(本紙主幹・奥田芳恵)
●若者はやっぱり東京に行かなあかん
奥田 荒井さんのご出身は京都とうかがいました。どんな少年時代を送られたのでしょうか。
荒井 私が生まれ育ったのは、京都でもだいぶ田舎の大山崎町というところで、ウイスキーでは有名な土地ですが、周囲は山ばかりでした。だから小学生のときは、野山を駆け巡って昆虫を探すような遊びばかりしていましたね。ちょっとやんちゃなタイプでしたが、まだ可愛かったと思います。
奥田 自然の中で、すくすくと育ったのですね。
荒井 でも、父の仕事の関係で小学校3年生から4年生にかけて、1年ほどフランスで生活しているんですよ。
奥田 荒井少年にとって、フランスの生活はどんなものでしたか。
荒井 人格形成の途上で異文化に触れたわけですが、鏡で自分の顔を見て周りの人と違うことに衝撃を受けました。弟はそうでもないと思ったのですが、自分の顔だけが醜いと感じたのですね。
奥田 それだけ、感受性が豊かな時期だったのでしょうね。それでコミュニケーションはうまく取れましたか。
荒井 子どもだから、そこのところは問題ありませんでした。先生が「日本にはフジヤマがある」と言ったので「それはフジヤマではなくフジサンと読むんです」と返したら、えらく感心されましたね。
でも、帰国したら漢字が全然できなくて、塾に通わされて一生懸命勉強したところ、6年生で特進クラスに上がって中学受験を勧められました。
奥田 才能が開花した感じですね。
荒井 ところが受験には失敗して、地元の中学に進みました。そういう経緯もあり、部活のサッカーの練習を終えてから、塾にも通っていたのです。
奥田 その甲斐あって、トップクラスの進学校に進まれたのですね。
荒井 ただ、高校では1秒も勉強しませんでした。
奥田 ご出身は、法学部ではなく政治経済学部なんですね。
荒井 学部はどこでもよかったんです。東京に出て、親から仕送りをしてもらうためには、それなりの大学に受からなければならないという思いしかありませんでした。
だから、大学まで歩いてすぐの神田川沿いのアパートに住んでいたものの、大学にはまったく足を向けず、六本木や下北沢などで遊んでいました。飲食店などでよくバイトをしていましたが、バックパッカーがはやった頃で、稼いだお金でインドや東南アジアを旅したりもしました。それで早くも、1年目で留年確定です。
奥田 まだ、将来のことは考えていなかったのでしょうか。
荒井 どんな職業に就きたいという具体的な思いはなく、漠然と「表現行為」にあこがれていました。でも、自己実現のためには表現しかないと思っていても、実際はモヤモヤとくすぶっているだけで、無為な時を過ごしていたわけです。
奥田 高校では3年の夏休みまで勉強せず、東京を目指して突如猛勉強を始め、大学に入ってからはまた……という、とても振り幅の大きい青春時代を過ごされたのですね。
●他人から習うのが嫌い だから独学で司法試験に挑戦
荒井 大学4年生か5年生の頃、水俣病訴訟の原告団の代表だった方が亡くなられたという新聞記事を読みました。その方のエピソードとして、厚生労働省の役人と交渉しているとき、長時間の交渉に疲れた役人が倒れ、ご本人が「ワイが鬼か」と涙したという話が紹介されていたのです。
被害者の交渉相手である国の担当者が倒れて、その方が「自分が悪いのか」という葛藤ややりきれなさを抱えてしまったと、私は捉えました。
奥田 弱い立場の人が正当な交渉を行っているにもかかわらず、自分にその責任があるかのように感じてしまったのですね。
荒井 そこで、私は「あなたは鬼ではない。あなたは悪くない」と、表現したくてもしきれないその人に代わってその思いを「代弁」することこそが、表現行為なのではないかと思い至ったのです。
奥田 それまではぼんやりとしていた表現行為が、くっきりと具体性を帯びて荒井さんの前に現れてきたのですね。
荒井 そうですね。このとき、弁護士という職業が突然自分の頭の中に湧き上がってきて、司法試験の勉強を始めました。
奥田 またしてもと言うか、ついにと言うか、猛勉強モードに入ったのですね。
荒井 当時の司法試験の合格率は3%以下でしたが、これを突破したら何とかなると思いました。ただ、私は法学部生でもなく、一緒に勉強する友だちもいません。
奥田 超難関資格に挑むわりには、けっこう無謀な感じがします。
荒井 そういう状況ですから、とにかく独学でやっていこうと考え、最初はやり方が分からないので、まずは民法1条から1044条まで、つまり当時の民法の全文を書き写してみました。でも、これは違うと気づくわけです。
奥田 はい、私もそんな気がします。
荒井 そこで民法の専門書を読んでいくと、「ああ、こういうことか」と、なんとなく全体の意味が把握できるようになっていきました。もちろん、初めからすんなり頭の中に入ってきたわけではありませんが、法律は意外と自分の性に合っていたんです。ある考え方ともう一つの考え方があって、それぞれに利点と弱点がある。そのうえで、自分の考え方を固めていく過程が面白く感じられたんですね。
奥田 ところで、他人から習うのが嫌いなのはなぜですか。
荒井 自分の中で考えをまとめていって、自分なりに咀嚼したいと思うからです。他人の考えをそのまま覚えるのが嫌で、自分自身が納得したいということですね。
本で学ぶのはいいのですが、特定の人から習うのが嫌なんです。もっとも、本も学者や法律家が書いているわけですから他人から習っているとも言えますが、著者の写真をカバーに掲載している本は避けました(笑)。(つづく)
●クロマニヨンズのサインと美しい和竿
荒井さん率いるあおい法律事務所の名は、好きなバンドのザ・ブルーハーツにちなんだものだ。このサインは、ブルーハーツの甲本ヒロト氏と真島昌利氏が立ち上げたザ・クロマニヨンズがCDデビューする前、小さなライブハウスでもらったもの。和竿は、穂先がセミクジラの髭でできた高級品である。秋が深まると、この竿を携えてカワハギを狙うそうだ。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第376回(上)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。