沢田研二はかつて、おフランスでもアイドルだった
(上)『quinze ans(15才)』表紙。日本特集らしく、桜が舞い散る中、日本髪の少女が描かれています。実はこの表紙も藤田ミラノさんという、当時、渡仏したばかりの日本人画家の手によるもの<br>(下)これが問題の(?)記事。「日本風の雰囲気をつくってみよう!」という手づくりインテリアページの片隅に掲載。<br>同じページに「日本風クレープ」と「スキヤキ」のレシピも紹介されてました
少々、マニアックな話題で申し訳ないのだが、海外の古い雑誌をいろいろコレクションしている私。最近、『quinze ans(15才)』というフランスの70年代の少女雑誌を見ていたところこんな記事を見つけた。

「日本的な雰囲気を演出する手づくりインテリア」紹介ページに、ジュリーこと沢田研二さんのフランス語版レコードが紹介されていたのである。70年代といえば私は小学生。当時、「勝手にしやがれ」「サムライ」「ダーリング」など、次々とフックの効いたヒットを飛ばし、私もモノマネつきでよく歌っていたものだった。そんな押しも押されぬスーパーアイドルだったジュリーだが、ひそかにフランスデビューまでしていたとは! 辞書を片手にむりやり記事を訳してみたところ、
「トーキョーのヒットパレードで有名な沢田研二が、この冬ヨーロッパを魅了」と書いてあり、なんと、フランスだけでなくイギリスや旧西ドイツでもレコードが発売され、婦女子のハートをワシ掴みにしていたようです。
誌面には「mon amour Je VIENS DU BOUT DU MONDE(邦題は「巴里にひとり」)」のシングルレコードが紹介されており、なんとこの曲は75年にはフランスでベスト10入りを果たしているんですってよー。

「人気アーティストの◯◯がついに海外進出!!」とかいっても、たいてい海外でレコーディングしただけだったりすることが多いのにこれってスゴイことなのではないでしょうか。ちなみに、このフランス語タイトルを直訳すると「恋人よ、ボクは世界の果てからやってきた」となります。私たちが外タレに憧れるように当時、パリの女の子たちは「東洋からやってきた王子様」ジュリーにシビれていたんでしょうか?? 音源のほうも探して聴いてみたところ、たどたどしくて決してうまいとはいえないフランス語でしたが、そこが逆にマドモワゼルたちの母性本能をくすぐったのかも……。

ただひとつ、この記事で残念なのはジュリーの日本でのヒット曲「危険なふたり」が、間違えて“kikenna future”(「危険な未来」)と紹介されていたこと。確かにローマ字で書くとスペル似てますが、「危険なフューチャー」って……。
この記事が載っていたのは『quinze ans(15才)』というティーンの女の子向けの雑誌で、この号の特集はズバリ「JAPON(日本)」特集。日本でいうと「セブンティーン」みたいな、ファッションやインテリア、マンガなど10代の女の子の関心事が詰まっている、なんともかわいらしい雑誌なのです。

化粧やフリフリのブラウスなども難なく着こなし、今思えばビジュアル系の父ともいうべき存在だったジュリー。考えてみたら退廃的なムード漂うおフランスとジュリーはとってもよくお似合い! ジュリーの昔からのファンという人には「今さら」な話題なのかもしれませんが、門外漢にはちょっとびっくりの発見でした。
(野崎 泉)
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