Netflixの恋愛リアリティ番組「ラヴ上等」シーズン2で配信された内容が炎上している。作家・批評家の物江潤さんは「不要な炎上リスクを放置した制作側の落ち度はあるが、番組が犯罪自慢をしているという批判は大いに間違っている」という――。

■「犯罪自慢」という批判は間違っている
ずいぶんと、アンフェアで非生産的な議論だなと思った。Netflixの番組『ラヴ上等』を巡る炎上の件である。
『ラヴ上等』は、非行歴や少年院への収容歴など、様々な過去を持つ男女が共同生活を送る恋愛リアリティーショーだ。シーズン2では、出演者の一人が過去に「人に火をつけた」と告白した場面が問題視され、SNS上では「犯罪自慢をしている」「そんな人物をエンタメに出すべきではない」といった批判が広がった。法務省が番組とタイアップしていたことも火に油を注ぎ、同省は8月21日、タイアップの取りやめを発表した。
しかし、「犯罪自慢をしている」という批判には違和感を禁じ得ない。
東洋経済オンラインの記事は、問題の場面を視聴したうえで、「『武勇伝のように犯罪行為を語る人間をメディアに出すな』という論調は完全に間違っている」と指摘しているが、少なくとも番組全体の文脈を見れば十分に理解できる話だろう。武勇伝ではなく、むしろ後悔や懺悔の文脈で過去の犯罪について語られるからだ。
もっとも、「人に火をつけた」と告白した場面を、そのまま放送した制作側の判断が適切だったかは別問題だ。
私自身、炎上する前に視聴した際には嫌悪感とともに「なぜカットしなかったのだろう」「これは炎上するのでは」と即座に感じた。結果、実際に炎上し、番組がねじ曲げられて解釈されてしまったうえに、出演者たちには多数の誹謗中傷が届いた。明白な炎上リスクを放置し、出演者たちにリスクを負わせたという点において、制作側に落ち度があったことは否めない。

■私が番組に見た根深い問題
私は以前から同番組を視聴しており、シーズン1およびシーズン2の最新話まで全て視聴済みだ。そして同番組について最も考えさせられたのが、「加害の連鎖」と、それをどうすれば断ち切れるのかという問題である。
出演者のなかには、親から日常的に暴力や虐待を受けた者、施設で育った者など、過酷な環境で幼少期を過ごしたケースが目立つ。
シーズン2の第二話では、出演者たちに、自分が犯した過ちを反省し、他者の失敗や後悔を聞いて自身にも照らし合わせ、学ぶよう促すプログラムが行われる。そのなかで、外国にルーツを持つある出演者が、杖で叩かれながら『国に帰れ』と、実の祖父から言われた経験を明かしている。
なお、家に両親はおらず、暴力を振るう祖父がいたことに加え、「おばあちゃんっこで、おばあちゃんに迷惑をかけたくない」という理由から家出をし、学校にも行かず中学1年からガールズバーなどで働き寮生活をしていたという。
だから情状酌量の余地がある、という話をしたいのでは全くない。
本稿で考えたいのは、小児期逆境体験(ACE)がもたらすリスクと、その連鎖を断つ方法である。そして加害者を減らす試みとして考えれば、彼らを許せない人にとっても、いや、むしろ許容できないからこそ議論の土俵に乗れるテーマであるはずだ。
■研究・調査が示す「加害の連鎖」が起きる理由
今年4月、京都大学は、近畿地方の公立中学校5校の生徒1820人を対象とした「国際自己申告非行調査(ISRD)」の結果を公表した。過去1年間に何らかの非行を経験した割合は、親から暴力を受けた経験のない生徒では2.8%だったのに対し、暴力を受けた生徒では9.9%であり、約3.5倍に達する。さらに、2種類以上の非行を経験した割合は0.6%と3.3%で、後者は前者の5倍を超えた。

令和5年版犯罪白書では、少年院在院者の61.0%が家族から殴る、蹴るといった身体的暴力を受け、34.8%は母親が父親や母親の恋人から暴力を受けていたと回答している。また、何らかの小児期逆境体験を持つ割合は、少年院在院者で87.6%、保護観察処分少年で58.4%に達する。
京都大学の調査と合わせれば、幼少期の過酷な経験と非行との間に強い関連があることがわかる。ここには、加害を受けた子どもが自らも非行に関わる側へ回ってしまう「加害の連鎖」の一端を見て取ることができる。
この連鎖は、家庭内という個人的で見えにくい世界ではじまるため、外部から異常を察知し、そして適切な対処をするのが極めて難しい。だからこそ、早めに連鎖を切ることが肝要になる。
■ヤンキーから受ける“事実上の教育”
しかし、この連鎖を断つ役割を、学校教育だけに背負わせることはできない。家庭で十分な養育を受けられず、すでに暴力や非行にさらされている子どもに対しては、授業や生活指導だけでは対応しきれない場合もある。まして、教員不足や採用難が続くなか、その対応を教師個人の熱意や力量に委ねるのには無理がある。
こうして家庭でも学校でも十分な支えを得られないまま、非行少年・少女がヤンキーのコミュニティーに入り浸るようになれば、今度はそこで事実上の教育を受けることになる。
危険な行為を実行しなければダサい、反社会的な行為に踏み切る者ほど度胸があり格好いいといった、一般社会では明確に否定される価値基準を、仲間から認められるために少しずつ内面化していくのである。
こうした連鎖を断つ試みの一つが、刑務所内で行われている治療共同体、TC(Therapeutic Community)だ。

TCでは、受刑者を単に指導される対象として扱わず、共同体そのものを回復のために利用する。参加者が自分の経験や感情を語り、他者の話を聴き、互いに意見を返す。そこで生じる人間関係も含めて、自分の価値観や行動を検討する材料にするのである。
実際、その効果を示す研究もある。毛利真弓・藤岡淳子による「刑務所内治療共同体の再入所低下効果」では、罪種や年齢、再犯リスクなどを統計的に調整したうえで比較すると、TC受講者148人と非受講者148人の刑務所への再入所率は、9.5%対19.6%で、統計的に有意な差があった。
■「ラヴ上等」にある意外な営み
では、なぜTCが有用なのか。その理由を一つに絞ることはできないが、毛利真弓氏の『刑務所に回復共同体をつくる』(青土社)には、その仕組みと受刑者に起こる変化が様々な角度から記されている。
そして興味深いのは、『ラヴ上等』にも、TCを思わせる営みが見られることだ。そのなかから、本稿の問題意識とも重なるものを一つ挙げるなら、自分の過去を語り、他者の過去を知ることによって、自分を縛ってきた「呪い」に気づいていくというプロセスだ。
自分がどのような価値観の下で育ってきたのかは、灯台下暗しよろしく、本人にはかえって見えにくい。が、共同体の別のメンバーが語る過去であれば、どのような環境がその人の価値観を形づくったのか、比較的よく見えるだろう。
その話の一部が自分の経験と重なったとき、他者を縛っていた「呪い」が、自分にもかけられていることに気づけるからだ。

ただし、呪いを認識すれば、それだけで回復できるわけではない。毛利氏は次のように書いている。
虐待の痛みの感覚を取り戻したり、生い立ちの中でかかっていた呪いに気づいたりすると、それだけで人生の謎が解け視野が広がり、新しい生き方を選択できる人もいる。しかし、実はその先には自己憐憫という落とし穴がある。こうだったから、ああだったからと他者に責任を擦りつけ、かわいそうな自分というストーリーに埋没して自分の人生を選択する責任を放棄してしまうということだ。
(毛利真弓著『刑務所に回復共同体をつくる』青土社、2024年)

■自己憐憫と心からの後悔
ここで重要なのは、過酷な生い立ちを語ることによって、自分の犯罪を免責するのではないという点だ。
自分が被害を受けてきた事実を理解したうえで、それを理由に加害の責任から逃れる「自己憐憫」と、自分が他者を傷つけた事実を引き受ける「心からの後悔」とを区別しなければならない。しかも本書が指摘するとおり、その区別は非常に難しいため、自己憐憫の罠に陥る危険がある。
そう考えれば、過酷な生い立ちを語ることが、加害者としての責任を薄めることにつながるのではないかという警戒自体は理解できる。もしかすると、自己憐憫の匂いを感じ取り批判を加えたSNS上のユーザーもいたのかもしれない。
しかし、自己憐憫と心からの後悔を区別するのは、決して容易ではない。まして、短く切り取られた映像だけを見た第三者が、出演者の内面を容易に判定できるはずもない。

自己憐憫ではないかと疑うことと、自己憐憫だと断定して人格を攻撃することは全く別である。実際、SNS上には批判の範囲を明らかに逸脱した、人格攻撃を含む誹謗中傷も確認されたが、それが許されないことは言うまでもない。
■番組に問題は多いが有意義ではある
『ラヴ上等』シーズン2は、Netflixの日本週間ランキングで3週連続1位となった。それだけ広く見られている番組なら、現在進行形で非行に走っている少年少女にも届きうる。学校や公的な支援につながっていない人にまで届くことは、娯楽作品、それもヤンキー文化を前面に出した番組だからこそ持ち得る力だろう。
同番組には、自分の過去を語り、他者の過去を聴き、人間関係のなかで自分を見つめ直すという、TCと重なる要素がある。その過程は出演者だけでなく、同じような境遇にいる視聴者にも、自分を縛ってきた価値観に気づく契機を与え得る。
一方で、自己憐憫の罠、被害者の視点の不在、不要な炎上リスクを放置した制作側の責任など、問題も多い。その結果、番組は「犯罪自慢」と歪めて理解され、出演者には人格攻撃を含む多数の誹謗中傷が向けられた。
扱いを誤れば、出演者だけでなく被害者をも傷つけかねない、極めてセンシティブな題材である。
■加害者を許せないからこそ
筆者は学習塾を経営して、今年で12年目になる。開塾以来、一貫して不登校の子どもを積極的に受け入れると明言してきた。
過去には、ヤンキーと思しき同級生からいじめを受け、不登校や引きこもりになった子どももいた。人生を謳歌する加害者がいる一方、かつての生活を取り戻せない被害者とその家族が苦しみ続けるという構図は、本当に理不尽極まりない。拙著『入試改革はなぜ狂って見えるか』(ちくま新書)にも書いたが、私にも加害者側に対する怒りがある。
しかし、だからこそ、同じ被害を生む加害者を一人でも減らすために何が有効なのかを冷静に検討し、社会として合意をつくっていくべきだ。怒りというエネルギーを誹謗中傷に変えても、解決するどころか事態が悪化するだけではないか。
この問題について、私はせいぜい、つまさきを踏み入れているにすぎない。だから、炎上がもう少し落ち着いた後には、この問題と日々闘っている専門家や現場の方々にも、『ラヴ上等』が何を捉え、何を見落としたのかを検討していただければと思う。
「犯罪自慢をしている番組なのか」というところで議論を終わらせるのではなく、加害に至った人間が何を背負い、どうすれば同じ加害を繰り返さずに済むのかまで考えることで初めて、この番組をめぐる炎上を、次の被害者を生まないための教育や支援の議論へと変えられるはずだ。

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物江 潤(ものえ・じゅん)

作家・批評家

1985年福島県生まれ。早稲田大学理工学部卒業後、東北電力、松下政経塾を経て、政治・社会・教育などについて執筆活動を続けている。著書に『空気が支配する国』(新潮新書)『入試改革はなぜ狂って見えるか』(ちくま新書)『現代人を救うアンパンマンの哲学』(朝日新書)など。近著に、尾崎行雄記念財団「咢堂ブックオブザイヤー2025」選挙部門大賞を受賞した『SNS選挙という罠』(平凡社新書)がある。

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(作家・批評家 物江 潤)
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