6月14日(土)から公開される「私の男」の原作者・桜庭一樹インタビュー後編。女性の描き方をはじめとして、映画と小説の違いについて伺いました。

子供時代の花が抱えているペットボトルにも、意外な秘密が……。
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───熊切監督は、桜庭さんのお好きな『揮発性の女』をはじめ『夏の終り』『ノン子36歳(家事手伝い)』など女性が主人公の映画も多いし、描くのも巧い気がしますが、桜庭さんが感じた、女性の書き方の違いなどはありますか?
桜庭 自分が女性なので、その視点で書いているのに比べて、熊切さんは、距離をとって女性を見ている気がします。『私の男』も遠いところから検証している気がしました。これは脚本家の宇治田隆史さんの視点かもしれません。例えば、淳悟の恋人・小町が、警官にちょっかいをかけられて、「私のこと好きなんですよ」というシーンで「と言ってる小町の若くない手」というト書きが書いてあって、「おう! おう!」 って(笑)。少女がもっている悪意の魅力とか、女の人のゆだんしている後ろ姿や、本人が気づいていない横顔の表情などが、時々すっと台本に入ってきて、それは自分にはない視点で、面白かったんです。


───やっぱり、ご自分が書いたものと違いがあったほうが面白いですか?
桜庭 そうですね。特に、私は女性を書いているので、男性が撮ったほうが面白い気はします。この前、映画化された『赤×ピンク』(監督:坂本浩一、脚本:港岳彦)も、女性が小説を書いて、女性が出演するから、映画を作る人は男性がいいのではないかってことだったんです。男性と女性、両方の視点が入って作られたほうがいいということはありますね。私の担当の編集さんも男女半々くらいがいいかなと。たいてい、女性の作家には女性の編集者がつくことが多いものですが、男女、両方いたほうが違った意見が入るから、とお願いしたことがあります。


───映画は話の順序が小説とは違うんですね。
桜庭 小説は、現在から過去に戻っていって、映画は、過去から現在に進むんです。小説は、現在から過去の幸せに戻っていくから、いくらでも暗くできましたが、時系列が違うと、印象が変わりますね。映画は、大人になった二階堂さんがもっている不気味な光みたいなものが、なかなか面白いと思いました。

───進行形になると、さきほどおっしゃった絶望的な幸せが続いていくおそろしさもありますね。
桜庭 うんうん。


───小町の話に戻して、小説では、彼女が過食して、太っていく描写がありますね。映画ではそれはなかったです。
桜庭 私は、突然太る人を時々書いているんです。異常なストレスがかかったときや、深い喪失が突然あったとき、人は突然、爆発するように膨らむことがあります。それは、「太った」というより「膨らんだ」としか思えないんです。一種の過食では、その原因は、突然の喪失という場合もあると思うんですよ。
。多分、小町さんが膨らむのも大きな喪失。でも、その理由は、男ではないのかもしれない。故郷を喪失したことによることかもしれないと思います。ほかにも、突然、老けたり、一夜にして髪が白くなったりする描写を、時々書きます。そういう描写って、映画的ではなく、演劇的かもしれないですね。
この演劇的というか神話的というような描写を、そのまま現代の映像にしたとき、撮るのは難しいですよね。まさか、稲垣吾郎さんが『SMAP×SMAP』のコントでやっているような、着ぐるみみたいにはできないですものね。それじゃあ、ちょっと笑っちゃう(笑)。やっぱり、急に膨らむという描写は、そのまんま実写ではできないのかもしれません。

───女性がものすごく太るという描写は、『嫌われ松子の一生』(中島哲也監督)でありましたね。
桜庭 あれは、かなり遠くから撮っていましたよね。


───あれが、シリアスな映像表現の、ギリギリ限界だったんでしょうね。
桜庭 寄って撮ると、コントになってしまうのかも。

───そういう表現が成立するには、やっぱり、文学なのかもしれないですね。
桜庭 そうですね。

───当たり前の話ですが、小説は文字で感情を濃密に描いていて、映画ではその言葉は使わず、その分、画面が濃密です。
桜庭 小説は、地の文で、主人公の気持ちを書けば書くほど、主人公に寄り添ってしまうので、語り手を変えて、別の価値観を語らせて、それからまた主人公達に戻るようにしています。ただ、映画で、こういう構成にすると、説明が多くなってしまいます。私は、説明が多い映像がほんとうに嫌いで。ずっと登場人物がしゃべっている映像ってありますよね。全部わかった。なぜなら、全部あなたが言ってくれたから! っていう(笑)。そういうのがあまり好きじゃないですね。見た者に想像させる余地のあるものがいいですね。

───幼い花(『花子とアン』の、はなの子役・山田望叶が演じている)が、事故から生還して保護されているとき、ペットボトルを抱きしめている描写が映画では印象に残ったんです。単に飲み物という物質ではない気がして。小説では「わたしのもの」という表現以外は、飲む描写です。ペットボトルには何か託したものがありますか。
桜庭 『私の男』の主人公の花は、この小説ではじめて出てきたのではなくて、原型はたぶん『赤×ピンク』(03年)のまゆなんです。3人の主人公のうちのひとりである彼女は、話の3分の1くらいで、急にいなくなってしまうんです。映画化するときには、この子のことをちゃんと描かないといけないということで、書いています。小説では、まゆは、いなくなったために、その後の作品にもずっと続いて出てくるんです。『赤×ピンク』のあと『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない A Rollypop or A Bullet』(04年)を書いたときに、なんとなくなんですけど、同じ女優さんが演じているようなイメージで、まゆのように不思議な不安定な女の子が出てきました。名前は、海野藻屑と言います。彼女がずっとペットボトルの水を飲んでいるんですよ。小説の舞台は田舎で、水道水で十分美味しいから、ほかの誰もペットボトルの水を飲んでいないのに、都会から来た藻屑はずっと飲んでいる。彼女にあることが起こったあと、その水を語り手の子が飲んでみて、「やっぱり自分たちの飲んでいる水と違う」と言うシーンを書いています。その影響か、いまだに、私のサイン会に、ペットボトルの水を飲みながら来る方がいます。サインに、なまえを書きましょうって聞くと、「海野藻屑」と名乗るんです。あの子が『私の男』にまた出てきたと、私は思っているんです。「嵐」というモチーフも共通なんです。

───じゃあ、熊切監督が、桜庭作品を読み込んでいて、意識して撮ったのかもしれないですね。
桜庭 映画はひとつ単独で存在するので、熊切さんなりに違った意味ををもっているのかもしれませんね。小説では、『赤×ピンク』から続いている少女が、『私の男』を経て、『ファミリーポートレイト』(08年)にもつながっています。『私の男』の、花と淳悟はその後、どうなったのか? とよく聞かれても、私には答えられないのは、こうやって、まだ、その少女が続いているからなんです。
(木俣冬)