父親世代が「巨人が強くないと野球が面白くない」と言ってるのを聞くと、いつも耳障りで仕方なかったものです。もしかしたら、今の自分は当時の父親らの立ち位置に近いのかもしれない。
現在のフジテレビの凋落は、我々世代(筆者は1978年生まれ)からすると夢を見ているよう。信じられないのです。
『オレたちひょうきん族』の名物ディレクターがフジテレビを憂い、現役TVマンにエールとアドバイスを送る
『ひょうきんディレクター、三宅デタガリ恵介です』(新潮社)
かつての“ひょうきんディレクター”も、今ではフジテレビの「エグゼクティブ・ディレクター」なる役職に就いているようです。

物心ついた頃は『オレたちひょうきん族』が世を席巻しており、80年代後半はとんねるずがフジテレビを発信地として若者のオピニオンリーダーへと成り上がり。90年代は、ダウンタウンが何食わぬ顔でハイクオリティのコントを一週間ごとに披露。ナインティナインにスポットを当てたのは、フジテレビのディレクター・片岡飛鳥氏であった。
誇張表現でも何でもなく、日本の文化の3分の1を河田町(お台場)が作っている時代が確実にありました。
特にシンパじゃないのだけれど、あそこが不振だとどうも座りが悪い。化石な感覚だとは自覚してますが、そんな戸惑いを覚えている今です。

そういえば、『ライオンのごきげんよう』も来年3月で終了するらしい……。この番組の制作に最後まで携わった同局の名物テレビマン・三宅恵介氏による『ひょうきんディレクター、三宅デタガリ恵介です』を読むと、著者の自叙伝でありつつ、フジテレビの黄金期を振り返るには絶好の書籍であることがわかります。それと同時に、現在のフジテレビへのエールとしても機能している一冊。

「僕のいるフロアは13階。
いや、これが実に景色がいい。(中略)でも、これがダメなんです。ボーッと外を見て、ネットサーフィンでもしてれば、あっという間に一日が終わっちゃう。クリエイターに必要な『考える』という作業をさせない」(同書より)
どうやら名物ディレクター氏も、現在のフジテレビには思うところがあるようです。

鶴太郎のおでん


三宅氏は、萩本欽一から「嫌だ、嫌だと言いながら楽しそうにやるのが可笑しい」と教わったそう。演者が本当に嫌がっていたら視聴者に「そんなに嫌なら、やめればいいのに」と思われてしまうし、果ては「イジメを助長する」「弱い者イジメにしか見えない」とお叱りまで受けてしまう。あくまで“嫌がる芝居”であることが大事だと、著者は主張します。

「『ひょうきん族』で、片岡鶴太郎さんがたけしさんから、アツアツのおでんを食べさせられるコーナーがありました。あれは、鶴太郎さんの『熱い! 嫌だ! やめて!』と見せる芸があるからこそ、成り立つものです。『熱い』を演じるボケがうまいからこそ、ツッコミ役のたけしさんたちが、次々とおでんを食べさせることで面白く映るのです。熱湯風呂に入るときのダチョウ倶楽部にも、その芸は受け継がれています」
こうした腕が最近の芸人になく、結果的に今のテレビマンはガチで熱いものを食べさせてしまう。そのような光景が展開されれば、イジメに見えるのも無理はない。この悪循環が問題だと、三宅氏は指摘します。


殿フェロの「ハケ水車」は品がない


『FNSスーパースペシャル 1億人のテレビ夢列島』(俗にいう『27時間テレビ』)の第1回目、深夜帯に「骨盤当てクイズ」なる名作が放送されました。ビキニの女性モデルが登場し、彼女らの骨盤写真を見せ、誰の骨盤かを当てるというだけの企画内容です。少しエッチな雰囲気があるものの披露されるのはただのレントゲン写真なので、すんでのところでエロじゃない。
「僕としては、この骨盤当てクイズがギリギリのラインだったんだけど、後の深夜テレビは、品がなくなっちゃったんですよねえ。水車につけたハケを回して、AV女優の股間で回っているかどうかを当てる、『ハケ水車』とか……」
なるほど。たしかに『殿様のフェロモン』(1993年より放送された深夜番組)で決行されたあの企画は、品のカケラもなかった。いや、私は大好きなんですが……。


三宅氏がテレビマンにとって最も大事だと考えるのは、品性です。
「『品性』があるかないかの境界は、どこなのか。その答えは『自分の愛する人(家族・親戚・友達)に自分の番組を自信を持って観てもらいたいか、観せられるか』だと思います」
たしかに「ハケ水車」は、家族には観せられない。

オーソドックス6割にマニアック4割


三宅氏が担当していた『オレたちひょうきん族』は、同時間帯に他局で放送していた『8時だョ!全員集合』(TBS)より高い年齢層をターゲットに想定していました。だからこそ、より尖った笑いを意図的に盛り込んでいきます。とは言え、放送時間は土曜8時という完全無欠のゴールデンタイム。そこで重要になってくるのは、バランス感覚です。

「オーソドックスな笑い6割に対して、マニアックな笑いが4割です。10人が観ていたら、必ず6人は笑うであろうネタを入れながら、残りの部分に4人だけが大笑いするであろうネタを入れていたのです」
職員室のシーンで、明石家さんまの机には「杉本先生」の札を置き、他の机には「金八先生」「新八先生」「貫八先生」の札を置く。もしくは「お前は◯◯と付き合ってるだろ!」「あの店で××ちゃんを口説いてたろ!」と、出演者の内輪ネタを積極的に取り入れてみたり。これが、4割の“マニアック”に当てはまる笑いです。この「6対4の法則」は、優秀なテレビマンによるバランス感覚の賜物でした。

最近のテレビを「うるさい」と感じてしまう


三宅氏、最近のテレビを観ていると「どうも、うるさいなぁ」と感じてしまうそう。
「この場合の『うるさい』というのは、音だけではありません。画面のことも含みます」
著者が気にしているのは、文字情報のことです。番組タイトル、コーナータイトル、タレントが話している内容の字幕など、たしかに現在のテレビは画面上に文字が踊りまくり。
しかし、現代の制作陣にも言い分はあるはず。昔と違って今は視聴者がリモコンを持っているので、ザッピングが容易になった。画面が表示された瞬間、どんな内容を放送しているかわからないとチャンネルを変えられてしまう。……こうした心配からスーパーやワイプが多用され、画面がうるさくなったのです。

以下は、三宅氏の言い分です。
「『視聴者は観る側のプロ』だということを常に意識する。それでいて我々は『作る側のプロ』だという意識を強く持つことが大切です」
たしかに、テレビを観ていて「ナメられてるなぁ……」と感じることが無いわけじゃない。スーパーが頻出しない番組を観ていると、妙に落ち着くことさえあります。

「ヒナ段トーク」だと、さぼる奴が出てくる


一時期、バラエティ番組で猛威をふるった「ヒナ段トーク」。この形式、廃れるどころかテレビ界のフォーマットとして浸透してしまった感さえあります。しかし、著者はこの手法を好まないらしい。
「とりあえず人数をそろえておけば大丈夫だろうという制作側の心配から、この手の番組が増えているのではないでしょうか」
三宅氏は、またしても萩本欽一より「10人いたら、絶対、楽するヤツがいるだろう。画面に映るのは少ない方がいいんだ」と教わったそうです。
「出演者が必死にならない番組は絶対にうまくいきません。よく、『せっかくトーク番組に呼んでもらったのに一言も話せなかった』なんてネタを言っている芸人さんがいますが、そういう人がいる、という空間を作ってしまうのが、演出家としてダメだと思うんです」

これらは、まさにテレビ界のレジェンドによる金言の数々です。しかし、時代は残酷なほどに変わっている。筆者の小学生時代、学校へ登校したら『とんねるずのみなさんのおかげです』は当たり前のようにクラス内の視聴率100%を毎回獲得していました。中学~高校時代における『ダウンタウンのごっつええ感じ』も、同様にクラス内の視聴率は10割に達していた。
しかしこの先、「多くの日本国民がとりあえずこれは観ている」という番組は恐らく生まれないはずです。趣味は細分化しているし、テレビ自体の影響力も20世紀の頃の比じゃないのだから。

「多くの日本国民が観ている」であろう番組は、それこそフジテレビのお家芸だった気がします。しかし、もはや勝手が違うのか? 同局がパワーとスケールを見せつけた2008年『27時間テレビ』(司会:明石家さんま)も、実はそれほど視聴率を取っていないという話だしな……。
(寺西ジャジューカ)