【盛岡信用金庫】“盛岡のウォール街”の一角をなす老舗信金|ご当地銀行の合従連衡史

盛岡信用金庫は岩手県盛岡市中ノ橋通一丁目に本店を置く県内最大手の信用金庫。盛岡の中ノ橋通といえば、岩手銀行の赤レンガ館をはじめ金融機関が並び、「盛岡のウォール街」と呼ばれる通りだ。

盛岡信用金庫もその街にふさわしい佇まいの本店を構えている。

さまざまな組合組織・事業を経験

盛岡信用金庫は1903(明治36)年1月、産業組合法による盛岡信用組合として創設された。創⽴事務所は初代組合⻑である地元実業家、⾼橋伊兵衛宅の三畳間だったという。そして1943(昭和18)年4月、市街地信用組合法による組合に改組し、1950年4月には中小企業等協同組合法による組合に改組した。

この段階まで組合組織として事業を進めてきたが、それぞれ依って立つ法律が異なる。

産業組合法とは、1900年に明治政府が公布した日本の協同組合の基礎となった法律で、農村や都市の中小生産者に信用・購買・販売・生産の4種類の事業を行う組合の設立を認めたものだ。

市街地信用組合法とは1943年に制定された法律で、都市部の中小商工業者を対象とした金融機関である「市街地信用組合」を産業組合法の枠組みから独立させ、純粋な金融事業を行う組織として位置づけたものだ。この市街地信用組合が、のちの信用金庫法へとつながっていく。

中小企業等協同組合法とは1949年に中小企業や小規模事業者が、相互扶助の精神にもとづき、共同で事業を行うための組織(組合)について定めた法律である。特に金融事業に限った事業・組織ではない。

盛岡信用金庫は、時代の流れのなかで各種の組合事業を行いながらも金融事業に特化してきたのだろう。そして1951年6月の信用金庫法の制定にともない、同年10月に盛岡信用金庫に改組した。

救済合併と「姉妹金庫」という提携スタイル

盛岡信用金庫となって以降は相次いで盛岡市や八幡平市、久慈市など周辺市町村に支店などの拠点を開設し、1993年10月には経営破綻した釜石信用金庫から遠野支店の事務を譲り受け、盛岡信金遠野支店を開設した。この際は盛岡信用金庫をはじめ6金融機関(うち信用金庫は同信金と宮古信金、一関信金)が事業を譲り受けている。

2005年11月には同信金と米沢信用金庫(山形県米沢市)、杜の都信用金庫(宮城県仙台市)の3信金が「姉妹金庫」の盟約を締結した。「姉妹金庫」には厳密な定義はないようだが、主に地方の信金同士が地域経済の発展や相互交流、業務上の連携を目的として締結する「姉妹金庫盟約(提携)」にもとづき、親密な関係を築いている信用金庫のこと。お互いのホームページにインターネットバンキングの案内を掲載するなどの連携を行い、広域化に対応している。

この取り組みにより、自金庫のホームページが表示できないなどホームページサービスが停止した場合に、「個人インターネットバンキング」「法人インターネットバンキング」「電子記録債権サービス」「投信インターネットサービス」などの利用者が姉妹金庫いずれかのホームページにある姉妹金庫のログインページからサービスを利用できるようになっている。

なお、M&Aとしては、2008年7月に岩手県二戸市に本店を置いていた二戸信用金庫と合併した。県内の信用金庫としては初となる信金同士の合併であった。

本部機能集約のはずが……

2023年1月、盛岡信用金庫は創立120周年を迎えた。その歴史のなかで、本部機能を本店(中ノ橋通)と六日町本部(下ノ橋町)に置く体制をとってきた。

そこで本部機能の集約のため、2019年6月に閉店した百貨店・商業施設の旧Nanak跡地(中ノ橋通1丁目)にできた商業施設「monaka」の4階に入居し、本部機能を集約すると発表した。2023年1月のことだ。ところが資材や人件費の高騰により、翌2024年1月に移転計画を撤回した。

もとをたどれば、六日町本部は「盛岡信用組合」発祥の地である。

一方、中ノ橋通の本店は地元の建築家で辰野金吾と建築設計事務所を共同経営したことなどで知られる葛西萬司が手掛けた銀行建築である。

1927年に盛岡貯蓄銀行の店舗として建設された。その盛岡貯蓄銀行は合併により岩手殖産銀行になり、現在の岩手銀行になっていく。もともと盛岡貯蓄銀行の所有であったが、1958年に盛岡信用金庫がその建物を譲り受けた。

建物としては1977年12月に盛岡市の保存建造物に指定され、2018年10月には市の景観重要建造物に指定されている。

【盛岡信用金庫】“盛岡のウォール街”の一角をなす老舗信金|ご当地銀行の合従連衡史
本店脇にある建造物の案内板

文・菱田 秀則(ライター)

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