〈連載「母への詫び状」第十九回〉
先日NHKスペシャルで特集された「ミッシングワーカー」が、SNSなどで話題になっている。
(画像:フォトライブラリー)57歳、無職独身の男性。
こんな例が次々に紹介される。ぼく自身、身につまされる話ばかりで、とても他人事とは思えなかった。
介護などの理由で長い期間、仕事から遠ざかり、働くことをあきらめてしまう人。これを「ミッシングワーカー」と呼ぶのだという。
「失業者」の統計に入るのは、求職活動している人だけ。しかし、ミッシングワーカーは求職活動すらしていないため、失業者の統計にも入らない。NHKの試算によれば、失業者72万人に対して、ミッシングワーカーは103万人いると推定されていた。
ミッシングワーカーの中身がすべて介護離職者ではないだろうし、介護の問題にしたいなら新しいカタカナ語を持ち出さないほうがいいとも思うが、このような人たちの存在がクローズアップされるのは、近い立場の者として感謝したい。
番組を見てもっとも身につまされたのは、当事者たちの見た目。
髪はボサボサ、衣服もさえない。何よりも目に光がない。残酷だったのは、彼らがまだ仕事をしていた頃の写真との対比だ。働いていた当時の顔写真は目に光があり、同じ人物とは思えないほど、ひとめで違う。
何年もの間、介護に追われ、ろくに人と接することなく、社会と隔絶された環境に身を置いていると、人間は総じてこんなしょぼくれた外見になってしまうのか。
■介護をしていると、社会と隔絶される自分自身も経験がある。介護生活を送っている間は、外見など気にしないし、気にする余裕がないから鏡も見ない。
ある日、親戚が見舞いに来て、父または母と一緒に写真を撮る。ついでにぼくも写る。すると、その写真を見せられて、ガク然とする。
「この隅っこに写っている、白髪混じりのさえないおっさんは誰だ? そうか、これが今のぼくの姿なのか……」
顔に締まりがなく、ほほのあたりが以前よりたるんでいる。
あわてて鏡を見ると、歯まで黄色くなっていた。自分の歯を磨くより、親の入れ歯を洗うことが先だから、おろそかになってしまう。
介護をしていると、社会と隔絶される。この感覚はすごくよく理解できる。
誰にも会わないわけではない。病院へ行く。介護施設へ行く。訪問看護の人が来る日もある。それでも、自分がいま暮らしている家-病院-介護施設という限られた生活環境は、一般社会の外にあるという感覚。何ひとつ生産的な活動をせず、閉じた場所で毎日生きているという〝社会に参加していない感〟だ。
ただし、その閉じた場所には、その中だけで通じる便利さや居心地の良さもある。
誰もが病気や薬に詳しくて、誰もが介護用品や車いすを使えて、誰もが無職の介護人に理解がある。限定的にやさしい共同体。
そのような特殊な環境で5年も10年も過ごしてしまうと、再び外の世界へ出るのがいかに苦痛でしんどくて、どれほどハードルが高いか。
動物園で暮らしていた若くないサルが、いきなり外へ放り出されても、もう餌の取り方を忘れてしまって、新しい群れに交じることもできない。働くことをあきらめてしまったミッシングワーカーは、おそらくこれに近い。
介護を終えた人がもう一度社会へ出て働けなくなるのは、再就職の口がないなどの理由より、こちらの壁のほうが大きいように思う。
この話題は引き続き、次回も取り上げたいが、実際に社会復帰しようとしたときに直面した、些細な困った出来事をひとつ。
介護生活を終えてしばらく身を休めた後、再び東京へ戻り、仕事を再開しようとした某カイガーマン。しかし、なんということだろう。新生活のための賃貸住宅が、スムーズに借りられないのである。
50代独身、ほぼ無職の自由業。
そうなると、家族なし、勤務先なし、収入ちょぼちょぼの、一時的に社会から消えたミッシングおっさんは、たちまち苦しくなる。
「ああ、自分は今、まともにアパートも貸してもらえない社会弱者なのか……」と、軽く落ち込んだ。
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