私は1978年生まれなのだが、高校時代に何が流行っていたかハッキリと挙げることができる。まず、内田有紀。
物凄い上昇気流に乗り、完全に一世を風靡していた。ショートヘアの魅力を心の底から思い知らされたのは、あの子が初めてかもしれない。
次に挙げられるのは、何と言ってもMr.Children。時は“渋谷系”の全盛だったが、学校内の我々は、どこ吹く風。クラス中、ミスチル一色だったと言っても過言ではない。

そして、彼らを忘れちゃいけない。
実は、ナインティナインの衝撃が凄かったのだ。今でこそ居て当たり前の存在となったが、『とぶくすり』スタートと同時に世に躍り出た彼らの鮮烈っぷりは、何かを期待させるに十分なインパクトを携えていて。センスとキレとハングリー。何をとっても、高校生のハートに思いっきり“ズキュン!”と来たもんだ。
この感覚、他世代からするとまるで腑に落ちないものなのだろうなぁ。いや、本当なんですよ?

それを証明するのは、東京進出後の彼らの出世街道。
『ジャングルTV』、『浅草橋ヤング洋品店』、『笑っていいとも!』などなど、彼らは続々とレギュラーを獲得していってしまう。傍から見てると「『芸人』って、美味しい職業だな」と、勘違いしまうほどに。これ以上ない順風満帆な物語を、彼らは見事に演じていたのだ。
……しかし、当人たちは人には言えない苦労を重ねていた模様。それを20年越しに明かすのは、上京時のナイナイにマネージャーとして付いていた黒澤裕美氏が記した『ナインティナインの上京物語』(大和書房)。

同書を読むと、そこには彼らなりの下積みが記録されている。
何しろ我々を夢中にさせていた『とぶくすり』の内幕は、実は以下のようなものであったらしいのだ。
「ボケる前に『あの~ちょっと……』でも、『挙手する』でもいいから、とにかく『これからボケる』というサインを出して、一回カメラを自分に向けさせろ、と徹底的に教育されたらしい」(著者・黒澤による記述)
こんなこっ恥ずかしいことがあるかよ! 笑いを取りにいく寸前に手を挙げ、「今からボケますよ」と表明しなければならないだなんて。テレビ慣れしていない芸人がカメラが来ていないにも関わらずボケを連発し、まるで映っていないという事態を避けるための対処法だそうだ。コントとは何ぞや、バラエティーとは何ぞや、をナイナイが徹底的に叩き込まれた時代。

ところで。今でこそ“人を傷つけない笑い”を標榜している彼らだが、東京進出時の目つきの悪さと態度の悪さと言ったらなかった。
もう、明らかに“嫌な奴オーラ”を撒き散らしていて(特に岡村)。それは、当時の彼らのインタビュー記事にもハッキリと残っている。
「彼女ら(ファン)にだまされてはいけないんですよ。彼女らは、笑いに来てるんじゃない」
「人気なんて簡単だと思いましたよ。露出度の問題で、テレビにどれだけ出てるかで、だいぶ違ってきますから」
「俺らのファンにかわいい子はいないんですよ。昔、ファンとややこしいことになってますからね、今は手は出してません」
硬派を気取っているのか? ……いやいや、やはり彼らの中には確かな“不満”が巣食っていたようだ。
それは、巻末に収録された著者との対談でも触れられている。
「ここ(天然素材)におったらあかんと思ってたから」
「『笑い』がないというか。ボケても、『キャーッ、キャーッ』っていう連発やって、お客さん笑ってへんな思って。で、みんながネタもやらんとギャグをやるようになってきた時に、『あ、終わったなぁ』と思った」
上記は、いずれも現在の岡村隆史による発言。やはり若手時代のナインティナインは、愚痴るべくしてグチっていた。それがまぁ、大人げないワケだけれども。


しかし、ただナイフなだけじゃない。知名度を上げていくのと引き換えに、彼らは確実に摩耗していく。特に居たたまれなかったのは、『吉本印天然素材』(日本テレビ)が終了する際の打ち上げ会場における場面。
「終わりの挨拶でスタッフが、『今回は番組が終わるという残念な結果になってしまったけれど、またこのメンバーで番組を作りましょう!』と力強く宣言したのだ」
「ナインティナイン以外のメンバーはその言葉を信じ、また今までの収録であったあれやこれやを思い出して、感動していた」
「でもナインティナインは感動もせず、その様子を半ば冷ややかに見ていた。なぜなら、次に始まる番組がナインティナイン単独の番組『ぐるぐるナインティナイン』と、決まっていたからだ。もちろん、その場にいるスタッフも私も知っていた。同じスタッフで、すでに初回の一本を撮り終えていたからだ。知らぬは、ナインティナイン以外のメンバーのみ」
“東京や業界に心を許さない岡村隆史”は、こういった出来事の積み重ねで形成されていくことになる。
「オマエ、俺らが東京に来て、一番最初に学んだことを忘れたんか? 人は信用したらアカンってことやろ」
著者が人間関係で落ち込んだ際、岡村がいつも繰り返すのはこの言葉だそうだ。

そろそろ、矢部浩之にも触れなければならない。若手時代のナインティナイン、脚光を浴びるのはどうしても岡村の方。そんな状況に、ジレンマを感じないはずがない。
「猿のようでかわいく、また身体能力が異様に高い岡村に対して、二枚目のクールなツッコミの矢部、と騒がれていたこともあったが、雑誌の取材で写真を撮ると、矢部は必ずおどけた顔をして写り、『二枚目』として注目されることに全力で抵抗しているようだった」
フラストレーションの溜まった矢部は、誰もいない楽屋で犬のぬいぐるみに話しかけ、しかも自分でぬいぐるみ役を演じて腹話術のように「うん!」と返事させていたこともあったというのだ。そんな場面を偶然にも目撃してしまった著者は「正直、とうとう来たか、と思った」と、恐る恐る述懐している。

そんな矢部も、今では押しも押されぬ地位を確立。ポジションを上げるに従って、様々な経験も重ねていったのだろう。彼の成長を裏付けるのは、以下のエピソードだ。紆余曲折あって飲食店を出店した著者を訪ねるため来店した矢部に対し、一般客がちょっかいを出したシーンが印象的。
「酔ったお客様に、『岡村はおもしろいのに、アンタは何をしてるんだ』と絡まれていたが、『そうですよね~。がんばります』と、別に邪険にするわけでもなく、上手にかわしていた」
「せっかく来てくれた矢部に悪くて、『さっきはごめんな』と言うと、矢部はまったく感情を込めずに、『大丈夫や、慣れてるから』」
ちょっとしたもつれや発言で干されてしまうこともある芸能界。そんな世界を生き抜けるよう、よく言えば“成長”、悪く言えば“染まって”みせた矢部浩之。改めて考えると、悲しき職業である。

最後に。ナインティナインにとって結成以来の大事件といえば、昨年に起こった岡村の数カ月に及ぶ休業しかない。巻末における著者との対談にて、両者はこの時期についてもしっかりと言及している。まずは休業の当事者である岡村の発言より。
「俺な、箱根駅伝とか見てて、脱水症状起こってしまったり、フラフラになって走れなくなったりする人を見て、『なんやねん。このために何年もやってるんやろ? 大本番で体調崩すか?』思うてた」
「でも、今となってはなんてとんでもないことを……ごめんなさい! 本当すいませんっ! て思ってんねん(笑)」
完璧主義を志していた休業前の岡村からすると、箱根駅伝のお馴染みの風景でさえ許せないものとして映った。そんな当時を振り返り、本人から一言。
「そんなんやから頭パッカーンや」

そして「岡村隆史・休業」は、相方の矢部にも思わぬ影響を及ぼすこととなる。
「俺、岡村さんのお父さんとめっちゃ距離近づいたんよ」
国家公務員を目指していた岡村を芸能界に引きずり込んだ矢部に対し、長きに渡って悪感情を抱いていたはずの岡村・父。
「でも『矢部さん』って言うのよ、俺を。『矢部さん、本当に隆史を見捨てんといてください』って言うんやで。そんなん、お笑いやってる人間にとったらたまらんやん? 『もう勘弁してください。そんなはずないじゃないですか』って言って」
「『矢部さんがもしよろしければ、メールアドレスを教えてください』って言うから、『あぁ、もちろん』って」
子を応援しない親など、いるワケがない。それは子の理解者に対しても、同様の感情であった。

そういえば我々の世代において、売れ始めから看板タレントとなるまでの道程をつぶさに目撃し続けたタレントは数少ない。
とんねるずに関しては、『オールナイト・フジ』に間に合っていない。東京生まれなので『4時ですよーだ』を観ることはできなかった。たけしやタモリは言わずもがな。爆笑問題だって、『笑いの殿堂』の頃から注目していたと言えば嘘になる。
実は、ナインティナインくらいなのだ。振り返ると、自分でも不思議なほどに思い入れを抱いている。

ある種、いつまでも“青春”の匂いを感じさせるコンビであるが、我々世代にとってもナインティナインは青春だった。
(寺西ジャジューカ)