野球でもビジネスでも、イツワに完敗!
TBSドラマ「ルーズヴェルト・ゲーム」第5話、青島製作所は自分たちのらしさ(イズム)を全面に発揮し、そして敗れ去るというツラい展開が描かれた。

ビジネスでは、青島製作所の肝である「技術力」を全面に打ち出して東洋カメラとの業務提携を進めるものの、ライバル会社・イツワ電器から「価格攻勢」という横槍が入り、取引を白紙に戻されてしまった細川社長(唐沢寿明)。


一方野球部は、そのイツワ電器と都市対抗野球・東京都予選で対戦。負ければ廃部、という状況の中、にっくきイツワのエース・如月一磨(鈴木伸之)を打ち崩して延長戦にまでこぎつけるものの、最後はイツワの地力の前に敗れてしまう。

ただ、負け続けた内容にもかかわらず、見終わった後にはやるせなさだけではなく、どこか清々しい気持ちも残った。
「あいつ(沖原和也=工藤阿須加)はバカのひとつ覚えみたいにまっすぐを投げるだけだよ。でもなぜかな、胸が熱くなるのは」
青島会長(山崎努)の言葉が胸に沁みる。

負けたら廃部、のはずだった野球部は都市対抗予選の「敗者復活」へ望みを託す展開に。
だが、ビジネスではどう挽回するのか。
ひとつだけ言えるのは、今回の敗戦によって野球部も、そして細川社長も一段階上のレベルに到達しただろうということ。
「一度も負けたことのない野球選手なんてどこにもいない。そこからどう這い上がって強くなるか。逆転! 逆転だっ!!」
青島会長のこの言葉が今後何度もリフレインされそうな予感がする。


さて、先週から今週にかけての「ルーズヴェルト・ゲーム」にはもうひとつ、大きな見どころがあった。

5月24日(土)の埼玉西武ライオンズ対東京ヤクルトスワローズ戦(@西武ドーム)で、青島製作所野球部の命運を握るピッチャー沖原和也を演じる俳優・工藤阿須加が始球式に登板したのだ。
ドラマで身につけるいつもの背番号「14」ではなく、ライオンズ黄金期を支えた父・工藤公康の「47」の背番号を背負い、ライオンズのユニフォーム姿で西武ドームのマウンドに立った工藤阿須加。左右の違いはあれど、西武のマウンドに「工藤」と「47」が帰ってきた瞬間だった。

2010年、47歳まで現役を続けた、父・工藤公康。
通算224勝、所属した西武・ダイエー・巨人の3球団で日本シリーズを制覇したことから優勝請負人と呼ばれたことなどを覚えているファンが多いだろう。
だが、工藤がまだ今の息子・阿須加ぐらいの年齢の頃、どんな野球人だったかは若いファンはあまり知らないのではないだろうか。

本稿ではあえて父・工藤公康を掘り下げることで、息子・工藤阿須加が果たした役割に迫ってみたい。

◎入団1年目にしてヤジ将軍

名古屋電気高等学校(現:愛知工業大学名電高等学校)時代には甲子園でノーヒットノーランも演じた工藤公康。当初は社会人野球入りを希望していた工藤だったが、ドラフト6位で西武が強行指名し、得意の交渉術で入団にまでこぎつけてしまう。実際、82年にプロ入りすると、入団1年目から1軍ベンチ入りを果たす逸材だった。

最近は『熱闘甲子園』のナビゲーターなど、“誠実な野球解説者”として表に出ることが多い工藤。しかし30年以上前、入団したての頃の工藤は血気盛んで「ヤジ将軍」と呼ばれていたという。
70年代・80年代の球界の裏側に迫った『プロ野球なんでも番付』という本の中で、工藤のヤジ将軍ぶりが紹介されている。

《西武・工藤の「口先男」のアダナはダテじゃない。昨年入団一年目にしてチーム随一の「ヤジ将軍」となったのだから、この少年の心臓は別あつらえに出来ている。開幕して早々の南海戦、昨年のホームラン王・門田がボックスに立つと、「ヘーイ、肥り過ぎだぞ! 腰が回らんぞ」とやった。門田もビックリしたが、仲間の方が仰天した》

一見ハチャメチャな「ヤジ合戦」にも厳然とした掟があるのがプロ野球。門田博光クラスのスター選手が強烈なヤジを浴びせられることは(ましてや10代の若僧にヤジられることは)あり得ないことなのだ。


だが、工藤にはこうした“不文律”は通じなかった。他球団との対戦においても、阪急のブーマーが空振りをすると「暑い、暑い、もっと風を送ってくれ!」とヤジを飛ばし、阪急の正捕手・中沢伸二がヒゲを伸ばし始めると「むさくるしいぞ!ヒゲをそれ」とヤジったという。

工藤の言い分はこうだ。
「いい過ぎですって? いいんですよ。僕は西武の人からよく思われればいいんであって、他チームの人は関係ないんですよ」。
ドラマの中で息子・阿須加演じる、相手のヤジにも怯まずに投げ続ける好青年・沖原和也とは真逆の存在。
むしろライバルの如月一磨的な野球選手だったのだ。


◎我が道を行く「新人類」

ヤジ以外でも問題発言や目立つ行動が多く、我が道を突き進む工藤のことを、周囲は「新人類」と呼んだ。
やがて工藤の「口撃」は相手チームだけでなく、自チームにも向けられるようになる。
1988年10月、3年連続パ・リーグ制覇に向けて近鉄とのデッドヒートを繰り広げていた西武。
シーズン終盤のスクランブル体制になると、当時の森監督は「中3日先発もさせる」と発言。しかし、これに工藤が噛み付いた。

「優勝するためにやってるんじゃないんだ」
「優勝しても、来年投げられなくなったら終わりじゃない?」
工藤はこう反発して、「中3日先発」を断固拒否した。

今の時代であれば工藤の言い分にも理があるだろう。
だが30年前の球界では監督の起用法に異を唱えるなど絶対のタブー。ましてや工藤はまだまだ25歳の若僧であり、優勝争いをするチームのエースだったことから、球界内だけでなく世間からも非難が殺到してしまう。
そしてこの「事件」が契機になったかのように、翌89年から工藤の成績は下降線を辿ることになる。


◎息子の誕生で変わった野球観

工藤は若手の頃、とにかく練習が嫌いで、どうすれば努力せずに野球がうまくなるかばかりを考えていたという。
自著『折れない心を支える言葉』の中でも、自身の「怠け者ぶり」を紹介している。
《野球を始めたころは、いかにラクして野球がうまくなれるかだけを考えていた。「面倒くさいことはやりたくない」というタイプの人間だったから、困難に立ち向かおうなどという気持ちはまったくなかった。そもそもが、怠け者なのだ》

だが、そんな気持ちで続けられるほどプロ野球は甘くはない。
自らの舌禍も災いし、周囲から厳しい視線を浴び続けたことも影響したのか、89年はわずか4勝どまり。翌90年も9勝と2ケタ勝利に届かず、「工藤限界説」もささやかれるようになる。

ところが工藤は、90年から91年にかけてをターニングポイントにして、見事に復活を果たす。
91年は自己最多となる16勝。以降5年連続で2ケタ勝利を挙げ、93年には最優秀防護率とMVPに輝くなど、球界を代表する投手の座に登りつめてしまう。

91年に一体何があったのか。
この年は、長男である阿須加が生まれた年だった。
再び、『折れない心を支える言葉』から。

《それまでを振り返ってみれば、ある意味でプロとしての自覚がない、どこにでもいるような若造にすぎなかったと思う。ところが、初めて生まれてきた子どもの顔を見たとたん、「ああ、こういうことを父親っていうのかな」と目がウルウルするくらいに感動した。その瞬間に、「自分が人の親になれたんだ」という熱い気持ちが胸に湧きあがってきた。小さな命を目の前にして、自分の心になにか変化が生まれたのがわかった》

毎晩のように球場があった所沢から六本木や銀座に繰り出し、浴びるように酒を飲んでいたという若かりし頃の工藤。
ところが、「息子の誕生」がキッカケとなって、才能だけで投げていたそれまでの野球人生を改め、トレーニング方法や体調管理をイチから見直したのだ。
この頃を境にして過酷なトレーニングとストイックな生活を続けるようになり、さらには運動生理学やスポーツ医学などの勉強にまで手を伸ばすようになったからこそ、47歳まで現役を続けることが出来たのではないだろうか。

父の生き方を変えた息子・阿須加が父の背番号を身につけ、父が守った西武球場のマウンドに登る。
あの始球式からこんなドラマも振り返ることができるのも、歴史を背負う野球の醍醐味といえるだろう。


さて、次回予告を見る限りでは更なる困難に襲われそうな沖原と青島製作所の面々。彼らの道しるべとなりそうな言葉も工藤公康は残している。
《困難に立ち向かうことで、勇気が生まれる。勇気があれば、未来はおのずと開けてくる。できないと思ってしまえば、人間はそこで終わりだ》
(オグマナオト)