AV女優「渡辺まお」としてデビューし、人気を博すも早大卒業とともに現役を引退。その後、文筆家「神野藍」として活動し、著書『私をほどく~ AV女優「渡辺まお」回顧録~』を上梓した。

いったい自分とは何者か? 「私」という存在を裸にするために、神野は言葉を紡ぎ続ける。連載「揺蕩と偏愛」#28 「結局、人間は自分の見たいものしか見ることができず、信じたいものしか信じることができない」



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【愛なのか、狂気なのか】



 都営大江戸線の六本木駅、終わりが見えないエスカレーターに身を任せていた。数えきれないほど使っているから、終着点がホームであることは分かっているのに、どこか違う場所に向かうのではないかといつも想像してしまう。今晩は先ほどまでホラー映画を食い入るように観ていたためか、余計にその錯覚が色濃くなる。無事ホームへ辿り着くと、帰宅する人間が列をなしていた。人並みを掻き分けて進んでいき、暗闇から滑り込んできた電車に、私は吸い込まれていった。





 窓ガラスに映る無数の人間の顔を見つめて、ふと思う。



 結局、人間は自分の見たいものしか見ることができず、信じたいものしか信じることができないのかもしれない。それを愛と呼ぶのか、狂気と呼ぶのかは、誰にも答えが出せないもの。それは、当事者であっても、他人であっても。映画の中にいた、亡き娘へ思いを募らせる母親も、視覚的なハンディがある妹に過保護になる兄も、一面を取れば執着であり、独善であり、そして祈りでもあるのだろう。





 映画のレビューアプリに並べられた文字を眺めていると、最寄駅への到着を告げるアナウンスが流れた。

吸い込まれた電車から吐き出され、夜の冷たい空気に触れたとき、私の胸に残っているのは恐怖ではなく、どこか切ない温かさだった。



 そして、それと同時に刺さったままの棘がちくりと痛んだ。フィクションの世界の登場人物たちを高みから見物できるほど、私の人生は良くできてはいない。思えば、私自身もいつだって「私の見たい世界」だけを必死に守ろうとしている。誰にも言えない執着を、誰にも見せられない痛みを手放せずに、そんな重みを最初から持ち合わせていないような平気な顔をして、今日も街を歩いている。



 不器用ながらに器用に生きている。



 だから、のこのこと近づいてきた相手に思いがけない怪我を負わせてしまうのだ。寝付けない夜や、一人で運転する明け方。ふと相手の歪んだ表情を思い出しては、二度と巻き戻らない過去に唇を血で滲ませてしまう。







【変えられない自分の歪み】



 そういえば、似たような感覚を金原ひとみさんの『YABUNONAKA』を読んだときにも抱いた。一年前のちょうど今頃、私にとって化膿し続けた傷がようやく瘡蓋に変わろうとしていた時期だった。当時、私は絶対に読むわけもない人間の姿を頭に思い描いて、その本の感想を綴った記憶がある。





 じりじりと短くなっていく煙草の先をぼんやりと眺めながら、ふと右手に嵌っている指輪が目に入った。同じ指輪をつけている人間は、このエッセイを読んだら「いつまで反省しているの」と笑ってくるだろう。



 変えられない自分の歪みと鬩ぎ合いながらも、原稿に吐き出しているうちは、私は正常でいられるはず。表面のざらついた刻印を静かになぞり、私は書きかけの原稿に目を向けた。





補足:



今回観たのは、7月公開の映画『Bring Her Back』。久々に深く刺さったホラー映画だけれど、グロテスクな表現が苦手な人は観ない方が安心かもしれない。でも、ちょっと目を瞑ってもいいから、顔を背けてもいいから、ぜひ観てほしいな、と思う。





結局,人間は自分の見たいものしか見ることができず、信じたいものしか信じることができない【神野藍】連載「揺蕩と偏愛」#28
写真:著者提供





文:神野藍

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