1986年6月22日。メキシコシティのアステカスタジアムは11万5000人の観衆で埋まっていた。

メキシコW杯準々決勝。開始前、正面スタンドを背にして右側の2階席に陣取るイングランドサポーターは、その1階席を埋めるアルゼンチンサポーターに、ビニール袋に詰めた小便を次々と投下した。

 ビールのアルコール分が大量に混じる尿ほど臭いものはない。その挑発に怒り心頭に発したアルゼンチンサポーターは、すかさず上階へと駆け上がっていく。1階席と2階席の間の踊り場では派手な乱闘騒ぎが繰り広げられていた。

 イングランドとアルゼンチンは当時、フォークランド(マルビナス)諸島を巡り対立する紛争国同士の関係にあった。

メキシコW杯準々決勝は、その代理戦争でもあったのだ。両軍にとってこの試合こそ「絶対に負けられない戦い」だった。

 当時のイングランドサポーターは、まさしくフーリガンだった。いまとなっては見かけることが少なくなった、見るからに危なそうな喧嘩大好き野郎たちである。メキシコシティの6月は暑い。試合前、ビールを浴びるほど飲んでいたイングランドサポーターの中には酔い潰れ、試合が始まる頃には寝てしまっている輩も多くいた。

 後半6分は、そんなフーリガンたちが目を覚ました時間だった。ホルヘ・バルダーノとの間でかわしたワンツー崩れが、走り込んだディエゴ・マラドーナの頭上に落下してきた、その瞬間だった。"神の手ゴール"が決まったのは。

たぶんメッシよりすごかった。マラドーナにあった猛烈なエネルギ...の画像はこちら >>

1982年スペイン大会から1994年アメリカ大会まで4回W杯に出場したディエゴ・マラドーナ

 筆者が観戦していた場所は正面スタンド2階席の右側で、ゴールが決まった場所はいわゆる逆サイドだった。記者席にテレビモニターなどなかった時代である。距離にして70~80メートル先で何が起きたのか、はっきりとはわからなかった。

 11万5000人の大観衆の反応も様々だった。大喜びしている人もいれば、呆気にとられている人もいた。こちらは3分ほどの間、狐につままれたような状態でいた。

 もうひとつの事件は、そうこうしている間に勃発した。

 60メートル5人抜きゴールだ。後半9分。

ゴールが決まると筆者は記者席を離れ、2階席最前列まで駆け下りて、欄干に手を掛けながら階下をのぞき込んでいた。そして気がつけば、右手の拳を上げガッツポーズをとっていた。

 アステカスタジアムは揺れていた。震度1か2か、その程度はあったと思う。鮮明に記憶しているのは、足場となる2階席最前列のコンクリートの床に、小さな穴が空いていたことだ。そこから階下の様子をのぞき込むことができたのだが、目は同時に、コンクリート構造のスタンドの厚みも知ることになった。

わずか数センチという薄さだった。そこで揺れを感じていると、スタンドが崩れ落ちるのではないかと、恐怖に襲われ、足がすくんだ。以降、「60メートル5人抜きシュート」の映像を見るたびに、あの時の揺れと、コンクリートに開いた穴の存在を思い出す。

 同時に、「いまならあのプレーはできるだろうか」と思う。マラドーナが現役なら、60メートル5人抜きはできるだろうか、と。当時のサッカー界には、プレッシングサッカーという概念はなかった。

単純に下がって守ることがディフェンスだった。

 リオネル・メッシにはプレッシングをかいくぐる術があるが、マラドーナはどうなのか。メッシとマラドーナ、「すごいのはどっち」と、必ずやそこで自問自答している。答えはマラドーナで常に同じなのだが、実際に見てみたいという思いに毎度、駆られることも事実だ。メッシと同じ時代にマラドーナを見たかった。メッシよりマラドーナのほうが推進力、馬力、そして躍動感に富んでいたとう思うが、実際にはどうなのだろうか。

 マラドーナを初めて見たのは1979年、日本で開催されたワールドユース大会で、マラドーナはラモン・ディアスとともにアルゼンチンの2トップを張っていた。旧国立競技場のピッチを、ものすごいスピードで駆け抜けていた印象がある。

 次に見たのはその3年後だった。1982年スペインW杯。バルセロナのいまはなきサリアスタジアムで行なわれた2次リーグのブラジル戦で、マラドーナはブラジルのMFバチスタのお腹を蹴っ飛ばし、退場処分に課せられたシーンも脳裏から離れない。

◆「カレッカが語るマラドーナの仰天エピソード」>>

 準決勝で地元イタリアと対戦した1990年イタリアW杯も記憶に残る。舞台は当時、マラドーナが在籍していたナポリの本拠地サンパオロスタジアムだった。イタリア代表より、地元の英雄マラドーナ(アルゼンチン)に肩入れする観衆の多さに驚かされたものだ。当時の日本にはまったく存在しなかったクラブサッカーの文化に、マラドーナを通して触れることになった。カルチャーショックとはこのことだった。

 マラドーナがナポリでセリエAを制する模様は、日本でテレビ放送されなかった。欧州クラブサッカーはその時まだ、遠い存在にあった。筆者が欧州に足を運び始めたのも90年イタリアW杯以降になる。ナポリ時代、あるいはその前のバルセロナ時代の活躍は、欧州在住のカメラマンから送られてくる写真を通して知ることになった。欧州から届く写真を心待ちにしたものである。ルーペで拡大されたスライド写真をビューワーに翳しながら、ワクワクしながら目を凝らしたものだ。

 結局、実際にこの目で見ることができたのは、先述のワールドユース大会と、1982年から94年までのW杯4大会における、アルゼンチン代表としてのマラドーナだけだった。トータルでおそらく20試合に達したかどうかだ。マラドーナは、彼と同世代の筆者にとっても遠い、伝説的であり神秘的な存在だった。

 日本代表がW杯に初出場したのは1998年フランス大会なので、マラドーナは、日本サッカーの興隆と反比例するように、表舞台から消えていったことになる。マラドーナを知る世代はせいぜい50歳以上の人だろう。

 それ以下の世代の人に伝えるならば、たぶんメッシよりすごかった。猛烈なエネルギーを備えていた。その生もうまれ変わりが、出現することに期待したい。