ロッキード事件50年の今年、人間・田中角栄への関心が高まっている。セブン‐イレブン書籍『角栄語録 愛と理』を書いたジャーナリストの欠端大林さんは「先ごろ亡くなられた元自民党総裁の河野洋平氏は、一度は角栄に反旗を翻しながら、後年その葬儀委員長を務めることになった。
人の縁の不思議というものを感じる」という――。(第1回/全4回)
■河野洋平と田中角栄一家の不思議な縁
自民党総裁、衆議院議長などを歴任し、ハト派の象徴として知られた河野洋平氏が6月8日、死去した。89歳だった。
河野氏の訃報に接し、「お兄さんが死んだような気持ち」とその死を家族同様に悼んだ人物がいる。元外相の田中眞紀子氏(82)だ。その言葉どおり、河野氏の政治家人生は田中家との不思議な縁に彩られている。
早稲田大学を卒業し、1959(昭和34)年に総合商社の丸紅飯田(現・丸紅)に就職した河野氏は、入社後すぐに米国サンフランシスコ支店に赴任。その後、スタンフォード大学の聴講生となった。
同時期に、高校生だった眞紀子氏は米国に留学。自民党の大物政治家を父に持つ2人は、この時代に共通の知人を介して知己を得ており、後に共に政界入りを果たしてからも長い交流が続くことになる。
河野氏は父・一郎の死去を受け1967(昭和42)年の衆院選に出馬し、初当選を果たす。自民党の若きプリンスとして王道を歩むと思われた河野氏だが、その先に意外な転機が待ち受けていた。

■「角栄逮捕」と「新自由クラブ結成」
1976(昭和51)年6月、ロッキード事件の捜査が進展し「角栄逮捕」の可能性が現実味を帯びるようになる。
河野氏はこのとき「金権打破」を掲げ自民党を離党。同志6人とともに新党「新自由クラブ」を結成し、自ら代表に就任した。
河野氏の行動はロッキード批判、すなわち田中角栄批判であり、当時の自民党では最大派閥にケンカを得る「自殺行為」と見る向きが多かった。
それでも、田中角栄政権時代に文部政務次官をつとめ、日中国交正常化に賛成していた河野氏は、角栄に仁義を切って離党しようとしたのである。
■反旗を翻した人物に角栄が送った意外な言葉
普通の政治家であれば、自分に弓を引いた人間を許すことはない。だが、角栄は普通の政治家ではなかった。秘密裏に面会を求めた河野氏を受け入れただけでなく、新党結成をこう評価してみせた。
「新党には必然性がある。しっかりやれ。ただし6人じゃ少ない。次の選挙はどうする。
俺が幹事長だったら15人はつけてやるところだが……。6人しかいないのだから、毎日朝昼晩と一緒に飯を食え。できるだけ一緒にいることだ」
「政敵」の肩を叩き、激励した角栄――河野氏はこの日のことを「絶対に忘れることができない」と回想している。
もっとも、角栄は周囲にこう語っていた。
「洋平君は、必ず自民党に戻ってくる。俺は信じている」
■的中した角栄の予言
角栄の予言は的中した。新自由クラブは内部分裂を経て1986(昭和61)年に解党。河野氏は自民党に復帰した。だがその前年、脳梗塞に倒れていた角栄は、このときすでに政治生命を失っていたのである。
田中角栄元首相が死去した1993(平成5年)12月16日。東京・目白の私邸には旧田中派の国会議員をはじめ、政財界の要人ら数百人が弔問に訪れたが、田中家から遺体との対面を許されたのは3人だけだった。
その3人とは、当時の細川護熙首相、土井たか子衆議院議長、そして河野洋平自民党総裁である。
厳密には、土井氏と行動をともにしていた鯨岡兵輔・衆議院副議長を含めた4人の議員だけが、角栄のなきがらを前に手を合わせることができた。
■「自民党のことが本当に好きでした」
「父は、自民党のことが本当に好きでした」
角栄の棺の前で、衆院議員になっていた眞紀子氏はそう語ったという。
当初、眞紀子氏は「オヤジの顔を見て、最後のお別れをしたい」という旧田中派議員たちの希望を頑として受け付けなかった。権力闘争に明け暮れた晩年の父の姿を目の当たりにしていた当時の眞紀子氏には、根深い人間不信が宿っていた。
だが、16日夕方になって細川護熙首相が直々に弔問に訪れると、潮目が変わる。
■長い闘いが終わった日
細川氏は一国の宰相であり、参議院議員時代には田中派にも所属したかつての弟子でもある。
田中家も遺体との対面を断ることはできなかったが、日本新党所属の細川首相を棺の場所まで通すのであれば、時の自民党総裁にも同じ対応をしなければならない――そんな眞紀子氏の判断で、すでに弔問を終えていた河野洋平総裁が急遽、呼び戻された。
「やはり顔を見てあげてください」
目白の私邸の2階に眠っていた角栄の表情は、長きにわたる闘いからようやく解放され、実に穏やかだったという。
1955(昭和30)年の保守合同による自由民主党結成に尽力した吉田茂元首相の側近グループ、いわゆる「吉田13人衆」の1人でもあった角栄は、自民党創始者としてのプライドを大切にしていた。
ロッキード事件を機に自民党を離党していた角栄だったが、あえて河野氏を呼び戻した背景には、父の「自民党愛」に敬意を示そうとした眞紀子氏の思いが垣間見える。
■角栄の葬儀委員長をつとめた河野洋平
角栄の葬儀委員長をつとめたのも河野氏である。弔辞の冒頭ではこう述べた。

「私は去る16日午後、先生が何よりも好きだといわれていた自由民主党の、かつてその主であられた総裁室で、悲しいご逝去の知らせを聞きました」
そしてロッキード事件、自身の過去の自民党離党・復党に言及するなど、弔辞としては異例の内容が盛り込まれた。「金権政治」をめぐる両者の相克は20年近い歳月を経て、総括されるに至ったのである。
■河野外相の後任は眞紀子氏に
1993(平成5)年の衆院選で初当選を果たした眞紀子氏はその翌年、新人議員ながら村山富市内閣において科学技術庁長官に抜擢され、話題を呼んだ。
2001(平成13)年には小泉政権で外相に就任。河野氏は1980年代に科学技術庁長官をつとめており、また眞紀子氏の前任の外相も河野氏だった。
「僕のあとばかりついてくるなよ」
河野氏は冗談を言いつつも、眞紀子氏に外交の要諦を懇切丁寧に教えたという。長きにわたり衆議院議長をつとめた河野氏は2009(平成21)年、自民党所属議員として政界を引退した。
河野氏の死去によって、昭和政界の残像はまた薄くなった。
折しも若き日の河野氏が自民党を飛び出す契機となったロッキード事件から、ちょうど50年の節目を迎えようとしている。泉下の角栄と再会した河野氏はいま、何を語っているのだろうか。

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欠端 大林(かけはた・ひろき)

ジャーナリスト

1971年千葉県生まれ。筑波大学卒業後、1998年に宝島社入社。
『宝島』『別冊宝島』編集部で広くノンフィクションを担当。2021年に独立し、戦後史をテーマに取材を続ける。山本皓一氏との出会いを機に、田中角栄の豪快な生き方と人間的魅力に着目。85万部のベストセラーとなった『田中角栄100の言葉』をはじめ、田中角栄関連の書籍を多数企画・編集し、現代における「角栄再評価」のムーブメントを牽引している。

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(ジャーナリスト 欠端 大林)
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