第159回芥川賞の受賞作を以下の通り予想する。
芥川賞:高橋弘希『送り火』(「文学界」5月号)
候補作について、それぞれ内容を紹介しておきたい。
取り上げた順番は筆者の好みである。

直木賞編はこちら


youtubeもしくはニコ動小説とおフランスざます小説


芥川賞候補5作品のうち、個人的なお気に入りは町屋良平『しき』(「文藝」夏号)だった。ごく単純に言うと「踊ってみた」小説である。高校生の〈かれ〉はネットで「【えふとん】テトロドトキサイザ2号踊ってみた【とらさん】」という男性二人組のダンス動画を見て、それを自分でも完全コピーしてみたいと考える。夜な夜な公園に出かけて練習しているうち、いつも学校でつるんでいる級友の一人も巻き込んで完成を目指すことになる。

と、要約してしまえばこれだけの話なのだが、本作の魅力は視点の位置にある。〈かれ〉やその他の登場人物が同席しているとき、彼らの内面がカーソルを当てられたようにポップアウトし、それぞれの考えが読者に告げられる。
男子ABCと女子abcがいれば、それぞれの思い人と思われ人が食い違っているのが丸わかりだ。そんなことになるのは、思春期の内面が不完全だからである。当人が思っているよりも自分の心はあることにこだわっていたり、落ち込んでいたりする。制御しきれない心だから、本人の意思とは別物としてポップアウトした形で叙述されるのだ。題材が「踊ってみた」なのも「ダンスはうまく踊れない」ものだからだろう。思ったとおりに手足は動かない。
心も同じことなのだ。不完全な十代の主人公たちが、自分を持て余しながらも他人の言葉には耳を傾け(主人公と弟の関係がいい)、自分は傷ついても友人のことは思いながら生きていく。そういう好感の持てる青春小説だった。

お気に入り、次点は松尾スズキ『もう「はい」としか言えない』(「文學界」3月号)である。作者本人を思わせる劇作家・海馬五郎に突如、フランスから文化賞授与の吉報がもたらされる。そのアール・クレスト賞は実業家が道楽で始めた無名のものなのだが、とある事情からいっとき日本を離れることを欲していた海馬は渡りに船で飛びついてパリまでやってくる。

語り切れなかったり語り過ぎてたり。書評家・杉江松恋が第159回芥川賞をズバリ予想する

卑屈な小心者が欲を出したせいで異邦で理不尽な立場に追い込まれる、というスラップスティック・コメディだが、やってくるのがおフランスの花の都ではなく、移民流入の排斥で政治的にも揺れている現実のパリであるということで状況にねじれが生まれるし、日本人であるがゆえの仲間外れ感も募る仕組みだ。そうしたエトランゼ小説としては非常に楽しかった。キャラクターの存在感は芥川・直木両賞候補作併せてもこれが頭抜けていたように思う。だが芥川賞候補作としてはそこが逆に足を引っ張ることになるだろう。たとえば主人公の妻は冒頭に登場して小説全体を支配するのだけど、よく考えてみると設定上必要なだけで、出番がなくても話は成立する。そういう余剰は減点されるのではないか。


本命は候補回数最多の高橋弘希


その次が受賞と予想する高橋弘希「送り火」(「文學界」5月号)だ。高橋の候補4回目は過去最多、松尾が3回で他の3名は初である。

父親が転勤したため、中学3年生の歩は津軽地方の小都市に引っ越してくる。転入した学級には晃というボス格の少年がいて、歩は成り行きで彼のグループに加えられることになる。花札を使ったちょっとしたばくち、通過儀礼のような万引きと、それまでしたことがない悪事に巻きこまれるが、歩は持ち前の外面の良さからすべてを難なく乗りこなしていく。このグループの中には稔という精肉店の息子がいて、晃の嗜虐性がしばしば彼に向けられることにも歩は気づく

「指の骨」「朝顔の日」「短冊流し」と、過去3回の候補作で発揮された文章の美しさは本作でも顕著で、あちこちに息を呑むような風景描写がある。達者さでは候補作中随一だろう。
上に紹介したように学級内の歪んだ人間関係について書かれた小説なのだが、描かれる物事が、もしかするとこれって昭和の話なの、と確かめたくなるほど現代の空気からかけ離れているのが不思議である。しかし登場人物たち、特に主人公の心の動きは昭和のそれではなく現代のものだ。このへんの違和感は意図されたアナクロニズムではなく、津軽の現実を筆者が知らないせいだろうと納得することにする。それより納得しがたかったのは最後にカタストロフが用意されていたことで、爆発のおかげでわかりやすいところに話が収まってしまう。それは蛇足だったような気がするが、選考委員はどう評価するか。

語り足りなかったり語り過ぎたり


今回の候補作は水準が高く、どうしてこれが、というような疑問符のつく作品は上がってこなかったと思う。
すべて楽しく読んだ。
と、お断りしておいて好みの上では下位となる二作である。まず古谷田奈月「風下の朱」(「早稲田文学」初夏号)から。冒頭の数ページだけを読んだときには、あ、これがいいじゃん、受賞しちゃえばいいのに、と思ったのだった。群馬にある明水大学に入った〈私〉は侑希美という先輩から「あなたって健康そう」と野球部への勧誘を受ける。高校までソフトボールに打ち込んでいて大学では別のことに挑戦したいと思っていた〈私〉だったが、侑希美に興味を持ち、誘われるままに野球部のグラウンドへと足を運んでいく。

実はこの野球部、部長を含めて部員が3人しかおらず、彼女たちはなんとかナインを揃えて試合をしたいと思っていて、という展開になる。そこまではスポーツ小説のノリでしょう。これが芥川賞なの、と言いたくなるでしょう。でも、中盤から話は変わってくる。野球部員であるには心身が「健康」でなければならないという強いこだわりのある侑希美と、他の2人の先輩の間には考えの隔たりがあり、そのことが災いしてしまうのである。序破急の構成だとすると、破で雲行きが怪しくなってから最後までの展開が文字通り急すぎて、この分量で書かれるべきではなかったのではないか、と感じる。中心には女性性の問題があるのだが、その主題が語り切れていないのだ。
本作はすでに『無限の玄/風下の朱』として単行本化されている。同時収録の「無限の玄」は第31回の三島賞受賞作で、こちらは男性性についての小説である。2作を対にすると作者の企図はより明確になる。逆に、一作では評価しにくいということでもある。語り急ぎ感があるのもそのためだ。

最後の北条裕子「美しい顔」(「群像」6月号)は、第61回群像新人文学賞受賞作である。題名は主人公が自己防衛のために被った仮面のことを指している。東日本大震災で発生した津波で母親が行方不明になった高校生の〈私〉は、七歳の弟ヒロノリと共に避難所生活を始める。高校で準ミスに選ばれた〈私〉にメディアの取材陣は注目し、彼女を主人公にしたストーリーを報道の中で作ろうとする。いわば感動ポルノだが、〈私〉はそれに乗る。自分を商品として利用するのであれば、それを逆利用してやろうと考えるのだ。そうすれば避難所にも物資が届けられるようになる。忘れられることもない。自ら被災者として広告塔になろうという不自然な自己主張が描かれていく。
語り切れなかったり語り過ぎてたり。書評家・杉江松恋が第159回芥川賞をズバリ予想する

被災の状況を描く際に作者は既存のノンフィクションからディテールを借用し、それに対する批判を招いた。すでに多くの指摘を受けている問題なので、ここではそのことには触れない。この作品で私が残念に思うのは別の箇所で、上記したように歪んだ自己像に囚われた主人公がその状況から復帰するきっかけが、母の友人である斎藤さんという女性の説教になっているところだ。斎藤さん、語るのである。主人公の頬を張り、壁に押しつけられた逆壁ドン状態のまま5ページ半にわたって縷々と語る。おそらくここがもっとも作者が書きたかったところだと思うし熱が籠るのもわかるのだが、登場人物にここまで語られなくとも読者には〈私〉の錯誤は自明だ。あえて台詞で書いてしまう必要はない、と私は考える。この後に主人公は自身の中に深く降りていき、自分を再発見するくだりがある。そこへ到達するためのステップとして作者が必要としたのだと思う。でも語り過ぎだ。
(杉江松恋)