『証言者バラエティ アンタウォッチマン!』(テレビ朝日系)Twitter(@neta_sand)より

 10月18日放送『証言者バラエティ アンタウォッチマン!』(テレビ朝日系)が特集したのは、キャイ~ンであった。9月いっぱいで『もしもツアーズ』(フジテレビ系)が終了し、コンビとしての地上波レギュラーが消滅した2人。今というタイミングで、こんなふうに特集されるのは因果なものを感じてしまう。

 今回の特集のタイトルは、題して「1998年のキャイ~ン」。98年の彼らといえば、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(日本テレビ系)のポケットビスケッツ(ウド鈴木が所属)とブラックビスケッツ(天野ひろゆきが所属)が盛り上がっていた時代だ。

キャイ~ンのスタートダッシュは異常に速かった

 キャイ~ンの結成秘話を明かすべくVTR出演したのは、ずん・飯尾和樹。キャイ~ンとは同期の間柄で、今や浅井企画のエースである。関根勤の正統後継者ともいうべき存在だ。

「自分も飛び込みで(浅井企画に)電話して、『顔見せに来い』って言われて行ったら、『返事がいいな』って言われて(事務所に)入れて。で、『半年前にも返事がいい奴が入ったから。1カ月後に会わせる』って言われて、それがウド鈴木さんでしたね」

「自分が入った1年後に浅井企画がお笑いライブを開くっていうんで、(若手芸人を)募集したんですよね。で、その当時大学3年生だった天野が作家志望だった友だちとコンビを組んで入ってきた感じですね」(飯尾)

 つまり、順番としては「ウド→飯尾→天野」ということだ。今からちょうど30年前、92年に発売されたお笑いムック「キンゴロー」(ワニブックス)を読み返すと、キャイ~ンに3ページものスペースが割かれているのが確認できる。キャイ~ンが始動したのは91年だから、界隈の中では稀なスタートダッシュ。業界から見つかるのが、彼らは本当に早かった。また、その項の天野のプロフィール欄には「以前は『コンビ解消』というコンビを組んでいたが、本当にコンビ解消した」と書かれており、きっとこれが作家志望の友人と組んだコンビなのだろう。

 その後、キャイ~ンは、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ系)や『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(日本テレビ系)など数々の番組に出演し、結果を残していくことになる。それを陰で支えていたのは、キャイ~ン結成当時のマネジャー・矢島秀夫さんだ。

 小堺一機と関根勤によるTBSラジオ「コサキン」リスナーからすると、グッとくる名前である。コサキンのフリートークでは頻繁に名前が挙がった、浅井企画の名物マネジャー。92年発行の番組本『コサキンのひとみと悦子』(シンコー・ミュージック)にも矢島さんは登場しており、「浅井企画の寺田農。ルー大柴担当になってお喋りになった」と紹介されている。要するに、愛されている人だったのだ。

「なんでも話せる関係でした。今思えば生意気なこともたくさん言いました。『前説はなんか嫌だ』とか『大学を出て事務所に入ったので給料をすぐにください』とか」(天野)

「社内では立場が上だった矢島さんですが、『車を運転するのが好きだ!』という理由だけで、20歳も離れた僕たちを毎日車で送り迎えしてくれた。当時はそんな矢島さんの優しさにとにかく甘えていました」(ウド)

 特に印象的なのは、この頃の天野の尖りぶりだ。「前説は嫌だ」とは、また……。ただ、当時の若手に天野のようなタイプは少なくなかった。同世代で生き残れる芸人は下手すると2~3組程度だったため、今のお笑い界に漂う互助会のような雰囲気は皆無。天野は同期だけでなく、事務所にまで「いつ噛みついてやろうか?」という態度でいたのだろう。

 そして94年、キャイ~ンと矢島さんがぶつかり合う事件が起こった。ライブで力をつけ、「これからテレビの仕事を頑張るぞ」と意気込んでいたキャイ~ン。そのタイミングで矢島さんが持ってきた仕事は、「アイドル水泳大会」だった。アイドルがプールの上を渡るための発泡スチロールを持つという内容である。

天野 「これは、ちょっと勘弁してください。
    俺はこんなことをするためにこの世界に入ったんじゃない!」

矢島 「仕事だからやりなさい」

 口論の末、天野は泣いてしまったという。

「仕事で来ちゃってるから『やらなきゃいけない!』ってことで矢島さんも強く言ってくれればいいんだけど、俺の気持ちを察したんだろうね。矢島さんの気持ちもわかるから、それも入り混じって泣けてきちゃって。それでも最後まで(番組には)出なかったですね」(天野)

 芸人として、芸人らしい仕事を望んでいたのだろう。その気持ちはわかる。一方、現在は“食”に関する番組で露出する姿をよく見る天野。キャリアを重ね、視野が広くなったのだろう。言行不一致という問題ではなく、駆け出しの時分はそのくらいの鼻っ柱の強さが必要だと思うのだ。

 96年、ナインティナインを座長格とするバラエティ番組『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系)がスタートした。その際、めちゃイケメンバーとしてキャイ~ンにオファーが届いたそうだ。しかし、2人はそれを断った。

「その前身の番組(『めちゃ×2モテたいッ!』)でナイナイを中心にやってく 流れが少し固まってる状態のとき、『僕たちはここに入って輝けるか?』みたいなところ。あと、僕たちを買ってくれてた人たち(番組スタッフ)がいて。『じゃあ、僕たちは僕たちを応援してくれてる人たちと一緒に番組をやろう』っていう流れに決めたんですよね。だから、『めちゃイケ』とかに出ないというか、そことは別の道で頑張ろうと思ってたんで。そこは、(ウドと)2人で話して」(天野)

『めちゃイケ』のオファーを断るというのも、かなりイキった話である。ただ、少なくともスタート当初の『めちゃイケ』は岡村隆史のための番組だった。しかも、ナイナイとキャイ~ンは「お笑い第4世代」の中心と目された2組である。「ライバルに座長格を譲ったまま共演する道は得策ではない」と、天野は考えたのかもしれない。

 こんなふうに芸人がプライドと戦略を優先させ、それが“出演拒否”という形に発展した例は他にもある。バナナマンが頑なに『タモリの超ボキャブラ天国』(フジテレビ系)の出演を拒んだり、東京03が『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ系)発のショートネタブームを横目に我が道を貫いたり。まさに、「別の道で頑張ろう」だ。

 あと、もう1つ。天野は「『めちゃイケ』の前身番組」という言い方をしたが、この番組に至るまでには『新しい波』→『とぶくすり』→『殿様のフェロモン』→『めちゃモテ』→『めちゃイケ』という変遷があった。

 注目は、上記の流れの大元にあたる『新しい波』である。各回に1~2組の若手が登場し、ネタを披露するこの番組。もちろんナイナイも出演していたし、キャイ~ンも実は出演していた。そんな『新しい波』の最終回にて、選抜メンバーによる合同コントスペシャルが行われている。出演したのは、ナイナイ、よゐこオアシズ極楽とんぼ、フォークダンスDE成子坂、ジュンカッツ、K2、そしてキャイ~ンだ。

 発端は、この回に行われた「マルコムX大集会」という企画。出演者全員が黒人の偉人に扮し、大喜利を行うというコーナーだった。マルコムXに扮した加藤浩次が司会を務め、ウドはマイク・タイソンを意識した「オカシ家タイソン」という名前で登場。そして、座布団運びは「エマニエル坊や」の天野が担当することとなった。他の芸人は回答者なのに、天野だけ座布団運び。相方のこの扱いにウドは激怒し、『めちゃイケ』からのオファーを固辞した……という話が、お笑いファンの間では定説となっている。

 2015年放送『もしもツアーズ』にゲスト出演したよゐこ・濱口優も、『めちゃイケ』スタート時のすったもんだについて告白している。曰く、キャイ~ンと仲の良い自分がレギュラー入りについて説得するようスタッフから命を受けたものの、「『新しい波』での天野君の扱いが許せないから、ぐっちょん(濱口)のお願いでもそれは聞けない」と、特にウドの態度が頑なだったと……。

 “平成のひょうきん族”を目指していた『めちゃイケ』である。「お笑い芸人のレギュラーをもう少し増やしたい」という意向が番組にあったとしても、おかしくない。『めちゃイケ』にキャイ~ンが出ていたら、どうなっていた?

 その並行世界を夢想すると、お笑い界の歴史は変わっていた可能性がある。例えば、「ファミリーにウドがいるため、濱口の天然にまではスポットは当たらなかったのでは?」などなど。さまざまなifが浮かんでは消えるのだ。『めちゃいけ』総監督を名乗っていたプロデューサー・片岡飛鳥のキャイ~ンに対するコメントも聞いてみたいし、今という時点から掘り起こしたい話ではある。

 その後、キャイ~ンは『ウリナリ』にレギュラーとして参加した。彼らも先輩・ウンナンが冠の番組なら、素直にサポートとして参加できたのだろう。同番組でのキャイ~ンは、ポケビ・ブラビのみならず、芸能人社交ダンス部やドーバー海峡横断部など、さまざまな企画で脚光を浴びることとなった。

 衝突が続いたキャイ~ンと当時のマネジャー・矢島さん。そんななか、矢島さんはある仕事を持ってきた。

「この仕事はやったほうがいいと思う。将来、天野がMCになるときにきっと役に立つと思う」(矢島さん)

 彼が力説しながらプッシュしたのは、月~木曜の夜のラジオ帯番組『キャイ~ン天野ひろゆきのMEGAうま! ラジオバーガー!!』(ニッポン放送)だった。

 天野が『MEGAうま』を担当して以降、キャイ~ンは躍進。2人をMCに置く番組が増えていき、コンビとして確実にステップアップを果たした……と、『アンタウォッチマン』はまとめている。

『ナインティナインのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)リスナーにとっても、おなじみの番組だ。実は、健闘むなしく『MEGAうま』は7カ月(95年5~11月)で打ち切りとなってしまった。最終回ではウドから届いた音声メッセージを聴いた天野が、思わず号泣。以降、このくだりをナイナイは執拗にいじり続け、さらに天野の号泣場面をANNで繰り返し流したため、結果的に『MEGAうま』は別の意味で伝説の番組となってしまっている。

 また、96年2月放送『伊集院光のUP’S 深夜の馬鹿力』(TBSラジオ)にゲスト出演した天野は、ニッポン放送と確執のある伊集院とともに、当時お台場にあったニッポン放送へと馳せ参じ、新社屋にウンコを投げつけるというひどい内容のロケも行っている。

 これらのエピソードから、今となっては短命で終わったことばかり語られがちな『MEGAうま』。しかし、その価値が改めて見直されるような『アンタウォッチマン』の構成は新鮮でもあり、素敵だった。

 関根勤はキャイ~ンと矢島さんの関係について、こうコメントしている。

「相当、(キャイ~ンが)好きだったんじゃないかなあ。手応えがあったんじゃない? 浅井企画でいえば、“第2のコント55号”。僕と小堺君はピンだったから、コンビで売れたっていうことでは第2のコント55号なんですよ。浅井企画を背負っていくっていう」(関根)

多忙な時期に、“3人目”のキャイ~ンを失った

「ある日、ロケバスの前方から矢島さんの咳が聞こえた。あきらかに、おかしな音だった。病院での検査の結果、がんだった」(天野)

 98年、矢島さんは喉頭がんにより48歳でこの世を去った。コサキンのラジオではその事実について一切触れられておらず、リスナーだった筆者もこの事実については今回の放送で初めて知った。

 また、キャイ~ンからすると98年はポケビ・ブラビがブレイクする時期にあたる。あれだけハードな仕事をこなしていた裏では、“3人目のキャイ~ン”とも呼べる存在を失くしていたのだと思うとつらい。

「最後の最後まで、矢島さんは自分の命よりキャイ~ンのことを大切に考えてくれていました」(ウド)

「あれだけ生意気なことを言ってたのに、本当によくぞ大きな愛で包んでくれたと思う」(天野)

 矢島さんが生きていれば、今年で72歳になるそうだ。

柴田 「(矢島さんが生きていたら)今日も3人で来てた可能性、あったんですかね?」

天野 「全然、あるでしょう!」

 矢島さんがご健在だったら、キャイ~ンの現状は少し違ったものになっていた? なんて思いも、ほんの少しよぎってしまった。振り返ると、矢島さんが持ってくる仕事はビッグな番組が多かった。キャイ~ンと矢島さんの三人四脚は、幸せなトライアングルだったのだろう。

 

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日刊サイゾー2022.10.19
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