2019年7月9日、大手芸能プロダクション・ジャニーズ事務所が、同社代表取締役社長・ジャニー喜多川氏の他界を発表した。享年87、死因は解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血とされている。
これを受けて、ジャニーズ事務所の経営陣について、あるいはジャニー氏の後継者問題についてさまざまな観点での報道がなされている。そんな流れのなか、本稿では、日本最大級のこの大手芸能プロと、「皇室」との間接的な接点をテーマとしたい。
メリー氏の夫、ジュリー氏の父親は上皇のご学友ジャニーズ事務所において、人材育成やプロデュースを手がけるのが創業者にして代表取締役社長のジャニー氏で、経営面を取り仕切るのが姉のメリー喜多川氏(取締役副社長)だとされる。そして、メリー氏の後継者となるのが、テレビドラマ『3年B組金八先生』(TBS系)出演など芸能活動歴もある藤島ジュリー景子氏(現・ジェイ・ストーム代表取締役社長)というのが一般的な見方だ。ジュリー氏はジャニー氏の姪にあたる。
20年以上前に死去しているので今はあまり話題にのぼることはないが、ここで取り上げたいのは、メリー氏の夫、ジュリー氏の父親、ジャニー氏の義弟についてだ。
その名前を藤島泰輔という。同氏は、祖父は日本郵船の専務、父親は日本銀行監事というエリート一家の長男として1933年に生まれている。1926年(昭和元)生まれのメリー氏より6歳年下だ。
藤島氏は芸能界の住人ではなく、主に作家・評論家として活動した人物である。そしてもうひとつ、特筆すべき経歴を持っていた。初等科から大学まで学習院に学んだ同氏は、当時の皇太子、その後の天皇、現・上皇と机を並べて学んでいた、いわゆる“ご学友”なのである。
藤島氏は学習院大学卒業後、東京新聞の記者となるが、その在職中の1956年に『孤獨の人』という作品で作家デビューしている。この作品は、当時の皇太子と“ご学友”たちの学生時代をモチーフとしたものだったのだ。皇族、それも皇太子が青春小説の登場人物のひとりとして描かれるというのは実にセンセーショナルであり、話題性の高さからメディアでも大きく取り上げられ、『孤獨の人』はベストセラーとなる。
なお、同作品は西河克己監督により日活で映画化され、1957年1月に公開されている。当時はまだ、俳優が近現代の天皇を演じるなどということはタブー扱いされていた。それだけにこの映画化は大きな注目を集めたが、無名の新人俳優が演じた劇中の皇太子にはアップのシーンがなく、顔もハッキリと映さないなどの配慮がなされていた。
それでも日活には、「皇族を金儲けの道具にするな」といった趣旨の抗議があったとされる。また学習院サイドも批判的なスタンスをとり、協力を拒んだ。
ただし、同年4月に新東宝が、嵐寛寿郎が明治天皇を演じた『明治天皇と日露大戦争』(監督:渡辺邦男)という映画を公開し、批判はあったものの大ヒットさせたことで、皇族を俳優が演じることは完全タブーではなくなっていく。事実このヒットを受け、嵐寛寿郎主演の明治天皇を描いた作品が数本制作され、また、各時代の天皇が登場する映画作品は散発的に制作・公開されるようになる。
ただし昭和天皇に関しては、長い間、映像作品のなかで姿や人間像がはっきりと描かれることはなかった。
話を戻そう。『孤獨の人』後の藤島氏は、俳人・高浜虚子の孫娘にあたる女性と結婚するが、当時、バーを経営していたメリー氏と知り合い、不倫関係になったといわれる。そしてメリー氏がジュリー氏を出産したのは1966年。ジュリー氏は、現役のジャニーズ所属タレントでは少年隊の東山紀之、植草克秀と同学年にあたる。
藤島氏はその後、専業作家となり評論家としても活動。また、“在日フランス人”を称した「ポール・ボネ」名義で『不思議の国ニッポン』シリーズを著している。さらに、時代は前後するが、1970年に、冒険家の三浦雄一郎氏がエベレストからのスキー滑走に挑んだ際に編成された「日本エベレスト・スキー探検隊」の総本部長を務めるというユニークな活動もある(父親の藤島敏男氏は、登山家でもあったのだ)。
藤島氏が前夫人との離婚を経てメリー氏と正式に結婚したのは、1972年のことだ。
評論家としては右派・保守派であり、1977年には、第11回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区に立候補している(落選)。
こうした経歴からもわかるように、藤島氏は政財界、文学界に限らず、幅広い分野に強力なネットワークを持っていた。また、資産家でもあった。
(文=編集部)