるんだな》と、歌う五木のなかに闘う姿を見出したというのだ(五木ひろし・坂上直人『五木ひろし ファイティングポーズの想い』)。ここで彼女が、同じ闘う男として思い浮かべたのが、野口プロモーション社長の野口修だった。キックボクシングのプロモーターとしてその日本での普及に貢献した野口は、ちょうどこのころ芸能界にも進出しようとしていた。五木が見事10週を勝ち抜いていく過程で、山口は五木に野口を紹介、その場で野口プロモーション入りが決まる。
そもそも山口は、1956年、19歳にして銀座に高級クラブ「姫」を開店し、その経営のかたわら1968年頃から作詞に手を染めていた。先のオーディション番組での審査員もその流れから引き受けたものである。
■“陳腐な言葉”を並べてヒットを狙った「よこはま・たそがれ」
「よこはま・たそがれ」の作詞にあたっても、山口はいくつかの斬新なアイデアを実行に移した。このときお手本の一つにしたのが、同じく横浜を歌った青江三奈のヒット曲「伊勢佐木町ブルース」(1968年)だった。その出だしの歌詞に「あなた知ってる 港ヨコハマ」と“てにをは”がないことに着目した山口は、こんな歌をつくってみたいと考えたという。
さらに、ある雑誌で、日本の歌謡曲は同じ言葉の繰り返しばかりで陳腐だと批判する記事が目にとまる。
再デビューにあたり提供されたこの歌に五木は絶対の自信を持ち、レコードが発売されるや全国各地をプロモーションで駆け回った。その甲斐あって、ヒットチャートでも徐々にランクを上げ、ついには1位を獲得する。それを羽田空港で伝えられた五木は、すぐさま公衆電話から山口に報告したのだが、感激と興奮でまともに言葉が出ず、受話器を握りしめたまま泣きじゃくったという。「よこはま・たそがれ」は、この年の日本レコード大賞歌唱賞など数々の賞を受賞するにいたった。
それからというもの山口は五木に、レコード大賞を受賞した「夜空」(1973年)や、同じ年の紅白歌合戦で歌った「ふるさと」、あるいは「千曲川」(1975年)など続々と歌を提供し、ヒットさせている。五木・山口・野口による三角関係はその後、1979年に五木が野口プロから独立するまで続いた。奇しくも同年、森進一も所属した渡辺プロダクションから独立している。
■あのプロ野球選手も愛唱していた「ブランデーグラス」
山口は作詞家として成功するばかりか、のちには小説家となり、1985年には「演歌の虫」「老梅」で直木賞も受賞している。
スポーツ記者としてプロ野球選手たちと交友するなかで、こんなできごともあったという。それは石原裕次郎に山口が提供した「ブランデーグラス」(小谷充作曲)にまつわるエピソードだ。この曲は1977年にレコードが発売されたものの、すぐに廃盤になってしまう。ただし、石原のレコードのディレクターを長らく務めた高柳六郎によれば、「ブランデーグラス」はレコード会社の意向で初回3500枚しかプレスされなかったというから(『石原裕次郎 歌伝説』)、廃盤というかすぐに品切れになってしまったのだろう。しかし、それでもカラオケではひそかに歌われ続けていたようだ。山口はその現場に、広島カープの宮崎・日南キャンプの取材中に遭遇する。
それは、キャンプ地での選手たち行きつけのスナックに連れて行ったときのこと。ミスター赤ヘルこと山本浩二が、突然「ブランデーグラス」を歌い出した。
リリースから2年ほどして、この歌は大ヒットとなった。そのきっかけとしては、ドラマ「西部警察」の劇中で石原裕次郎が歌ったことが大きかったとはいえ、すでにそれ以前より、各地の有線のリクエストではじわじわと上位に入るようになっていた。山口は、東京から遠く南のスナックに、廃盤の憂き目にあった曲のカラオケテープと歌詞カードがそろっていたことにびっくりしたようだが、そんなふうに地方で歌ったり有線にリクエストしてくれる人たちがいたからこそ、何年か越しでのヒットに結びついたのだろう。歌をつくる人たちの理想としてよく、詠み人知らずで人々の心に残る歌をつくりたいということがいわれる。「ブランデーグラス」はまさにその言葉どおり、人々の心に生き続けていたのであった。
(近藤正高)