野球の未来を見ていた男~近藤貞雄伝
証言者・嶋田信敏(後編)

「私の野球の集大成をお見せして、優勝を狙いたい」──。就任発表会見でそう宣言した近藤貞雄は、日本ハムの新監督として、1989年2月の春季キャンプから早くも自分の色を打ち出した。

【プロ野球】「監督が褒めてたぜ」は、近藤貞雄が記者に頼んだ仕...の画像はこちら >>

【広い球場だからこそ浅く守る】

 背番号は、当時の年齢と同じ「63」。12球団最年長の指揮官だった。「歳のことは考えたことがないからね。まだ女の人にもモテたいし」と会見では冗談を飛ばしていたが、年齢や球界の慣例を考えれば、「集大成」という言葉にはそれなりの覚悟が込められていたのだろう。

 その「私の野球」の一環として、投手陣には「肩は消耗品」と説き、キャンプ中の投球数を制限した。一方、試合ではリードした終盤に守備固めを徹底する"アメフト方式"を継続。内野では広瀬哲朗、外野では嶋田信敏を守備固めの要員に指名した。

 ふたりとも打力に課題を抱える一方、守備力には定評があった。近藤は「複雑骨折でもしない限り二軍には落とさない」と伝え、守備のスペシャリストとして役割を明確にした。その言葉によって「初めて心に余裕ができた」という嶋田に、近藤が掲げた「私の野球」について聞いた。

「監督から『センターは浅く守れ』と言われました。投手出身の方らしく、『ピッチャーは、打ち取った打球は捕ってほしいんだ。それがヒットになるのが嫌でしょうがない。

カッパーンと打たれたなら、ピッチャーの責任だから切り替えられる。だから、浅く守れるように練習してくれ』と」

 当時、日本ハムの本拠地だった東京ドームは、12球団の本拠地のなかでも屈指の広さを誇った。それまで使用していた後楽園球場に比べ、外野手に求められる守備範囲は5メートル以上広がった。

 そこで近藤は、俊足巧打が持ち味のドラフト2位ルーキー・鈴木慶裕を開幕戦から「1番・センター」に抜擢。同時に、俊足と強肩を誇る嶋田を守備固めの切り札に据えた。

「浅く守るというのは、後ろへの下がり方がわかっていないとできないんです。僕は近藤さんが来る前、高田繁さんが監督だった時代に、コーチのウォーリー(与那嶺)から徹底的に教えられていました。一番難しいのは正面の打球なんですが、『打球の下に入らず、2メートルぐらい離れて追え』と。それで背走する時の走路がわかって、浅く守れるようになった。ちょうどそのタイミングで近藤さんが来られて、パッとはまったんです」

【選手も呆れた猛抗議の舞台裏】

 4月8日、ダイエー(現・ソフトバンク)との開幕戦、スターティングメンバーは以下のとおりだった。

1番(中)鈴木慶裕
2番(二)白井一幸
3番(DH)マイク・イースラー
4番(左)トニー・ブリューワ
5番(一)大島康徳
6番(遊)田中幸雄
7番(右)中島輝士
8番(捕)田村藤夫
9番(三)古屋英夫

 投手は、前年15勝で最多勝に輝いたエースの西崎幸広が務めた。

 開幕戦は同点の9回裏、ドラフト1位ルーキー・中島の2ランが飛び出し、劇的なサヨナラ勝ち。翌9日も延長10回にサヨナラ勝ちを収め、最高のスタートを切った。

 そして迎えた3戦目。日本ハムが4点を追う7回、一死一、三塁の場面で、近藤はダイエー先発・加藤伸一の牽制擬投をめぐる審判の判定に激昂した。猛抗議の末、帽子を地面に叩きつけると、直後に退場を宣告された。

「その年は7月にもう1回、退場がありまして......。やはり相手投手の牽制をめぐる抗議でした。ベンチ前で審判と揉み合っていたので、どんなことを言うのか聞いていたんです。そしたら、『バカ』しか言わない。牽制動作についての説明なんて一切なくて、『おまえはバカだ。バカ! アホ!』って、ずーっと言ってる。それで『ヘタクソ!』って怒鳴った瞬間に、『退場!』って食らったわけです。

 広瀬とふたりで『何だこれ、一軍監督の抗議かよ』って言ってたんですが、監督が戻ってきた時に立ち上がって頭を下げたら、『どうだった? 迫力あった?』って。広瀬と顔を見合わせて、『え? パフォーマンス?』って......。

何かもう、そうやってチームを盛り上げようという考えがあったんでしょうね」

 猛抗議は、近藤の代名詞でもあった。手を出せば即退場となるため、両手を腰の後ろで組み、審判の顔すれすれまで詰め寄って息巻く。その姿には、どこか滑稽さも漂っていた。

 中日時代に近藤のもとでプレーし、前年に西武へ移籍した平野謙は、近藤が抗議するたびにベンチで拍手を送っていたという。中日、大洋時代には、セ・リーグ審判の柏木敏夫と激しく怒鳴り合い、胸を突き合わせることもしばしばあった。だが平野によれば、ふたりのやり取りに多少の芝居気があったことは、公然の秘密だった。

【貫いたエンターテイナー精神】

 近藤はナインと接するなかで、「日本ハムは真面目でいい子ばかり」と感じていた。そこで、「はみ出し野郎」と称した捕手・若菜嘉晴(前・大洋)、左腕・角盈男(前・巨人)を獲得してチームに刺激を加える一方、自らも先頭に立って、チームを「盛り上げよう」とさまざまなパフォーマンスを見せた。

 のちに近藤は、たとえ試合に負けても、観客が「面白かった」と言って帰れるようにと、あえて派手な振る舞いをしていたと明かしている。

「お客さんのことは意識していましたね。近藤さん、夏でもハイネックのアンダーシャツを着ていたんですけど、それは『満員なら5万人。その半分は女性のお客さんだから』ということなんです。

『女性のお客さんに、ジジイの首のシワなんか見せられねえ』って。僕が『ホントですか?』って聞いたら、『本当だ。野球選手はかっこよくなきゃいかん。だからユニフォームをちゃんと着こなせよ』と言われました」

 もちろん、野球そのものでも観客を意識し、打ち勝つ野球を目指した。だが、終わってみればチーム得点はリーグ最下位。投手陣では西崎幸広が16勝、津野浩が11勝を挙げた一方、前年に西崎と並んで最多勝に輝いた松浦宏明は右ヒジを痛め、わずか1勝に終わった。

 松浦はキャンプでの球数制限が合わず、そのうえ故障にも見舞われたことで、近藤が掲げた「私の野球」も疑問視されるようになった。前年リーグ1位だったチーム防御率も3位に後退。チームは借金19を抱え、前年の3位から5位へと順位を落とした。

「近藤さんは意外と大雑把で、ミーティングにもほとんど出てこないんです。1回だけ出てきたことがあって、その時はクリーンアップが数試合、からっきしダメだったんです。そしたら、『3番、4番、5番! 今日打たなかったら、7番、8番、9番に代えちゃうぞ!』って。

それだけ言って出て行ったんです。『面白い監督だなあ』と思いましたね。でも当時、ベンチ入りしている選手全員を生かそうとする監督は、なかなかいなかったですから」

【近藤流の選手操縦術】

 翌1990年、守備固め要員だった嶋田は打撃面でも成長を見せた。主力選手の故障離脱をきっかけにつかんだチャンスをものにし、4月末からはスタメン出場が中心となった。

 さらに、オールスターのファン投票候補となり、公式投票用紙に初めてその名が載った。テスト入団から12年目で、ようやくそこまで上り詰めた。

「感激でした。ラッキーな面もありましたけど、すべて近藤さんが使ってくれたおかげです。それに、担当記者の方から、『監督、褒めてたぜ。嶋田の守備はパ・リーグで5本の指に入るって。カコミ(囲み取材)じゃなくて、オフレコの時に言ってたから、うれしくて伝えたくてさ』って言われたんです。それを胸に試合に臨むと、不思議とうまくいくわけですよ。ただ、じつはこれも、近藤さん流の人の動かし方だったんです」

 自己最多の113試合に出場し、センターのレギュラーをつかんだ1990年のオフ。

嶋田は納会の取材に訪れた担当記者に、近藤の言葉を伝えてくれたことへの礼を述べた。すると記者は、「あれは監督からね、『オレがそういうふうにボソッと言ってたって、嶋田に伝えてくれ』って頼まれたんだよ」と答えた。

「あっ、何? そういう操縦の仕方をするんだ......って。第三者話法ですよね。うまく嘘をついて、選手の気持ちを乗せる。そうかと思えば、僕が3安打した試合のあと、ホテルの食事会場で『おう、ノブ。そろそろ3番打つか?』って。僕が『もう5、6試合待ってください』って冗談で返したら、爆笑していました。ベンチでも、中日時代から一緒だった大島(康徳)さんと冗談を言い合って、よく笑っていましたよ」

【今も忘れない近藤貞雄との3年間】

 その年も打線は相変わらず得点力不足に苦しんだが、投手陣は西崎、柴田保光、酒井光次郎に、復調した松浦を加えた先発4人が揃って2ケタ勝利。リリーフでは武田一浩が抑えを務め、10勝13セーブを挙げた。

 西武が独走で優勝するなか、日本ハムは9月に一時2位まで浮上したが、最終的には貯金3の4位でシーズンを終えた。

 翌1991年も"投高打低"の傾向は変わらず、借金19を抱えて4位に終わった。そしてこのシーズンを最後に、近藤は監督を勇退した。

「監督を辞められた年、僕は今ひとつ体調がよくなくて、数字もかなり落ちてしまって......。結局、現役生活は16年で終わったんですけど、近藤さんと一緒だった3年間が一番いい時期でした。巡り会えて、本当によかったと思います。それで最後に、『お前、将来、監督とかコーチになるから』って、ポロッと言われたんです」

 1994年限りで現役を引退した嶋田は、日本ハムの一軍、二軍で外野守備・走塁コーチを歴任。2006年からは11年間にわたって高千穂大学野球部の監督を務めた。そして2026年、千葉科学大学野球部の監督に就任。2022年に活動を休止していた野球部の再始動を託され、ゼロからチームづくりに取り組むことになった。

「今の大学でも、プロ野球時代に学んだことを選手たちに伝えています。そのなかでも、指導に一番出ているのは近藤さん流ですね。どうすれば選手の心に余裕が生まれるのか。どう言えば、もっと自分から練習するようになるのか。近藤さんから学んだ人の動かし方は、これからも使わせてもらうつもりです」

(文中敬称略)

高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

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