弁護士の谷口太規氏は、ガーナ出身の男性が成田空港で入管職員6人に「制圧」され、死亡した事件で国との裁判に敗れ、深い絶望を経験した。だがその絶望は、やがて「公共訴訟」という新たな挑戦へと変わっていく。
*本記事は2026年5月29日、隣町珈琲(東京・中延)で行われたトークを編集し採録したものです。
〈ひとり〉の問いは、なぜ公共に向かうのか
谷口 こんにちは。私は弁護士を20年ぐらいやっていますが、もともと大学時代には社会学や哲学を学んでいて、大澤先生のところで卒業論文を書いたご縁があり、以降も先生からは、公共訴訟のことなどでもご支援いただいています。
大澤 谷口くんは僕が京都大学で教えていた頃の教え子なんですが、勉強も非常にできて、司法試験もあっさり合格してしまいました。でも学生の時には「法律をやる」とは言ってなかったんです。ただ、今考えてみると、自分のやろうとしたことを貫くために弁護士になったんだな、と思います。
彼の卒業論文には最高に近い点をつけたことをよく覚えています。内容は、非常に理論的な部分と、実証的な部分があり、「我々が異質な他者というものに、どう向き合っていくか」ということを大きなテーマとしていました。
前半は資本主義論という感じで、抽象的な問題を扱い、「資本主義とは未来を収奪する」「その未来を収奪するプロセスで、我々の『他者』に対する感覚がだんだん鈍磨していく。そういうメカニズムを持っている」「それに対抗することができるのだろうか」というのがテーマでした。
そして後半は、具体的にNPOやNGOに聞き取り調査をしながら「我々はそういう資本主義の大きなトレンドの中で、いかにしたら『他者』と向き合うことが可能なのか」ということについて具体的に見ていく、という構成になっていました。
僕の想像では、谷口くんはそういう他者と向き合うための活動を実際にやっていくプロセスの中で「やっぱり法律というのが非常に重要だ」と感じたのではないか。
それで弁護士になって、そこからまたいろんなプロセスがあって、挫折を経験してアメリカに行ったりした。でも基本は、20代前半にやろうとしたことを今、現実のものにしているな、と思います。卒論に書いたことも空理空論ではなく、実際の行動の中でそれを実現しようとしている。それは僕としても非常に嬉しいし、トンビがタカを産んだみたいな感じです。
谷口 大変もったいないお言葉をいただき、ありがとうございます(笑)。
今日は『はじめての公共訴訟』という本の発売記念対談なんですが、公共訴訟というのは、「法律そのもの」とか「社会全体のルールを変える」ということなので「大きな裁判」みたいな印象があるかと思います。でも実は、私自身が弁護士になった動機も、しばらくの間ずっと仕事していたのも、もっと地味なものでした。声なき人たち、社会から見放されたような立場にある人たちのための仕事を、ずっとしていて。それは今でも続けているんですが、最初の10年以上は、そこのみをやってきたんです。生活保護を受けている方とか、外国ルーツでオーバーステイの方とか、高齢者や障害者とか、そういう人たちのための訴訟を1件1件やるという。
でも、ずっとそういう事件をやっていると、とりあえずの危機は脱して感謝されるわけですが、何か澱(おり)のようなものが自分の中に溜まっていくんです。
「血はいつも止めてるけど、一体いつまでこの人たちはケガをさせられ続けるのか?」と思って。そういう人たちが、この社会構造やシステムに押しつぶされてしまう現状は解消しきれない。だから「もうちょっと上流に行かなきゃいけないんじゃないか」ということで、公共訴訟に携わるようになったんです。
公共訴訟の圧倒的不均衡に一時は絶望した
谷口 ただ、公共訴訟を始めてみると、圧倒的な不均衡がそこにありました。訴訟のためのお金がないとか、弁護士団を組織しようとしても、公共訴訟を扱える弁護士が足りないとか、国相手だから全然勝てないとか。
結局システムはシステムの中で圧倒的に強くて、その不均衡の中で、ある意味、私は絶望して。 ある移民の方の事件(*1)で、本当にもう全力を尽くしたけれど、結局勝てず……。その方は入管職員に制圧されて、その瞬間に亡くなったんですが、「心臓の奇病」ということにされて片付けられてしまって……。
それで「もう弁護士はやめよう」と思って、ソーシャルワーカーになるためにアメリカに留学したんです。そしたら、ちょうど第1次トランプ政権で、トランプ大統領が移民を排斥するような大統領令を出していて、それに対して市民は「まだ裁判所がある」と言って、彼らが司法の力を使って大統領令をひっくり返す現場を見たんです。
それで「こういうやり方があったんだ!」と。「こういうことを僕は日本では一度も試したことがなかったな」と思って、その後日本に帰ってきて、もう一度弁護士の仕事を再開し、今CALL4(*2)とかLEDGE(*3)という、市民と司法を結びつける活動をしているんです。
*1 日本で日本人の妻と暮らしていたガーナ出身の男性スラジュさんが、在留資格を認められず強制送還されることになり、成田空港で入管職員6人に「制圧」されて死亡した事件。猿ぐつわや無理な姿勢を強制されたことによる窒息死と思われるが、裁判では「心臓の奇病」とされた。詳細は下記の谷口氏による記事を参照。
やっぱりあきらめないことにした話|公共訴訟のCALL4(コールフォー)
*2 CALL4 社会課題の解決を目指す公共訴訟を支援するウェブプラットフォーム。訴訟の情報発信や寄付募集を通じて、市民と司法をつなぐ活動を行っている。
*3 LEDGE 公共訴訟を支える日本初の専門家集団。弁護士やリサーチャー、キャンペーナーらが連携し、公共訴訟のプロデュースや情報発信を通じて社会のルール変革を後押ししている。
「自由」と「平等」の対立
谷口 今日は大澤先生の本を読まれて来てくださった方も大勢いらっしゃると思います。先生の研究は非常に多岐にわたっていますが、ご自分がしていることを何とご説明されていますか。
大澤 それ、困るんですよね(苦笑)。ただ、自分の中では、ある意味、ひとつのことをやってる気持ちもあるんです。たとえば今AIというものについていろいろ興味を持っていて。「AIを鏡にして人間のことがわかる」みたいなことがある。
谷口くんの話に近いところで言うと、ひとつの社会構想というか、僕らは社会主義や共産主義に対する夢を失ってしまって、その後、社会についての大きな展望をもう持てないわけですよね、この社会以外に。けれどもこれほど閉塞感がある状態もない。その時にどう考えればいいか。そういう問題含め、いろいろありますが、自分の中では意識してやってるわけじゃないけれど、自然といろんなことがつながってくる。「社会学をやっている」としか言いようがない。「人間について考えている」みたいなことですかね。
谷口 資本主義とか、自由とか、そういうことがテーマになっていることも多いですよね。
大澤 そうです。今僕らが生きている社会を一番基本のところで捉える際に、どういう言い方が最もいいかと考える時、僕の先生だった見田宗介先生(みた むねすけ、社会学者。ペンネームは真木悠介)は「近代社会」という言い方をしました。しかし今「近代社会」って言うと、内容がわかりにくい。
見田先生が「近代」という言葉を好んだのは、当時は資本主義の体制と社会主義の体制(東西冷戦構造)があったので、そのなかで「近代資本主義」と言ってしまうと、「西側の体制」しか意味しないようなイメージもあったと思うんですけれども。
でも、ある時代からの我々の社会の「資本主義」というのを、経済だけで考えてしまうと、少し弱い。むしろ経済は大きな氷山の一角で「我々の文化も含んだひとつの体系全体としての資本主義」と捉えると、現代をかなり基本のところから見ることができる。だから「資本主義」という言い方を使うんです。
あと、自由という問題は、今日の話もすごく関係ありますけど、こう思うんです。
20世紀が終わって、私たちは今21世紀にいるわけですけど、僕なんかの場合は人生の前半分以上が20世紀だった。その20世紀という時代に我々は何を一番の教訓として得たのか、と。それをものすごくざっくり言うと、やっぱり「自由な社会」以上のものはない、と。
「自由を、自由以外のものを理由にして抑制する」ということが、いかに悲劇的な結果を生むか。
具体的に言えば、冷戦というものがあった。冷戦とは、19世紀の初めくらいに近代が出てきた時に、自由と平等ということが言われた。そのふたつは、初めはあまり矛盾すると思われなかったんですが、どちらを優先させるかと考えた時、「平等の方を優先させる」と、社会主義となるわけです。ざっくりとした話。
つまり「20世紀とは、冷戦があって、それが終わった時代」なんです。それを教訓として見た時に「やはり自由というものが、社会というものを考える上で、追求すべき最大の価値だ」となった。
それがまた21世紀になって、別の意味で「人間に自由というものは、そもそもあるのか」というような大きな問題があるんですけどね、本当は。
判断の帰属先としての「第三者の審級」
谷口 大澤先生は、「自由というものが至高のものだとしても、その自由というのはそう簡単に成立しなそうだ」と、私が受けていた「現代文明論」という講義でおっしゃってましたね。
当時、先生は『〈自由〉の条件』という本を書かれていて、本を書くにあたって考えられていることをずっとつぶやき続けるという授業でしたが、「自由というものが成立しなそうな時には、どうやったら成立するのか」とお考えになっていたと思います。
いろんな分析をするにあたって、最終的には「第三者の審級」という概念をいつもキーにして分析されているのかなと思うのですが、それについてご説明いただけますか。
大澤 これは難しい。でも、ものを考えるということの、一番のクリエイティヴィティーのポイントになるのは「概念を発明する」ということ、これがすごく重要なんです。概念があって初めて考えることができるから。ただ、「第三者の審級」というのは、発明しようとして作った概念ではなくて、自分が考えているうちに自然と出てきた言葉なんです。
「審級」というのは、割に法律的なメタファーになっているんですが、ものすごくざっくり言うと、日本人にはピンと来ないところもあるんですが、本当は神とか宗教とかの問題なんです。
ある有名な社会学者の言葉があります。「宗教が社会現象なのではなくて、社会が宗教現象なのだ」と。つまり、僕らが意思的に何かの信仰を持っているかどうかは別として、人間が社会というものを営めているのは、広い意味での宗教現象なんです。有名な社会学者、たとえばマックス・ウェーバーとかデュルケムとかは、みんな宗教社会学者なんですよ。宗教社会学が即、社会学なんです。
そういう宗教的な現象というものを考えるときに、どういう言葉で考えていけばいいのか。たとえば特定の宗教で「アッラー」とか、そういう言葉を使ってしまうと、その宗教のことでしか考えられないでしょう?
宗教的な現象を一般的に捉える時、日本人でも普通に馴染みのある「第三者の審級」の一番プリミティブな形態は、たとえば「空気」です。「空気を読む」と言うときの空気。日本人にとっては「空気違反」ほど悪いことはないんですよね。「空気を読めない」というのが。でも「今、空気、何ですか?」と誰にも聞いてはいけない。誰かの判断じゃないんですよ。この場を自然と作っているものなんです。どの人でもない第三者的な判断で。それが、法律以上に強い拘束力を持っている。
でも、逆に言うと、空気っていうものを乗り越えるためには、「空気よりも強い第三者の審級」が必要であったりする。あるいは「第三者の審級」自体も、乗り越えの対象なんです、僕にとって究極的には。
それを考えるため、つまり、社会を一般的に考えるために、我々が社会的な判断をするとき、「何が正しいか」とか「何が望まれているか」とか、そういうことを考えるときに、「何を空気が望んでいるのでしょう?」みたいになる時の、その「判断の帰属先」なんです。それが「第三者の審級」なんですよ。
谷口 ありがとうございます。この、ちょっと難しい概念を先生にお話ししていただいたのは、公共訴訟の現場とかで、時々「あれっ? これは『第三者の審級』じゃないか?」みたいに思うことがありまして、その意味でもちょっと、ご説明いただきました。
学問を通じて、人生の最も深刻な悩みや苦しみに対抗できる
谷口 ところで大澤先生の本のタイトルは、めちゃくちゃカッコイイものが多くて、たとえば『行為の代数学』とか『恋愛の不可能性について』とか『美はなぜ乱調にあるのか』とか、普通の社会学者の本と違う感じなんですが、ひとつだけ、すごく大澤先生らしくないタイトルとも思える(笑)ストレートな、『私の先生:出会いから問いが生まれる』という本があるんです。とてもお気に入りの本です。これには先生の師匠である見田宗介先生との出会いが書かれています。この本を読んだ時に、「あ、私が大澤先生の授業を受けた時に経験したことと全く同じ経験だな」と感じたところがあって。そこの部分を読んでみますね。
「私が先生に出会ったのは一九七七年の春、大学に入学して間もないときだった」……大澤先生が入学されたのが1977年で、私は97年に大学に入ってるので、ちょうど20年前になるんですが。
先生は、学生たちの発表に先立って、まずはご自身の問題意識をはっきりさせたいとおっしゃり、講義を始めたのだ。先生の語りは流暢とは言い難いものだったが私はたちまちその内容に魅了された。講義を聴き、ノートをとりながら、胸の中に歓びが湧いてきて、ひどく自分が興奮しているのを感じた。
私は何に感動したのか、それははっきりしている。このとき、私が先生の講義を聴きながら感得したことは、生きることと学問をすることとが、一つになりうる、ということだった。生きていれば、人は様々な悩みや苦しみにぶつかる。それらに対処し、克服することと学問とは別のこと……だと思っていた。が、そうではないことを知った。学問をすることを通じて、人生における最も深刻な悩みや苦しみに対抗することができる、と。(『私の先生:出会いから問いが生まれる』より)
……というふうに書かれていて。
私自身、大学受験のために高校で英語や数学、国語とかを勉強していましたが、そういう、それまでの自分にとっての「勉強」というのと、大澤先生の講義を聞いた時に聞いた内容というのが、まったく違ったんですよね。そこに私も非常に驚いたことを覚えています。
「あっ、学ぶというのは、こういうことなんだ」と感じたところがあって。
ただ、その大澤先生の話というのは、真っ直ぐな一本の線にはなってないんですよ。すぐ、「ここで補助線を引いておこう」と言って、全然違う話に飛んじゃう(笑)。集合論であったり、アメリカのSF映画の話だったり、全く違う分野の話が次々に引用される。で、その授業を受けている時には、その筋がさっぱりわからなくて。
ただ、「ここで資本主義について分析されていることは、この人とこの人との間の関係にも適用できるな」みたいな、そういうアナロジーというか、全然違うところが結びつくような、そういう感覚をいつも持っていて。ふと気づくと授業中に別のことを考えている、という経験がものすごくたくさんあったんです。だから、筋としてはよくわからない部分も多かったですが、その所々で差し挟まれるエピソードというのが非常に刺激的というか、色々別のことを思い起こさせるっていう。
このご著書では、「先生というのは、『先に知ってる人』ではなくて、何か『問いを生む人』だ」と書かれています。振り返れば、大澤先生の授業も常に疑問符だらけの、「問い」ということを感じ続けていたな、と思っているんですけれども。大澤先生はどんなことを思って教えられていたんですか。
大澤 うれしいですね。僕にとって見田宗介先生がいかに大きかったか、ということがありますから。谷口くんが僕の授業で少しでも感じる部分があったとしたら、やはりこれは教えることの喜びで、これ以上のものはないです。
見田先生も決して普通の意味で講義が上手というわけじゃなかったです。シャイな人だったし、言葉になるかならないかぐらいの微妙なこと、なかなか簡単に分かるようなことじゃないことを言っているので、難しくて。
僕なんか時々、「先生、私に説明させてください。先生の言いたいことは、こういうことじゃないですか?」みたいに言いたくなることが何度もありました(笑)。
だから、見田先生も講義は上手じゃなかったんですけど、感動はしたんです。先生に比べれば僕のほうがマシかなと、ちょっと思ってるんだけど(笑)。
あなたの個人的な問題が、実は社会的な普遍性があるかもしれない
大澤 ただ、とにかく、やっぱり講義をするときにいつも思うのは、自分にとって非常に深刻に気になっていること、というか、「探求というものに自分を駆り立てている問題」というものを、そのときに言う、ということです。
「自分がこんなに気になっていることには、普遍的な意味があるはずだ。だから、そのことをみんなに納得してもらいたい」というような感じなんです。本当は、正直、あんまり講義の準備をしないんですよ。
谷口 それは知っていました(笑)。
大澤 どうせ、そのとき自分が考えたことを言っているんだから、誰かに教えてもらうことはない、みたいなこともあって、講義の準備をあんまりしなくて、ちょっとそれは申し訳なかったかなと思うこともあるんだけど(苦笑)。ただ、やっぱりそのほうが通じることもあって。
これはちょっと今日の話とも関係あるんですが、僕は話をするとき、けっこう寓話というものを重要視するんですよ。つまり、「煎じ詰めればこういうことになっちゃうでしょ」って一般論みたいに言っても、人には通じないんですよね、本当に。でもひとつの寓話的に語ったときに、人は「ああ、なるほど」と思うわけです。
なぜそれがこの公共訴訟と関係あるかというと、公共訴訟の問題で僕が一番重要だと思うことは、当事者はみんな「これは自分の個人的な問題だ」と思っているわけです。「自分はこんなことで嫌な思いをしている」と。
「でも、そのあなたの個人的な問題が、実はいかに社会的な普遍性があるか、公共性があるかということを証明するために、法というのがあるんです」ということだと思う。社会を変化させるときの鍵は、そこだと思うんですよ。
谷口くんがすばらしいなと思うのは、一方で、訴訟があったときに、その個人に寄り添うという仕方が半端じゃない。「そこまでやっていたら体もたないぞ」と心配になるほど、その個人に入れ込んでいるんです。その個人に入れ込んでいることが、そのまま今度はCALL4の形のように、一種の公共の問題になっていく、という、その両極ですよね。
すごく「私」の問題に寄り添える、という部分がなければ、意味がない。個人に寄り添えば寄り添うほど、なお一層社会的な問題でもあるという、そのつながりですね。
個人にとっては、自分の本当にただ個人的な悩みで、しかも無力感を感じている。「社会というのは絶対に動かない」と。
そういう個人と社会との媒介になるためには、その両極が大事です。今日の対談のタイトルの「〈ひとり〉から公共へ」です。「いかに〈ひとり〉のその固有性にこだわるか」ということが、「どうやったら公共につながっていくか」という。一見対立しているんだけど、そこが一挙につながっていく――それが公共訴訟というものの一番重要な部分だなと僕は思うんです。
構成/稲垣收 写真/伊吹早織
はじめての公共訴訟 社会を動かす、私たちのツール
井桁 大介 (著), 亀石 倫子 (著), 谷口 太規 (著), 丸山 央里絵 (著)
社会の中で「おかしい」と感じたとき、不条理な壁に突き当たったとき、私たちは何ができるのか。差別、労働、環境問題、ジェンダー、社会保障──さまざまな課題に対し、裁判という方法で社会のあり方を問い直し、変革を働きかけるのが「公共訴訟」である。
本書は、実際の事例や当事者の物語を手がかりに、その歴史と役割を解説。公共訴訟はどのような戦略、連帯によって社会を変えてきたのか。裁判を「社会を動かすツール」としてとらえ、個人の声が制度や社会を変えていくプロセスと、その可能性を示す入門書。
同性婚訴訟、タトゥー裁判、大川原化工機事件、立候補年齢引き下げ訴訟……
もっと公正な社会を生きたいあなたへ
◆推薦◆
よりマシな社会をあきらめたくないすべての人へ。
ここに私と公共をつなぐ回路がある。
──哲学者 朱喜哲氏
少数の痛みは、「大したことない」ことにされやすい。
「こうなってほしい」が、感情の問題と一瞥(いちべつ)される。
公共訴訟はそんな社会の扉をこじ開ける、希望。
──NO YOUTH NO JAPAN創設者 能條桃子氏
自分たちの手で社会はどんどんよくしていくことができるなんて、なんだ、最高じゃないか。
──小説家 山内マリコ氏
◆目次◆
第1章 声をあげる人々、その物語──公共訴訟を知る
第2章 公共訴訟は社会をどう変えるか
第3章 公共訴訟の誕生と歴史
第4章 データで見る公共訴訟
第5章 なぜ数が少なく、勝ちにくいのか──公共訴訟の抱えるハードル
第6章 新たな動きが生み出す、新しい連帯
第7章 公共訴訟の未来

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