2011年3月の東日本大震災で被災した建物等を「震災遺構」として保存するか、解体するのか。また、被災を今後どのように伝えるのかという課題が残されている。
復興をめざす上で、被災体験を「被災地観光」として利用し、多くの人々を呼び寄せるかが課題になっている。●「保存」か「撤去」で揺れた「震災遺構」

「震災遺構」とは、震災によって被災した建物であり、被災の記憶を後世に伝えていくものだ。「震災遺構」として「保存してほしい」との声があったものがいくつかある。

 宮城県では気仙沼市鹿折地区のJR大船渡線・鹿折唐桑駅前まで打ち上げられた大型漁船「第十八共徳丸」(330トン、全長60メートル、福島県いわき市の水産会社所有)があった。震災当初、暗闇の中でカーナビもうまく表示されず、迷いに迷っているうちにこの船に遭遇したことがある。海から離れた場所まで打ち上げられた漁船の中で最も大きいものとして、話題を集めた。

震災観光のルートにもなり、市外から人が訪れる理由にもなっていた。一方、地域住民からは「震災を思い出す」「馬鹿にされているようだ」などの理由で反対の声が強かった。こうした中で所有する会社も解体の意向を伝えていた。

 そこで市では住民アンケートを取った。その結果、市民の68.3%が「保存の必要はない」と回答した。「保存が望ましい」は16.2%、「船体の一部や代替物で保存」が15.5%だった。

ある市民は、知人が気仙沼に来たら、この船を見せにやってくるというが、「7割が保存反対なら、市も覆せないだろう」と話した。

 また南三陸町の「防災対策庁舎」では、最後まで庁舎に残り、屋上に避難した町職員ら30人のうち10人が助かった。当時、危機管理課職員の女性(24)が放送室に駆け込んで、「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」と呼びかけた。津波襲来直前まで放送室にいた。この職員の犠牲は、埼玉県の公立学校の道徳教材として使われる。

 この庁舎をめぐっては、遺族から「早期解体」「解体の一時延期」の2つの陳情が出ていた。また、語り部ガイドら町民有志が「保存」の陳情を出していた。町議会は12年9月、遺族感情を配慮して「早期解体」の陳情を採択していた。町長も解体を決断した。

 岩手県釜石市では「鵜住居地区防災センター」が残っている。過去の津波浸水域であり、津波避難所ではなかったが、津波の避難訓練で「防災センター」を使っていたこともあり、多くの住民が避難をした。

10月にも解体作業に入ると市が表明していたが、10月12日に開かれた、遺族への報告会で、「保存してほしい」との声があがったことで、解体を延期することになった。

●保存される「震災遺構」

 岩手県宮古市田老地区には、「たろう観光ホテル」がある。同ホテルは1986年に建てられ、6階建てで津波被害は3階までに集中した。2階まではフロア全体が落ち、3階の床も大半が抜け落ちた。

 田老地区は、「津波太郎(田老)」といわれるほど、津波被害が多い地域だ。1611年の慶長三陸津波では村が殲滅したという。

明治三陸津波では345戸あった家屋がすべて流され、人口の8割以上が亡くなった。昭和三陸津波でも559戸中500戸が流され、3割が死亡した。

 こうした犠牲が出たことから、巨大防潮堤(2433メートル)の建設につながった。X字形で城壁のように市街地を取り囲んでおり、世界一の長さがあることで「万里の長城」ともいわれた。しかし、その防潮堤も東日本大震災では倒壊し、地区の人口4434人のうち200人近くが犠牲となった。

 同ホテルでは犠牲者はいない。

現在、ホテル内では当時の津波襲来のビデオを見ることができ、「学ぶ防災」に一役買っている。

 また大槌町は旧庁舎の一部を保存する。加藤宏暉町長(当時)ら40人が犠牲になった。碇川豊現町長は3月28日、「二度と悲劇を繰り返さないため、遺構も保存することが重要」として、玄関周辺や時計など正面部分を一部保存することにしている。4500筆の現状保存請願があったものの、町議会が遺族への配慮などを理由に不採択として、議論になっていた。判断材料は、有識者や遺族、高校生が参加した検討委員会の話し合いだった。

 なお、宮城県石巻市では「震災伝承検討委員会」を設置し、児童と教職員84人が死亡または行方不明となった大川小学校の校舎や、犠牲者はなかったものの津波にのまれ、火災も起きた門脇小学校の校舎などについて、保存か撤去かを検討することになっている。

●被災地観光ツアーは観光客増につながるか?

 こうした「震災遺構」を訪れる観光ツアーが行われている。

 JR東日本は「いわて観光情報復興応援バスツアー」を行っている。「遠野・釜石・大槌号」では「鵜住居地区防災センター」を、「浄土ヶ浜&龍泉洞みやこ田老号」では「世界最大級の防潮堤があった田老地区」を回っている。「陸前高田・大船渡号」では、陸前高田で語り部の話を聞く時間を設けている。

 しかし、これらの取り組みは、観光客を増やすことにつながっているのだろうか?

 観光客の数は震災の年よりも増えているが、震災前の半数という被災地がほとんだ。気仙沼観光コンベンション協会によると、気仙沼市への観光客は、震災前の2010年は210万人だったが、震災のあった11年は43万人と5分の1に激減した。12年には78万人と回復したものの、震災前と比べると半数以下だ。

 大型漁船は震災観光の目玉でもあり、地元の観光関係者からは保存してほしいとの声も聞かれたが、解体後の被災地観光はどうなるのか?

 「被災した建物は点在していますが、ほとんどは更地になっています。語り部さんたちが当時の自宅を案内することもあります。また、市内至る所に津波到達点の表示があります」(同関係者)

●被災地観光を復興の起爆剤に

 南三陸町では、震災前にメイン通りだった「おさかな通り」も被災した。震災観光としてもまだ「防災対策庁舎」はあるものの、撤去の方針だ。現在では、観光バスで来た人たちをそのまま津波被災エリアに案内することもある。しかし、地面をかさ上げをするために道路工事が始まった。

 町で人気があるのは「語り部」。もともと観光ガイドのサークルだったが、その中の希望者が、震災当時の話をしてくれる。ただし、話題となった高校生の語り部は、同世代や外国人向けのみになっている。地元観光関係者によれば、「建物はほとんどなくなっていますが、語り部によっては自宅跡で話してくれる人もいます。事前予約が必要で、今のところ11月まではいっぱいになっています」という。

 釜石観光物産協会によると、釜石市の観光客は震災前年の10年は約103万5000人だったが、震災の年は26万人と4分の1となった。12年は50万6000人と持ち直してきているが、震災前の半分ほどだ。

 観光のほとんどが「被災地ツアー」で、ボランティアガイドがおり、「鵜住居地区防災センター」や市街地にある避難道路を案内してくれるという。希望によっては、「世界最大水深の防波堤」としてギネスブックにも世界記録として認定されていた湾口防波堤を見るために、釜石観音まで行くこともあるという。

 さらに釜石市は、19年に開かれるラグビーのワールドカップ日本大会の開催地の一つとして誘致活動をしている。日本初の西洋式高炉跡として橋野高炉跡が「世界遺産」として推薦されている。こうした動きを「被災地観光」と関連づけて、復興の起爆剤にしていきたい考えだ。

●宿泊と交通手段が課題

「震災遺構」は、視覚的にもわかりやすく被災の実態を伝えることができる。私も個人的に案内をすることがあるが、「震災遺構」を見れば言葉にならないものを感じることができたと言う人もいる。地元住民の心情を考えれば、仕方がない部分もあるが、象徴的な建物がなくなっていくのは、観光資源としても防災教育としても、もったいない気がする。

 被災地は、教育や研修の場ともなり得る場だ。阪神大震災や新潟中越地震の被災地でもメモリアルパークをつくり、学ぶ防災施設として活用がされている。もちろん、遺構があろうがなかろうが、伝わるのかもしれない。しかし、「明治、昭和と大津波を経験したにもかかわらず、多大なる犠牲があったということは、過去の経験が現世代にきちんと伝わっていなかったのではないか」との声もある。

 震災を学ぶことと被災地の応援ツアーを両立させるには、第一に宿泊施設の問題も大きい。復興工事の関係者やボランティアの宿泊先として利用され、余裕が少なくなった宿泊施設では、一般の観光客が利用できない日も少なくない。そのため、現在では内陸部の宿泊施設を利用せざるを得ない。

 さらには交通手段の復旧も課題だ。三陸鉄道は北リアス線、南リアス線ともに復旧の計画がある。気仙沼を経由して大船渡と一ノ関を結ぶJR大船渡線は、盛駅から気仙沼駅までは、バスを利用して都心の大量公共旅客輸送幹線を実現するシステムであるバス・ラピッド・トランジット(BRT)で再開するなど、交通手段も復旧し始めた。一方、宮古駅と釜石駅を結ぶJR山田線は見通しが立っていない。車を運転できない人の観光は、ツアーに頼らざるを得ないのが現状だ。
(文=渋井哲也/フリーライター)

震災遺構として保存か、撤去か?被災地観光に揺れる地元、復興への起爆剤になるか
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震災遺構として保存か、撤去か?被災地観光に揺れる地元、復興への起爆剤になるか