海の向こうでは全米女子OP 西村優菜のビッグスマイル
1965年7月15日、埼玉県川越市。この町は今も夏には全国でも一、二を争う暑さで知られるが、当時も正午現在の気温は32度、湿度94%という蒸し風呂のような暑さだったと「日本プロゴルフ協会50年史」には、ある。川越カントリークラブで行われている日本プロゴルフ選手権の初日は、まずこの暑さに打ち勝つことが前提となっていた。
そんな中、8バーディ・2ボギー、6アンダー「66」のコースレコードを叩き出したのが、陳清波だった。すでに1959年の日本オープンを制し、翌年も首位でホールアウトしながらスコアの過少申告で失格というショッキングな経験をしていたが、実力のほうは衰えるどころかまだまだ健在。
2日目も猛暑が続き、熱中症で倒れる選手まで出る過酷なコンディション。そんな状況下、23歳の新鋭・河野光隆がこの日のベストスコアである「67」をマーク。持ち味である爆発力の片りんをのぞかせた。この時、河野自身にも、密かな自信が芽生えていたという。「実は前年、大阪の枚方で行われた日本プロでも、自分ではあまりいい出来でなかったにもかかわらず、11位に入れたんです。
当時の日本プロは第3ラウンドと最終ラウンドの36ホールを1日で行っており、体力勝負の側面もあった。若い河野には、さらにもう一つ明るい材料があった。同じ程ヶ谷カントリークラブの所属である大先輩の小野光一が同組に入ったのだ。河野の父親は程ヶ谷の従業員。
ゴルフ漬けの毎日。「40、50球打っては拾いに行き、集めてきてはまた打つ、の繰り返し。一日中打っていて、毎日2時間はパットの練習をしました」(河野)。
46歳と河野の倍の年齢である小野とともに、首位の陳に1打差の2位につけていた。
午後の最終ラウンド。「もう、無我夢中でやっていた」河野は、1番、2番と連続バーディを奪う。一方の陳が2番、3番でボギーを叩き、ここで一気に3打差をつけた。
インに入っても、河野の勢いは止まらない。「10番(パー5)はドライバー、セカンドはスリーアイアンで4、5メートルに2オン、1パットのイーグル。
初優勝が公式戦のビッグタイトル。河野は翌66年のこの大会で、さらなる快挙を成し遂げる。千葉・総武カントリークラブで行われた日本プロ初日、河野は「66」をマークして橘田規、内田繁とともに首位発進。しかし河野は2日目「73」を叩き16位まで後退し、最終日も午前の第3ラウンドは「68」で回ったもののトータル9アンダー止まり。首位を行く内田はトータル16アンダーまでスコアを伸ばしており、7打差は優勝圏外だと見られていた。
だが最終ラウンドの1番で10メートルを入れてバーディを奪うと、再び河野の猛攻が始まる。「長いパットが入ると、ショットもかみ合うようになる。下手なものはあまりなかった。練習量以外には何もない」(河野)という必勝パターンができ上がった。なんと「64」というビッグスコアで大逆転優勝。トータル17アンダーで、河野は前年作った自分の公式戦最少記録を、自ら塗り替えてしまった。優勝副賞は、この年から車(トヨタ・コロナ)へとグレードアップされていた。河野はのちに青木功と沖縄で会った時に「同じ大会で2勝することはできても、連勝するのは、本当に難しいことだ」と讃えられたという。
河野の爆発力は、翌67年の読売国際オープンでもいかんなく発揮され「最後のハーフはバーディ、バーディ、パー、イーグル、バーディの31であがって」(河野)の優勝だった。だがこれほどの爆発力を持ちながら、69年のチャンピオンズ、70年の長野県オープンの優勝後、タイトルから遠ざかっていく。その原因は何だったのか。「読売国際オープンに勝ったあと、28歳くらいの時に程ヶ谷を離れて、練習する場所がなくなっちゃった。これは言い訳になっちゃうけど、やはり練習しないとだんだんダメになっていく」。
豊富な練習量に支えられて、日本プロ2連覇を成し遂げた河野。その快挙は、日本プロゴルフ史上に今も燦然(さんぜん)と輝いている。(日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗)
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