#15 長崎啓二(大洋) 逆転満塁サヨナラHRの画像はこちら >>

◎1982年5月23日 仙台宮城球場

中日  3 2 0  0 0 1  0 2 1    = 9

大洋  0 0 0  2 0 0  2 2 4X  = 10

HR(中日)モッカ6号 木俣1号 大島3号

(大洋)田代7号 高木嘉5号 福嶋3号 長崎2号

「勝負は下駄を履くまでわからない」とよく言うが、この試合はまさにそうだ。1982年5月23日、仙台で行われた大洋−中日戦。

大洋ホエールズ(DeNAの前身)は横浜スタジアムを本拠地にしていたが、毎年仙台で主催試合を行っていた。試合が行われた宮城球場はのちに大幅に改修され、現在の楽天の本拠地・楽天モバイル最強パーク宮城になった。

当時大洋は、仙台でゲームを行うとなぜか負けなかった。この試合の前年まで4年連続勝利。「仙台はゲンがいい。今年も勝つぞ」と意気揚々乗り込んだ大洋ナインだったが、序盤に5点を取られ苦しい展開に。球場が狭かったのでホームランが飛び交う乱打戦になった。

リードする中日は、8回からリリーフエース・鈴木孝政が登板。当時の抑え投手は9回1イニング限定ではなく、7回や8回から登板するのが普通だった。鈴木はセ・リーグで最も球が速い投手といわれ、1975年~77年は最優秀救援投手(75年のタイトル名は「最多セーブ投手」)、76年に最優秀防御率のタイトルを獲得している。ただこの頃は、自慢の速球にも陰りが出始めていた。

大洋は8回、鈴木から2点を奪ったが、中日も9回に1点を追加。

大洋は6-9と3点ビハインドで最後の攻撃を迎えた。鈴木はポンポンと2アウトを奪い、勝利まであと1人。「ああ、もう終わりだって思った」という鈴木。ところが「仙台では負けない」大洋はここから驚異的な粘りを見せる。

まず投手の代打・中塚政幸がライト前ヒットで出塁。打順が上位に返って、1番・山下大輔がレフト前、2番・屋鋪要がセンター前にヒットを放って2死満塁。しかもこの3連打はいずれも初球だった。一発出れば大逆転のチャンスで打席に立ったのが、3番・長崎啓二(本名は慶一、81~87年まで啓二に改名)。1972年のドラフトで大洋に1位指名され「和製ミッキー・マントル」の異名を取ったスラッガーである。

初球はボール。鈴木が投じた2球目を長崎が強振すると、打球はライトスタンドへ! 劇的な逆転満塁サヨナラアーチで、大洋は仙台で5連勝。2死ランナーなしから、たった5球で試合はひっくり返った。

鈴木にしてみれば、まさに天国から地獄である。

「あの一発で私は、抑えをクビになったんですよ」という鈴木。だが、これをきっかけに「先発に転向してみては?」という話が出て、鈴木は中継ぎをこなしながら、先発投手へのモデルチェンジを図った。当時、中日の投手コーチは権藤博。権藤は鈴木に緩急を使って打者のタイミングを外すピッチングを伝授した。「腕の振りは同じで、強・中・弱と速さが違う3種類のストレートを投げ分けろ」。

この無茶振りにも思える権藤の指示を受け、鈴木はひそかに特訓を重ね、シーズン途中から先発に転向。7月1日の巨人戦でみごとプロ初完封勝利を飾った。しかもスコアは1-0。88球完封の「マダックス」である。悪夢の被弾からわずか1ヵ月ちょっと、驚異的な切り換えの早さだ。技巧派に転向した鈴木はこの年17試合に先発。

9勝を挙げ、中日の8年ぶりのリーグ優勝に貢献している。

一方、長崎もこの年、打率.351で初の首位打者に輝いた。最後までタイトルを争った相手が中日の田尾安志。大洋のシーズン最終戦の相手は中日で、中日もこれが最終戦だったため、大洋は長崎を休ませて田尾を全打席敬遠。わずか1厘差で長崎がタイトルを獲得した。ただこの試合、中日が勝てば優勝。敗れると巨人が優勝という大一番だったので、この敬遠策はいろいろと物議を醸すことになった。

長崎は1984年オフ、トレードで阪神に移籍。長崎は大阪生まれで、少年時代は阪神ファンだったが、1968年、高校3年次のドラフトで阪神から指名を受けながら、就職を望んだ母親の反対を受け、やむなく入団を拒否した過去があった。晴れて憧れのチームでプレーすることになった長崎は移籍1年目の1985年、貴重な控えとしてリーグ優勝に貢献。プロ入りして初めて味わうVだった。長崎は西武との日本シリーズでも、第6戦で試合を決定づける満塁ホームランを放ち、球団創立初の日本一に貢献している。

<チャッピー加藤>

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