連載第110回(最終回) 
サッカー観戦7700試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 現場観戦7700試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 北中米大会でじつに14大会連続のW杯観戦になる後藤氏。

今回は、準優勝に終わったアルゼンチンのW杯史を紹介します。

【ワールドカップ】アルゼンチンが「世界の嫌われ者」になってい...の画像はこちら >>

【ヤマルを抱擁するメッシ

 W杯決勝はスペインの完勝に終わった。

 アルゼンチンは激しく体をぶつけてスペインの組織を破壊しようと試みたが、スペインは決して攻め急ぐことなく、アルゼンチンのカウンターを警戒しながらポゼッションの時間を長くして、少しずつ圧力を高めていった。

 アルゼンチンは劣勢に追い込まれ、後半アディショナルタイムにはMFエンソ・フェルナンデスが2枚目のイエローカードで退場。アルゼンチンはひとり少なくなってしまう。

 しかし、それでもスペインは攻め急ぐことなく、延長後半に入ったところでロングクロスから最後はフェラン・トーレスが仕留めてようやく先制する。それでも、アルゼンチンは驚異の粘りを見せて終了間際にCKから決定機を作ったが、ジュリアーノ・シメオネのシュートはクロスバーを越えて万事休す。

 準決勝では組織対組織の戦いでフランスに完勝し、決勝ではスクランブルの戦いを挑んできたアルゼンチンを落ち着いて退けたスペイン......。グループリーグ初戦こそカーボベルデとまさかのスコアレスドローに終わったものの、試合ごとに状態を上げ、8試合を戦って失点は準々決勝ベルギー戦の1点だけ。「完全優勝」と言っていいだろう。

 アルゼンチンは持ち前の勝負強さを発揮して、何度も逆転勝ちを演じて決勝に進出。「W杯連覇」に挑戦したが、最強スペインに跳ね返された。

 試合後に小競り合いはあったようだが、アルゼンチンの選手たちは敗北を認め、リオネル・メッシがバルセロナでの10番の後継者ラミン・ヤマルを抱擁する場面もあった。

メッシのW杯への挑戦もこれが最後になるかと思われるが、表彰式後のメッシの表情を見るとまるで雪辱を期しているようにも見えた。

 第1回大会開催から100周年となる4年後のW杯は、メッシが育ったスペインなどで開催され、アルゼンチンでも開幕戦が開催される。その晴れの舞台にメッシが再び立つことがないと誰が言いきれるだろうか。

 いずれにしても、メッシは悲しげではあったものの、引き締まった表情でピッチを去っていった。36年前のディエゴ・マラドーナとの大きな違いである。

【1990年W杯 イタリアで嫌われたマラドーナ】

 今から36年前の1990年イタリアW杯ではマラドーナのアルゼンチンがW杯連覇に挑戦した。

 マラドーナは1986年メキシコW杯では"神の手"や"5人抜き"など数々のスーパープレーで世界を魅了し、アルゼンチンは西ドイツを破って2度目の優勝を飾っていた。

 だが、1990年イタリアW杯ではマラドーナは両膝に故障を抱えて万全からはほど遠い状態。開幕戦でカメルーンに敗れたアルゼンチンだったが、グループリーグを3位で通過すると、ラウンド16では宿敵ブラジルに圧倒されながらマラドーナのドリブルからクラウディオ・カニージャの一撃で勝利するなど、驚異の粘りで決勝まで勝ち残った。

 4年前と同じ西ドイツとの顔合わせとなった決勝戦は、守備的サッカーが横行していた時代を象徴するような試合展開で、スコアレスのまま迎えた85分にアンドレアス・ブレーメがPKを決めて西ドイツが雪辱を果たした。

 この時、決勝戦の舞台となったローマのスタディオ・オリンピコのスタンドは西ドイツの応援一色だった(現在のようにアルゼンチン本国から数万人のサポーターが詰めかけるといった時代ではなかった)。そして、試合後の表彰式では涙に暮れるマラドーナに対して容赦ないブーイングと口笛が浴びせかけられた。

 あの時、人々はなぜそこまでマラドーナとアルゼンチンを忌み嫌ったのか......。

 ひとつにはきわめてイタリア的な事情があった。

 当時、マラドーナはセリエAのナポリでプレーしていた。

 イタリアは南北の地域間格差が大きな国だ。南部は豊かな北部から一種の差別を受けていた。そんななかで、マラドーナのナポリは1986-87、1989-90シーズンにスクデットを獲得した。南部のチームがセリエAで優勝するのは1969-70シーズンのカリアリ以来のことだった。

 ナポリの優勝は南部の人たちからすれば「歴史的快挙」だが、それまでタイトルを独占し続けていたユベントスやミラン、インテルなどの北部からすれば「マラドーナにタイトルを盗まれた」ということにほかならなかった。

 そのナポリの2度目の戴冠はイタリアW杯開幕直前のことだった。

 W杯でロベルト・バッジョやサルバトーレ・"トト"・スキラッチの活躍で順調に勝ち上がってきたイタリア代表の前に準決勝で立ちはだかったのは、そのマラドーナ率いるアルゼンチンだった。

 しかも、会場はよりによってナポリの本拠地スタディオ・サンパオロだったのだ。

 当日、ローマの新聞は「ナポリはイタリアか?」という見出しを掲げた。「ナポリの人たちはアッズーリとマラドーナのどちらを応援するのか?」という疑問を投げかけたのだ。

 ナポリの人たちも、複雑な気持ちを抱きながらもイタリアを応援した。だが、イタリアはアルゼンチンの前に敗れてしまったのである。

 イタリアの人々のそうした複雑な感情が、西ドイツに敗れて涙に暮れるマラドーナに注がれたというわけである。

【嫌アルゼンチン感情の定着】

 しかし、"アルゼンチン嫌い"の感情は「1990年のイタリア」という特殊な状況のせいばかりではなかった。アルゼンチンは、いつでも不人気だった。

 アルゼンチンサッカーの黄金期は1940年代で、当時のアルゼンチンの攻撃力に対抗するためにブラジルはDF4人を並べる4-2-4システムを発明したとも言われている。

 だが、残念ながら1940年代は第2次世界大戦のためにW杯は開かれなかった。1950年代に入ってW杯が再開されたが、アルゼンチンは経済的に苦しい時期を迎えており、代表チームの戦力も落ちて欧州勢に勝つことができなかった。

 そこで、欧州に勝つためにアルゼンチンはより守備的、体力的で、時に暴力的なサッカーを選択した。

 1966年W杯の準々決勝でアルゼンチンは開催国イングランドと対戦した。ウェンブリーでのアウェーである。そして、キャプテンのアントニオ・ラティン(今年の7月11日に死去)はレフェリーのルドルフ・クライトライン(西ドイツ)に退場を命じられたものの判定を拒否。ふたりの警察官に抱えられてピッチを後にすることになる。

 ラティンは英語を理解できず、クライトライン主審はスペイン語を話せなかったのが原因とも言われるが、アルゼンチンに対するイメージは大きく損なわれた。

 その後、1960年代には欧州チャンピオンズカップ勝者とコパ・リベルタドーレス勝者の間で争われたインターコンチネンタル杯でアルゼンチンのクラブが欧州クラブと何度も乱闘騒ぎを起こし、欧州では嫌アルゼンチン感情が定着していった(結局、インターコンチネンタル杯は開催不能となり、中立地である東京でトヨタカップが行なわれることになった)。

 1978年のW杯はアルゼンチンで開催され、この時はインテリジェンスを重視するセサール・ルイス・メノッティ監督が攻撃的なすばらしいチームを作って、アルゼンチンは初優勝を果たした。

 しかし、当時のアルゼンチンは軍事独裁政権によって多くの一般市民が拘束され、殺害されるという状況下にあり、欧州各国ではボイコット論も高まっていた。

 この大会の2次リーグ最終戦でアルゼンチンは6ゴールを奪ってペルーに大勝し、得失点差でブラジルを上回って決勝進出を遂げたのだが、アルゼンチンの軍事政権がペルー政府に対して圧力を加えたのではないかとの噂が駆け巡った。

 こうして、せっかく開催国優勝を遂げたにも関わらず、アルゼンチンに対するイメージが回復することはなかったのだ。

 1980年代のアルゼンチンには「神の子」と呼ばれたマラドーナがいた。

 だが、マラドーナは常に「反逆児」として振る舞ったため、アルゼンチン国外では反感を持つ人も多かった。優勝した1986年のメキシコW杯では"5人抜き"など天才的な才能を見せつけたが、同時に"神の手ゴール"はフェアプレーを重視するイングランドでは忌み嫌われることとなった。

【メッシが果たした歴史的な役割】

 ラテンアメリカ諸国でも、アルゼンチンは支持されたわけではない。

 アルゼンチンにはスペイン系やイタリア系の白人が多く、20世紀初頭には経済的に繁栄。首都のブエノスアイレスは「南米のパリ」とも称された。

そういう欧州系移民中心のアルゼンチンに対する反発の感情も強かったのだ。

 マラドーナが主役となった1986年のメキシコW杯で、地元メキシコの人たちはまず自分たちの国であるメキシコを応援したが、次に彼らが応援したのはブラジルだった。そして、メキシコとブラジルが準々決勝で敗れてしまったので、メキシコの人たちも仕方なくアルゼンチンを応援するようになったのだ。

 当時は、日本でもブラジル人気が圧倒的で、「アルゼンチン好き」は肩身の狭い思いをしたものである。

 そんな"アルゼンチン嫌い"の風潮を変えて世界中にアルゼンチンファンを増やしたことも、メッシという選手の果たした歴史的な役割だったのではないだろうか。

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