芸人の死は哀しい。生前、笑いをふりまいていた人ほど、そのギャップに泣かされるのだろう。
志村けん、享年70。3月29日に、新型コロナウイルス肺炎で世を去った。どこかのメディアが使っていた「喜劇王」という呼び方もふさわしいが、彼は同時に「下ネタ王」でもある。「8時だョ!全員集合」をはじめとする出演番組がPTAから低俗だと敵視されても、局部を強調した白鳥コスプレや上半身ハダカの美女いじりによるエッチな笑いを持ち味のひとつにし続けた。
個人的には、加藤茶や田代まさしを相手に、言葉とアクションで翻弄しあう系統のコントがいちばん好きだったが、ファンに最もインパクトと影響を与えたのは下ネタだったかもしれない。それゆえ、闘病中にはこんなツイートがバズったりもした。
「志村けんのおかげで俺たち30代は子供のころゴールデンタイムにおっぱいを見ることが出来たんだ。死なせねえよ」
だが、こんなとき、黙っていられないのがPTA、ではなく、ポリコレ信者のネット民たちだ。「昔から気分悪くなるから見なかった」とか「女性に対する性的搾取。忌むべきものとして恥じてほしい」などと文句をつけ、死亡直後には、追悼映像から外すべきなどと主張した。
これに対し、冷静な反応をした人もいる。現代美術作家で「欲望会議 『超』ポリコレ宣言」でも知られる柴田英里は、
「セクハラか否かは文脈次第で、昔は祝祭的にパコるのが人類の娯楽だったわけで、バカ殿おっぱい神経衰弱とか、祝祭とセクハラの融合ギャグだった」
と、ツイッターで深い洞察を示した。
実際「バカ殿」も「変なおじさん」もセクハラまがいのことをするが、あくまでフィクションにすぎない。しかも、志村はそれを「バカ」や「変」という記号に変えつつ、笑いに昇華させていた。もちろん、小学生の男子は真似をしたりするだろうが、そこで女子の反撃に遭う。その衝突を通して、男女のつきあいの機微を学ぶこともできたのだ。
いわば、志村はフィクションとしてのセクハラを「笑える性教育」にもしていたわけで、その構造や効用が理解できないのはただの残念な人だ。が、そういう人は少数派でも声が大きい。テレビ局などは面倒くささから萎縮していき、さすがの志村も晩年には下ネタの濃度をうすめるしかなかった。
■志村けんがやっていたような下ネタを引き継ぐ人はいるのかそんな流れのなかでの死、である。志村のセクハラ芸が「だいじょうぶだぁ」と見なされていたように、どの世界にも大物のベテランだから許されていた言動やパフォーマンスがある。その人が消えたり、力を失うと、もうやめましょうということになったりするわけだ。
たとえば野球の大リーグでは昔、ボールにこっそり唾やクリームをつけて変化させるスピットボーラーという存在が黙認されていた。それが禁止されたあとも、その時点での使い手は引退するまで反則を許されたという。それと似たことが、芸能界にもあるのだ。
そこで思い出すのが横山やすしで、バラエティのコメンテーターをやっているとき、素人女性の映像を見て「こんなん、パンパンやないか」と言ったことがある。終戦直後、米軍兵士相手に娼婦をしていた女性を指す言葉だ。司会の久米宏が謝っていたが、全盛期のやっさんだったからか、大きな問題にはならなかった。
現役では、ビートたけしも治外法権的な場所にいる。その毒舌は内容以前に、それを言っても許されることのすごさであり、たけしの死後、憧れる若手たちがそのまま同じことを言っても、残念ながら叩かれるだけだろう。
また、音楽において桑田佳祐がやっているような下ネタパフォーマンスも、彼だからよしとされている。ちなみに、サザンオールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバッド」のタイトルは、志村が「全員集合」でやっていたギャグをデビュー前の桑田がパクッたもの。志村は「勝手にしやがれ」(沢田研二)と「渚のシンドバッド」(ピンクレディー)をくっつけて同時に踊るなどして笑いをとっていた。下ネタ好きの大物ふたりをつなぐエピソードである。
で、話を志村の死に戻すと、これを機にポリコレ信者が絡んできそうな下ネタを避ける傾向がますます加速するのではないか。それこそ、ダチョウ倶楽部やタカアンドトシが志村とやっていたようなセクハラ芸に挑戦しようとしても「志村さんも亡くなったことだし、もうそういう時代でもないでしょう」とスタッフが二の足を踏みそうだ。
とにかく、ポリコレは笑いの敵というほかない。自分はとんねるずの石橋貴明が嫌いだが、それでも彼が死んだとき、追悼映像では代表作である「保毛尾田保毛男」を絶対に流してほしい。ポリコレ信者は、イヤなら見なきゃいいだけのことだ。
では今後、志村がやっていたような下ネタを引き継ぐ人はいるのか。じつは最近、こうした芸はマニアックな一発屋に近い芸人が担うようになってきた。お盆芸のアキラ100%だったり、エロソングのどぶろっくだったり。冠番組を持つクラスの人に、そういうものをやれる人がいないのは残念だが、そのうち世間の風向きも変わるだろう。しばらくはこういう人たちで回しながら、次の下ネタ王が登場するのを待とうではないか。
志村けんもあの世から、それを楽しみに見守っているはずである。