「野球で一番面白いゲームスコアは8対7だ」
とは、アメリカのルーズヴェルト大統領の言葉とされる。現在放送中のドラマ(TBS系・日曜21時~)およびその原作である池井戸潤の小説のタイトル「ルーズヴェルト・ゲーム」もこの言葉に由来する。


スポーツライター・玉木正之の『プロ野球大事典』(1990年)にも、「ルーズベルト」の項が立てられ、この言葉が紹介されている。《二線級の投手が打たれてばかりで……といった試合もあるだろうから、なるほどその通り、とはいえないが、紋切り型を常用する政治家や財界人のセリフとしては、まずまずの表現のように思える》とは玉木の評だ。ただ、アメリカ大統領でルーズヴェルトといえば、第26代のセオドア・ルーズヴェルトと第32代のフランクリン・デラノ・ルーズヴェルトがいるが、例の言葉はどちらが発したものなのか? これについては、野球に精通しているはずの玉木でさえ、「いくら調べてもわからない」と読者に教えを乞うている。

それが最近になって、この言葉の出所があきらかにされた。謎を解いたのは、“日本でもっともメジャーリーグにくわしい病理医”向井万起男。そう、宇宙飛行士・向井千秋の夫である。
向井は、池井戸潤の特集を組んだ講談社の月刊文庫情報誌「IN POCKET」2014年3月号の取材を受け、あらためて調べてみたという。そのうえで向井は次のように回答を寄せている。

《野球(ベースボール)を愛した第32代大統領フランクリン・ルーズヴェルトのフレーズです。一九三七年一月、彼がNYタイムズの記者に宛てた手紙の末尾に、この言葉がありました。フランクリンは、野球記者協会より招待されたディナーに欠席したことを詫びるため、この手紙を書いたようです》

フランクリン・ルーズヴェルト(以下、FDRと略)といえば、第二次世界大戦中、多くのプロ野球選手が招集され戦地に赴くなか、メジャーリーグの公式戦を続行すべきかどうか悩んだコミッショナーからの手紙に対し、それを良しとする返事(いわゆるグリーンライトレター=青信号の手紙)を出したことでも知られる。国民がより懸命に働かなければいけない戦時下にあって、人々の心を休めるレクリエーションとしての野球はますます必要となる、というのがFDRの考えだった。


では、企業が経営危機にあるとき、社内の野球部は存続されるべきか否か? これこそまさに前出の「ルーズヴェルト・ゲーム」のテーマの一つである。ドラマは第3回にして、早くも急展開を迎えている。

物語の舞台となる青島製作所では、経営不振からリストラの嵐が吹き荒れている。野球部員で契約社員の沖原(工藤阿須加)もまたリストラの対象となる。その野球の才能と真面目な勤務態度を買う野球部長で総務部長の三上(石丸幹二)は社長の細川(唐沢寿明)を説得して、ついに沖原の会社残留および正社員への昇格を認めさせる。

だがこのことは、ほかの社員たちから「会社は野球部に甘い」との不満を招くことになる。
そこへ来て、野球部のエース格の萬田(馬場徹)に異変が表れていた。ひじの故障で、医者からは少なくとも半年は投球を禁じられたのだ。

萬田の不調に、たまたま野球部の食堂を訪れた細川が気づく。あのような選手は役に立たないと言う細川に、そこで食事をとっていた監督の大道(手塚とおる)は「うちには役に立たない選手などいない」と抗弁する。ここから今回の一つの山場が訪れる。細川がいったんは野球部廃部を決めながらもそれをひるがえしたのは、会長の青島(山崎努)との賭け(細川と一緒に観戦した試合で野球部が勝ったら廃部を取り下げる)に負けたからだと明かしたことに対し、大道はブチ切れる。


「(試合に)負けたら廃部!? 上等じゃねえか。勝って勝って勝ち続けてやるよ。おれたちは野球以外に失うものは何もねえんだ。優勝してあんたを見返してやる。逆転だ! 青島製作所野球部をなめんな!」

そこまで啖呵を切ったところで、ハッと我に返って急に弱気になる大道。かっこ悪いけど、かっこよかったよ! けれども細川はあくまで冷静というか冷酷だ。
ほかの社員の不満をかわすべく、野球部からも最低一人は解雇しろと、三上に命じたのである。その対象として、当然ながら萬田が浮上する。だが、当人はすでに覚悟を決めていた。萬田は自分の後継として、沖原に自らの持ち球であるシュートを猛特訓で叩きこんだのち、退職を申し出る。

退職の日、萬田は同僚たちに向かって球場に応援に来てくれるよう、ひたすら頭を下げ懇願する。はたして次の試合では、青島製作所の社員が球場のスタンドを埋め尽くし、部員たちを激励するのだった。


ところで、前々回、前回と描かれてきたように、崖っぷちに立たされているのは社員ばかりでなく、社長の細川もまた例外ではない。第3話において細川は、ライバル社・イツワ電器から実用新案権の侵害で提訴を受け、何とか和解に持ちこもうと協議の席をつくってもらう。しかし、ジャパニクス社長の諸田(香川照之)による仲裁、経団連副会長の立ち会いのもと行なわれた話し合いはこじれにこじれる。あげくの果てに、細川が切り札として顧問弁護士(木本武宏)に探させていた証拠が提示できず、イツワ社長の坂東を激怒させてしまう。それにしても、立川談春演じる坂東の「何の根拠もなく犯罪者呼ばわりしたんじゃねえだろうな、おい」というヤクザまがいの恫喝の迫真ぶりにはビビった。気鋭の噺家にこれほどヒール役がハマるとは、冥途の師匠・談志もビックリ!?

青島製作所の社内でも、民事再生の申し立て以外に会社を救う術はないと専務の笹井(江口洋介)たちから突き上げられる細川。そこへ来て、諸田からイツワとの経営合併の話が持ちこまれる。提訴といい和解交渉の破談といい、すべては仕組まれていたことだったのか……。はたして社長の細川はどんな決断を下すのか。そして青島製作所の逆転はありうるのか? というところで次回へつづく――。

フランクリン・ルーズヴェルトという人もまた、生涯において何度となく危機に直面してきた。その最大のものは、39歳だった1921年にポリオ(小児麻痺)にかかったことだ。彼の身体の自由を一気に奪ったこの病気は、当時まだ有効な治療方法がまったくなかった。

FDRは1913年にウィルソン政権の海軍次官に抜擢されて国政デビューを果たし、病魔に襲われる前年の大統領選では民主党の副大統領候補にも選出され、その敗北後も政界復帰をめざしていた。難病で下半身不随となり一時は将来に絶望したものの、懸命のリハビリにより見事に社会復帰を果たし、政界にもふたたび進出した。

闘病生活のなかで、FDRは弱者の立場で物事を考えるようになったともいわれる。そうした体験は、1937年1月、2期目の大統領就任演説での、《零細な収入によって生きようともがき、しかも、その家庭には破滅の影が日ごとに垂れこめている数百万の家を、私は見ている。(中略)国民の三分の一は、粗悪な住居、粗悪な衣服、粗悪な営業の生活を送っていることを、私は見ている》との言葉にも表れている(引用はジョン・ガンサー『回想のローズヴェルト』より)。

「ルーズヴェルト・ゲーム」の由来となる例のフレーズをFDRが手紙にしたためたのは、まさにその頃だった。彼が1933年の大統領就任以来、世界大恐慌の経済危機から脱するべくニューディール政策を掲げたことはよく知られる。その甲斐あっていったんは景気は上向いたが、大統領の2期目に入ったとたん、急激な景気後退に見舞われる。その後、アメリカは本格的に不況から脱却したとはいえ、それはニューディール政策ではなくむしろ、ナチスドイツの台頭など国際情勢の悪化にともなう戦時体制への移行によるところが大きかった。

それでもFDRは1940年と1944年の大統領選において、アメリカ史上、空前にして絶後の3選・4選を果たし、任期途中の1945年4月に脳溢血で死去した。この間、1941年に日本軍による真珠湾攻撃を受けて第二次世界大戦に参戦、その終戦前に亡くなったとはいえ、アメリカを勝利へと導き、超大国として戦後世界に君臨する礎を築いた大統領として、いまなお同国内での彼の評価は高い(彼が原爆開発や米軍の日本大空襲にゴーサインを出した張本人であることを思えば、日本人としては複雑な気持ちにもなるが)。

病気からの克服に加え、大恐慌からの脱却、さらには第二次大戦(太平洋戦争)での逆転劇と、まさに逆転に次ぐ逆転を一生を通して示した男、それがフランクリン・ルーズヴェルトであった。
(近藤正高)