東京パラリンピックが始まった。その直前には「24時間テレビ44」(日本テレビ系)も放送され、ネットではこのふたつのイベントの類似性を指摘する人を見かけた。

たとえば、障害者を感動の道具にしている、みたいな指摘だ。



 じつはこれに先駆けて、NHKの朝ドラ「おかえりモネ」にも障害を持つキャラクターが登場した。車いすマラソンの女性トップアスリート・鮫島祐希だ。第12週から翌週にかけて物語の中心を担い、賛否両論を生んだ。



 というのも、比較的穏やかな登場人物の多いこのドラマにおいて、彼女は異色の存在。我が強くて、本音をズバズバ関西弁でまくしたてるキャラだ。

前作「おちょやん」は関西が舞台で、穏やかでない登場人物も目立ち、それが苦手だった人もいる。彼女の出現によってせっかくの穏やかな雰囲気を乱され、ここで脱落した「おかえりモネ」ファンもいたようだ。



 筆者もこのキャラはあまり好きになれなかった。また、我の強さを表現するために関西弁の設定にしたのもやや安直な気がするが、制作側はわかりやすさを優先したのだろう。ただ、このキャラはドラマをそれなりに活性化させた。なかでも特筆したいのが、障害者や障害者スポーツのエゴをけっこう赤裸々に描いたことだ。



 まず、初登場シーン。彼女は競技力向上のサポートを受けるためにヒロインのいる気象会社を訪れるが、そこにあったゲームに熱中してしまい、面会相手が現れても中断することができない。



「ちょ、ちょ、ちょっと待って、これ成功、一回させてからやないと、気ぃすまへん。あー、もっかい、もう一回だけ、あー、うーん、わー、大物ゲット~!」



 と、大興奮したあと、悪びれることなくこう言う。



「すんませんね、負けず嫌いなもんで」



 たしかに、これくらいでないと車いすマラソンで一流にはなれないだろう。そういう意味では、効果的な場面だ。



 しかし、どんなに負けず嫌いでも健常者の協力なしではままならないのが障害者アスリート。彼女はサポートチームとの関係を深めていくなかで、こんな弱音を吐くことになる。



「助けてもらってばっかりやからな、私は。ありがたいと思ってるよ。でもな、助けてもらってばっかりやと、時々つらくなるねん」



 そんな鮫島にヒロインがあるアドバイスをするのだが、彼女は逆ギレしてしまうのだ。



「感覚? あんた、今さら何言うてんの? 感覚だけを頼りにやってきたから勝てなくなったんやん。

そやから、数字で、データで、科学的な根拠を武器に勝とうと思ったんや。そやから、私は今ここにいるんとちゃうんっ!?(略)負ける話なんか、せんといてよ。今さら精神論? あんたの話なんか、知らんわ!」



 そうまくしたてたあと「今日、ごめんな」と謝るものの「でもな、私は絶対負けられへんねん」と付け足す彼女。この一連のやりとりはなかなかのインパクトだった。



 と同時に、モヤモヤした気分にもさせられてしまう。こうした障害者側の「エゴ」に対する、こちら健常者側のエゴがちょっと不自由だからだ。





 エゴというものは人間が楽しく生きるには必要不可欠で、各自が可能なだけ発揮すればいいし、ぶつけ合っても構わない。ところが、こと、障害者と健常者という構図になると、そうも言えなくなるのである。



 障害者はたとえ、パラリンピックに出られるような人であっても、世間的には「弱者」と位置づけられているため、そのエゴを指摘するだけでも「弱い者いじめ」として叩かれたりする。本来、人間はみな、誰もが不平等だという点において対等であり、個々がそのエゴをぶつけ合うのも自由なはずなのに、障害者に関してはとにかく健常者が「配慮」せよという圧力がかかりやすいのだ。



 もちろん、障害者がそのあたりを上手く利用して自己実現しようとするのは構わない。そのかわり、健常者がその行き過ぎに文句を言うのも構わないわけだ。

そこがまずまずちゃんと機能しているのが、義足の走り幅跳び選手、マルクス・レームの事例である。



 この人は障害者だが、五輪でも金メダルが狙える実力を持ち、出場したがってもいる。ただ「義足が有利に働いているのでは」という疑問が呈せられ、出場は実現していない。健常者側もきちんとエゴを通したのだ。



 これとは別に、性的少数者のエゴが勝ったのが、トランスジェンダーの重量挙げ選手、ローレル・ハバードの事例だ。生まれたときの性別は男で、男子として競技をしていたが、性別適合手術を経て、女子として競技を再開。東京五輪への出場を果たした。



 当然ながら、他の選手からは不公平になるという声も出た。また、女子マラソンの元・名選手、ポーラ・ラドクリフは「男性として生まれ男性として育った人間が、性自認が女性であるというだけで女子スポーツに出場することはあってはならない」「スポーツにおける男女の定義を台無しにしてしまう」と反論。しかし、そういった主張は受け容れられなかった。最近のBLM運動などもそうだが、これはもはや誰が弱者かよくわからない状況の反映でもある。



 そう、問題はこの状況を支える世間の空気感だ。パラリンピックでいえば、以前、みのもんたがこんな発言をしたことがある。



「テレビ局はパラリンピックをもっと中継しなくてはいけません。こっちのほうがオリンピックより大事なんですから」 



 いったい、何を言っているのかと思ったが、世の中にはこういう感覚の人もけっこういるようだ。最近の過剰なまでの「弱者・少数派びいき」という風潮は、こうした人が増えたか、その勢いが激しくなった結果だろう。



 そんな人たちは、マルクス・レームのこんな発言に我が意を得たりなのだと思われる。



「人々を区分けするのは正しくありません。よりよい社会を作るためのチャンスなんです」



 そりゃ、この人にとってはそうかもしれないが、スポーツなんてやるのも見るのも好き嫌いでしかない。そこに「正しさ」とか「よりよく」なんて価値観を持ち込まれても、違和感を抱くだけだ。



 むろん、この人がそれを言うのも自由だが、そこに乗っかって「弱者・少数派びいき」をする人たちの存在が、そこに反発したい人のエゴを不自由にする。彼らは障害者スポーツへの好き嫌いを善悪に読み換えることで、そこにあるエゴもひっくるめて美談にすりかえようとするのだ。





 もっとも、ハンディを負っている人に優しくありたいという気持ちはわかるし、自分にもそれはある。ただ、障害者スポーツでいえば、ときに自業自得という要素もなくはない。そのアスリートのなかには、もともと危険なことが大好きでそのために障害者になり、それでも危険なことへの誘惑を断ちがたく、別の危険なことに取り組んでいるような人もいるからだ。



 マルクス・レームが片脚を失ったのも、ウェイクボード中の事故が原因。「おかえりモネ」の鮫島の下半身が不自由な理由は語られていないが、あの性格から見て、無茶をした結果である可能性を勘ぐってしまう。同情できるような過去の経緯を劇中で示してもらえれば、もっと好感を抱けたかもしれない。



 なお、危険なことが好きでやめられないのも個性なので、それを活かしながらやっていくのもひとつの生き方だ。そこに惹かれ、面白がるのもひとつの生き方である。ただ、テレビで中継したり、子供たちに観戦させたりするほどのものでもないだろう。



 なんてことを書くと、批判したくなる人もいるかもしれないが、これは善悪の問題ではない。五輪が苦手な人がけっして非人間的というわけでもないように、パラリンピックが苦手でもなんらおかしくはないわけだ。



 いや、厳密にいえば、苦手なのはパラリンピックが象徴する思想。ここ数年、世界レベルで世間にはびこるポリコレ的な「正しさの同調圧力」を感じるからである。



 そんなモヤモヤにつながる題材を、週6回やる朝ドラで見せられたのもちょっと苦手だったなとやはり言わざるをえない。鮫島風に言うなら「すんませんね、ポリコレ嫌いなもんで」といったところだ。





文:宝泉薫(作家・芸能評論家)