【下記URL参照】
http://www.doshisha.ac.jp/information/history/neesima/neesima.html
http://www.doshisha.ac.jp/yae/index.html
今年6月14日は、創立139年の同志社にとって歴史的記念日である。創立者・新島襄が志をもって、国禁を犯してまで北海道函館の地からアメリカを目指して渡航してから150年目に当たる。函館は、同志社大学の原点ともいえる地。この記念の年に学校関係者はもとより、記念碑を守り続けている現地の校友・同窓だけでなく全国の校友・同窓、函館の市民が一堂に会し、150年前の新島の想いを偲ぶ行事が開催された。
この歴史からもわかるように、同志社大学の創立者は、鎖国期から海の向こうを見ていたのである。ところが、現在、学長を務める村田晃嗣氏は「おや」と思わせるような発言をした。
「世界で何位、というランキングに振り回されてはいけない」
村田学長がいうランキングとは、日本の政府、大学関係者が敏感に反応する「ザ・タイムズ・ハイアー・エデュケーション(The Times Higher Education)」である。これは、イギリスのタイムズ紙が付録冊子として毎年秋に発行している高等教育情報誌。同誌に掲載された教員一人当たりの論文被引用件数をはじめとするさまざまな指標に基づく「世界大学ランキング2013-14」によると、1位の米カリフォルニア工科大学をはじめ、世界のトップ10はすべて米英の大学(米7、英3)に独占されている。
では、日本の大学はどの位置にランキングされているのか。
このランキングを見て、村田学長は違和感を覚える。
「ランキング上位、日本の大学だけに限っても、日本を代表するある大学が入っていないことに気づきませんか。その大学名は一橋大学です。この調査では、どうしても理工系の大学が優位になります。ご存じの通り、一橋大学は社会科学系大学で、理工系学部・大学院はありません」
さらに、村田学長によると「そもそも、欧米の大学人は、このランキングをあまり気にしていない」という。ランキングを気にするかしないかはともかく、日本の大学が国際競争力を高めなくてはならない、という指摘に反論する人はほとんどいないだろう。村田学長も同志社大学のグローバル化を積極的に推進している。その取り組みが評価され、文部科学省の「国際化拠点整備事業(大学の国際化のためのネットワーク形成推進事業)【通称:グローバル30】」に採択された。
同志社大学は、他の12大学と同じような施策でグローバル化しようとしているのだろうか。答はノーである。村田学長が強調したいのは、同志社大学らしいオリジナリティを再認識した改革の実現だ。
では、同志社大学らしさとは何か。同志社は明治8年に同志社英学校として創設されて以来、「良心教育」を建学の精神とし、「キリスト教主義」「自由主義」「国際主義」を教育理念に掲げている。中でも、「国際主義」の歴史は古い。そもそも、同志社は、「グローバル化」が叫ばれるよりはるか前から国際主義を標榜してきた。欧米の学問を英語で教える英学校として誕生した歴史からすれば不思議ではないが、1920年から28年にかけて第8代目総長を務めた海老名弾正が「国際化」という概念を重要視していた。当時としては斬新な言葉であり、すでに今でいうところのグローバル化を意味する。
このように、同志社大学にはグローバル化の伝統はあっても、他大学と差別化できるほど、その資源を生かしていたかというと疑問である。そこで同志社大学は、「世界大学ランキングや偏差値で単純に比較される普通の大学(学校)からの脱皮を目指している。
日本人はアメリカの大学と聞けば、ハーバードやスタンフォードのような総合大学しか頭に思い浮かばないようだが、新島襄が卒業したアーモスト(アマースト)大学をはじめとする大学院を持たない小規模な名門リベラルアーツカレッジが多数存在する。これらの大学の卒業生の多くが、有名大学院に進学し、アメリカ社会のリーダーとして活躍している。
同志社大学はここ数年で、グローバル系の学部(グローバル・コミュニケーション学部、グローバル地域文化学部)や大学院(グローバル・スタディーズ研究科、ビジネス研究科グローバル経営研究専攻)を相次いで新設した。さらに、小学校から高校までの一貫教育においても、グローバル化を加速している。帰国生徒と国内一般生徒の共習を前提にした国際中学校・高校、そして、文部科学省から教育課程特例校の指定を受け、6年間の総授業時間数の約55%を英語で行う日英バイリンガルスクール(同志社国際学院初等部)、世界中から集まった子ども達が国際標準化されたカリキュラムで学ぶインターナショナルスクール(国際学院国際部)の開設などである。
これらの大きな動きに加えて、同志社大学は小さな工夫も凝らしている。例えば、英語の得意な学生と英語が苦手な学生双方のグローバル化である。
グローバル化は、すなわち、英語を流暢に話せるようになること、と思われがちである。たしかに、同志社大学はその点をさらに強化しようとしている。例えば、全学の5%の学生を対象に、英語だけで講義を行う学部横断型コースの設置がその一つ。
ユニークなのは、英語が苦手な学生のグローバル化だ。英語ができない人はグローバル人材ではない、という既成概念を取り払おうという試みである。英語が得意と思われている同志社大学の学生の中にも、英語は苦手だが、日本語の議論なら負けないというつわものが少なくない。そのようなたくましい学生を集めて、日本語を学びに来ている留学生を相手にディスカッションやディベイトをする講義を設ける。英語はジャパニーズ・イングリッシュだが、内容で勝つぞ、と思っている学生のやる気に火をつける作戦だ。
これは、なかなかおもしろい案である。なぜなら、英語を公用語にする日本企業が注目されているが、予想以上に早く自動機械翻訳技術が進化し、電卓で計算するがごとく、スマートフォンなどの情報機器に向かって話せば自動的に同時通訳してくれる時代がやってくるかもしれない。そのような時代になっても、英語を使ったヒューマン・コミュニケーションは重んじられるだろうが、外国語よりも内容で勝負したいという人にとっては、英語能力よりも議論する力と教養、専門性のほうが重要になってくるのではないだろうか。そのような未来を想定すれば、同志社の講義は新時代を見据えたグローバル教育といえる。
●同志社大学の3つの経営資源さて、企業で言う「経営資源」という観点から同志社大学を見てみると、村田学長が挙げる次の3点に集約される。
(1)京都に位置している。
(2)創立者(新島襄)の教育理念が生き続けている私学である。
(3)キリスト教主義の学園である。
(1)については、日本人が日本の魅力を自覚することがグローバル人材の前提であるとすれば、京都はそれに最も適した街である。一方、外国人から見ても、学ぶため、研究するために住んでみたい魅力的な日本の都市が京都であろう。同志社が外国人教員募集の公募を出すと、世界中から驚くほど著名な研究者が応募してくる。留学生にとっても人気大学の一つである。
(2)も、これからの時代のグローバル化を考えると非常に重要である。なぜなら、グローバル化がますます国レベルから民レベルへ広がりをみせているからだ。明治政府がいわゆる「和魂洋才」で、日本の近代化のために西洋の技術や制度だけを模倣しようとした折に、新島襄は西洋の技術や制度を支える市民社会の重要性を訴え、その市民社会を構成する賢明で自立的な市民、つまり「良心を手腕に運用する人物」を育成しようとした。まさに、この概念は、これからのグローバル化、とくにビジネスで重要な要素になることだろう。
(3)も、極めて現代的意義のある資質である。同志社大学は上智大学、青山学院大学のようなバックに教会が存在する「ミッションスクール」ではなく、新島襄という敬虔なキリスト教徒により設立された「キリスト教主義大学」である。
自身がクリスチャンである村田学長は「明治以来今日に至るまで、日本の人口に占めるキリスト教徒の割合は、わずか1%にすぎません。他方、国際社会ではキリスト教人口は22億人にも上る。キリスト教の視点から社会や物事を考察し、キリスト教について一定の理解や知識を有していることは、少数者を尊重する多様性と多数とつながる普遍性の両方に通じる」と述べる。
●大学ランキングとは一線を画した土俵で競争京都、私学、キリスト教の3要素に共通するものは、多様性であり、寛容の精神であり、自立心である。考えてみれば、これらなしに21世紀のグローバル社会を生き抜くことはできない。つまり、同志社の伝統の中には、きわめて今日的な意義が存在する。
戦後、どこの大学も進学熱の高まりとともにマンモス化していく中で、同志社大学も同じ道をたどった。昔の同志社大学を知る人ほど、「普通の大学」になってしまったと惜しむ。同志社大学が最も重要視している「良心」とは真逆の行動をしている学生、OBも見受けられる。だが、それは、マンモス校ならどこもが経験する理想と現実のギャップといえよう。
しかし、理想を捨ててしまえば、それこそ同志社は「普通の大学」になってしまうだろう。同志社小学校の校歌には次の一節がある。
「えらい人になるよりも、よい人間になりたいな。同志社小のわたしたち」
「これでは逞しい人は育たない」と思う向きも少なくないだろう。確かに、表面的にとればそうかもしれない。しかし、キリスト教に詳しい人なら、その真意が理解できる。聖書のマルコによる福音書9章33~35節には、「いちばん先になりたいものは、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」というイエスの言葉が書かれているからだ。この考え方は、経営学でいえば、上司は下から社員を支えるという「サーバントリーダーシップ」に通じる。グローバルなマネジメントの潮流を考える場合、このような知識と感覚が必要になってくる。
良く言えばあらゆる宗教に寛容、悪く言えば宗教音痴の日本人は、どのような異文化でも抵抗なく受け入れるが、一方では宗教をベースにした外国文化圏の事情には疎い。新興国を中心とするグローバル化を考えた場合、キリスト教だけでなくイスラム教、ユダヤ教などの一神教の研究に強く、さらに、「コンソーシアム京都」という京都の51大学からなる単位互換制度を活用し、仏教系大学の講義も京都駅前のビルで受講できる同志社大学は、ランキングとは一線を画した土俵で競争力を発揮することだろう。
(文=長田貴仁/神戸大学経済経営研究所リサーチフェロー、岡山商科大学経営学部教授)