◆マジック・ミラーを通してみる棋界
羽生(はぶ)は初挑戦であっさり名人になる、と十年前にはっきり書いた人がいる。羽生善治(よしはる)が十四歳でプロ・デビューして間もないころだ。
十年に一度新名人が生まれ、名人を約束された新棋士も十年に一度しか現れない。加藤一二三、中原誠、谷川浩司とつづいて、だから次は羽生善治。
そう書かれているのを読んだのが三年前の平成六年。ちょうど羽生が初挑戦で米長(よねなが)を破って名人位についたころだ。河口俊彦の『一局の将棋 一回の人生』という文庫本だった。
当時は、将棋ファンでなくても七番勝負の帰趨にそれこそ浮き足だっていた。それを狙ってタイミングよく、平成二年刊行の予言の書が文庫化されたわけだ。将棋知らずの僕にとって、羽生はすごい、というより、河口ってひとはすごい、だった。
この本の中の、「新人類の鬼譜」にその予言は記されていて、もとは昭和六十三年から翌年にかけて「小説新潮」に連載された素人向けの啓蒙エッセーだ。いま、読み返してみると、かつて戦慄した予言や周期説はさほどことごとしいものではなく、肝心なことを託す前説としてあっさり触れているにすぎないと気づいたが。
現在大活躍中の羽生たち二十代棋士は、昭和末年当時、十代の新人として一流の棋士たちを相手にすごい勢いで勝ちまくっていた。
“一流棋士たちの指した一手一手には、いろいろな表情がある。軽蔑や憐れみ、恐れとふるえ、笑っているときもあれば、しかめたり、泣いていることもある。……これに対して少年達の指し手は無表情で、感情がこもっていないように思える。テレビゲームをやっているようで、人間を相手にしている、の感じがない。”
そのかぎりでは、新人類全盛のいまは、用済みになってしまった棋界展望といえなくもないが、棋界の事情や棋士の生態や将棋の秘奥という、門外漢にはうかがい知れない世界を、マジック・ミラーを通してみせてくれるのだから読み捨てはもったいない。
ところが、タイトルに「鬼譜」とあっても棋譜はひとつも載っていない。それなのに将棋についてすべてわかった気になるし、へたな小説が及ばないほど面白いのだから、数式を使わずに数学の深遠を解説しきったようなものだ。そう、深遠だ。
そんな離れ技が可能だったのは、河口自身が現役の棋士だからだ。
棋士、棋士と僕は気やすく書いているが、プロの棋士には容易なことではなれない。「奨励会」という天才集団を抜けなくてはならないのだ。新人類棋士たちはそこを二、三年の最短期間で通過した。河口はなんと十七年かかった。ワースト記録だそうだ。十四歳で入会して卒業したのが年齢制限ぎりぎりの三十歳。
【この書評が収録されている書籍】
【書き手】
辻原 登
1945年和歌山県生まれ。1990年「村の名前」で芥川龍之介賞、1999年『翔べ麒麟』で読売文学賞、2000年『遊動亭円木』で谷崎潤一郎賞、2005年『枯葉の中の青い炎』で川端康成文学賞、2011年『闇の奥』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
【初出メディア】
サンデー毎日 1996年6月2日号~1997年12月14日号
【書誌情報】
一局の将棋一回の人生著者:河口 俊彦
出版社:新潮社
装丁:文庫(365ページ)
発売日:1994-04-01
ISBN-10:4101265119
ISBN-13:978-4101265117