『みすず書房旧社屋』(幻戯書房)著者:潮田 登久子Amazon |honto |その他の書店
いつこんな写真が撮られたのだろう。

みすず書房は戦後、文京区本郷に小尾俊人によって創立された小さな出版社だ。
社名は創立者が「みすずかる信濃」長野県の出身者だからだ。なりは小さいが、真面目に考える読者を元気付ける多数の本を出してきた。海外の思潮をいち早く翻訳し、それはフランクル「夜と霧」のようなロングセラーからトマ・ピケティの「20世紀の資本」まで続いている。「戦後史資料」といった手間のかかる重要な仕事もしてきた。

私がこの社屋を初めて訪ねたのは、30年も前のこと。大好きなアラン・フルニエ「モーヌの大将」にみすず書房版、長谷川四郎訳があると知り、古本屋で見つからず、在庫がないか版元を訪ねたのである。
本郷の三角の道の角にモルタルの社屋はあった。下宿屋か小料理屋を改造したように見え(ごめんなさい、芦原義信氏の初期の作品だったのですね)、中はひっそりとしていた。品切れだけど読みたいなら貸してあげます、と会社の人は言った。私の読んできた白い、活字もノンブルもおしゃれな本たちは、こんなくすんだ社屋で作られていたのか、なんだか感動したのを覚えている。

本書は写真家、潮田登久子さんが1996年に壊される前後の社屋の外と中を丁寧に撮ったものである。私はこの30年、建物の保存や活用をしてきたが、みすず書房社屋を保存したいとは思わなかった。
だけど、内部に見える木の机、溶けたくず箱、外国の新聞が引かれたトイレ、仕事の合間にお茶を入れる小さな台所、それぞれが「手裏剣や鎖鎌」を持つかのような面構えの社員たち、出版という営為を丸ごと文化資源として保存したかったような気もする。いや、まさに本書がそれをしてくれた。みすずに負けない美しい本として。

雑然とまた窮屈に見えるが、これこそ完璧な思索と討論の場だったのかもしれない。たしかに近所の酒屋で酒ビンを調達して饗宴(シンポジオン)もあった。

私はのちに、みすずの読者から著者になった。
手裏剣のように怖い指摘が飛んでくる編集者とも仕事仲間になった。営業という仕事がいかに大変で重要かも知った。この社屋が壊される直前、みんなで物干しで飲んだビールを忘れない。

【書き手】
森 まゆみ
作家・編集者。1954年東京都文京区生まれ。早稲田大学政経学部卒業。
東京大学新聞研究所修了。1984年、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務める。専門は地域史、近代女性史、まちづくり、アーカイブ。98年に『鴎外の坂』で芸術選奨文部大臣新人賞、03年に『「即興詩人」のイタリア』でJTB紀行文学大賞、14年に「青鞜の冒険」で紫式部文学賞を受賞。そのほかサントリー地域文化賞、建築学会賞(文化賞)他。著書に『「谷根千」の冒険』『女三人のシベリア鉄道』『海に沿うて歩く』『おたがいさま』『暗い時代の人々』『子規の音』など多数。


【初出メディア】
初出媒体など不明

【書誌情報】
みすず書房旧社屋著者:潮田 登久子
出版社:幻戯書房
装丁:単行本(196ページ)
発売日:2016-10-25
ISBN-10:486488109X
ISBN-13:978-4864881098