信越化学工業の金川千尋(かながわ・ちひろ)会長が1月1日、肺炎のため96歳で死去した。1950年に極東物産(現三井物産)入社後、62年に信越化学工業へ転職。

76年に塩化ビニールメーカーの米シンテックを子会社化し、その後、自ら社長となって、世界一の塩ビメーカーに育て上げた。山本五十六を心の師と仰ぎ、「常在戦場」を座右の銘に、経営の第一線で戦い続けた。2016年12月16年に「ダイヤモンドクォータリー」で行ったロングインタビューを再掲載する。

 生活用品からインフラまで幅広く使われる塩化ビニル樹脂(塩ビ)で世界トップ企業の信越化学工業。その中核となるのがアメリカ子会社のシンテックだ。金川千尋会長はかつてシンテックの社長として、アメリカで最後発の参入にもかかわらず世界一の塩ビメーカーに育て上げた。さらに同社で培った経営ノウハウをグループ内の他事業にも導入し、13期連続で最高益を更新するなど、業績を大きく向上させた(下図表参照)。奇しくも信越化学工業(当時は信越窒素肥料)と同年に生まれた金川会長は今年で90歳。いまも経営の最前線に立つ同氏が、みずから体得した経営論の真髄を語った。

「合理的な経営」の徹底で
米国子会社を世界一に

編集部(以下青文字):金川さんが社長就任してから御社は13期連続で最高益を更新しました。リーマンショック時もその影響を最小限に留め、その後、再び右肩上がりの成長を続けています。これだけ長期間にわたり成長を続けられた理由はどこにあると考えていますか。

金川(以下略):最大の理由は事業構成のバランスのよさにあるのだと思います。

 当社では、汎用製品である塩化ビニル樹脂(塩ビ)のほか、ハイテク製品である半導体シリコンウェハーや電子材料、さらに汎用製品とハイテク製品の中間の性質を持つシリコーンなどを生産しています。

 これらの既存事業が成長した結果、新たな分野への研究開発投資もできるようになりました。合成石英、マグネット、セルロース、フォトレジスト、フォトマスクブランクスなどの新製品も育ち、事業構成はさらに増えています。

 特に塩ビ事業においては、米国子会社のシンテックが世界シェアトップと圧倒的に強いですね。

 シンテックの工場が操業を始めたのは1974年のことです。当初はアメリカ企業との折半出資でしたが、1976年に完全子会社化しました。

 アメリカで最後発の参入となったシンテックの生産能力は当初、北米で13番目の年産10万トンでした。しかし、その後、13回にわたり大増設を行った結果、現在ではアメリカの2位と3位の生産能力を足した量よりも大きな生産量を持つ世界一の塩ビメーカーとなっています。シンテックは2013年度に信越化学グループ全体の経常利益の約3分の1に当たる589億円を稼ぎ出し、その後も安定した利益を上げ当社グループの業績に貢献しています。

 そもそも塩ビは物性、加工性、経済性に優れた素材です。そして、原料に占める石油の割合が約4割しかないので他の石油化学製品に比べて原油高騰の影響が少ないうえ、製造過程における環境負荷が比較的小さいです。

さらに耐久性が高く、リサイクルが容易であるため、木材の代替材料としての利用範囲も広く、省資源や省エネルギーにおいても非常に優れています。

 それゆえ塩ビは生活用品から社会インフラまで、世界中で実に幅広く使われています。たとえば住宅では窓枠や外壁材に使われていますし、インフラでは上下水道用パイプや高速道路の水はけ用の排水管などでも大量に使われています。塩ビの世界的な需要拡大は当社の成長の大きな追い風です。

 また、塩ビは汎用樹脂ですので、極論を言えば、どの会社がつくっても製品に大きな差は生じません。それゆえに、経営への取り組み次第で業績を上げることが可能となります。研究開発、製造、販売、調達、財務など、経営に関するあらゆる要素にしっかりと目配りし、市場の伸びをとらえて塩ビ事業を拡大して参りました。世界には数多くの塩ビメーカーがありますが、各社が好業績を続けているわけではありません。

 当社の塩ビ事業が業績を伸ばしてきた理由について「製造プロセスが優れているからだ」と言われることがありますが、正鵠を射ていません。当社は1970年代に、塩ビの製造技術ライセンスをアメリカの塩ビメーカー2社に供与しましたが、両社とものちに事業売却しました。つまり、製造技術が優れているからといって事業が成功するわけではないのです。

 ではなぜシンテックは成功できたのでしょうか。

「合理的な経営」を徹底的に追求したことだと思います。シンテックは私にとって経営の原点であり、ここで培った経営手法は、後に信越化学やグループ会社の経営でもさまざまに応用してきました。

 具体的にはどういうことですか。

「合理的な経営」の基本となるのは少数精鋭主義です。

 ダウ・ケミカルの名経営者だったベン・ブランチ元CEOが、かつてシンテックを「最初からリストラされた会社である」と評されたことがあります。これは、もともと必要最小限の機構と人員で仕事をしているので、不況期にもリストラを行う必要がないという意味です。営業担当者は必要最小限の人員ですし、経理および財務社員はたった2人です。工場長は人事、購買、総務などを1人で担当しています。このように少数精鋭主義を徹底した結果、売上高が3148億円(2015年12月期)となった現在も、社員数は550人程度しかおりません。

 それほどまでに少数精鋭主義にこだわった理由はどこにあるのですか。

 競合企業に勝てるか否かは、総コストを世界最低にできるかどうかにかかっているからです。

 シンテックの事業を始める際、私は当初から無駄なものはいっさい省いた経営を行おうと決めました。

アメリカの人件費はけっして低くはありませんが、少数精鋭主義を実現することで、コスト競争力を高めることができます。

 優れた製品を生み出すモノづくりは、最新かつ最高の設備にしっかりとお金をかける一方で、人員と機構は極端なまでに簡素化することで実現できるのだと考えています。

 社員の雇用を維持するために組織をつくるという本末転倒なことをしていては、少数精鋭は実現できないでしょう。

 少数精鋭主義を実現するうえで、どのような人材教育を行ったのでしょうか。

 特別なことはしていません。最初から人が少なければ、人は精鋭に育つものだと思っています。

 社員教育は基本的にはOJTです。特に、能力のある社員にはできるだけ多くの仕事の機会を与えます。するとその社員は優先順位を見極め、効率よく仕事をするようになります。人材は育てられるものではなく、みずから切り開いて成長していくものだと考えています。ですから与えられた機会を活かしてみずから伸びていく社員がいれば、さらに重要な仕事を任せて伸ばしていきます。

 若手社員の場合、まずはベテラン社員が手本を示します。

そして成果を上げた社員に対しては、ほめたり報奨を与えたりするなどして、しっかりと評価しなければなりません。

 私が尊敬する山本五十六連合艦隊司令長官は「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」とおっしゃっています。これこそが人材育成の要諦だと思っています。

 また、いわゆる「ジョブローテーション」もあまり行いません。日本の多くの企業では定期的に異動させてさまざまな仕事を経験させますが、少数精鋭を実現するためには、社員たちがそれぞれの道で専門家にならなければなりません。一つの仕事をできるだけ長くやらせることで、専門知識のみならず、経営において大事な判断力や執行能力などが身につきます。

 社員がみずからの努力で伸びていくことを奨励する一方で、金川さんは「向こう傷を恐れよ」とも言っていますね。

 はい。特に若い社員に新しい仕事を任せる場合、上司が部下に思い切って仕事をさせるために「向こう傷を恐れるな」と言うことがあります。しかし、これは経営者や管理職としては非常に無責任な姿勢だと思います。

 まだ実力が不十分な若手に大きな仕事を任せたら、失敗をしたり、他社に負けたりするのは当然でしょう。人は成功体験を積み重ねていくことで成長するものです。

社員が大きな傷を負う前に、上司は未然に防ぐためのフォローをしなければなりません。

 また、個人にとっては「向こう傷」にすぎなくても、多くの社員が失敗をすれば、会社全体としては大きな損失となります。だから私は常に「向こう傷を恐れよ」と言っているのです。

少数精鋭を徹底するため
新規採用を一気にゼロへ

 シンテックで培った合理的な経営は、信越化学でどのように活かされたのですか。

 私がシンテックの社長だった1982年、当時の小田切新太郎社長から国内塩ビ事業の立て直しを依頼され、塩ビ事業本部長も兼務することになりました。その際に合理的な経営を徹底的に行いました。

 まずは原材料などの製造コストを抑える必要がありました。この頃、信越化学の塩ビ生産を行っていた鹿島工場では、契約により高価な塩素を原材料として使わざるをえない状況にありました。コンビナート関係各社と契約の改定に向けて粘り強く交渉を行い、何とか合意していただきました。さらに運賃の合理化や輸入原料を導入するなどさまざまな取り組みを行ったことで、最終的には製造コストを大きく下げることができました。

 また、製造コストの削減を進めるとともに、需要家との信頼関係の強化にも取り組みました。当社が深く取引を行うべき需要家をあらためて検討し、特定の需要家には徹底的に尽くして長期関係を築くという、言わば営業的な選択と集中を行いました。

 一方で、工場閉鎖にも踏み込みました。生産能力が小さかった山口県内の工場を一人も解雇せずに閉鎖し、生産拠点を鹿島工場に統合したのです。

 こうした取り組みに対し、さまざまな反対意見がありました。しかし、当時の小田切社長が盾になって私をかばってくれたおかげで、再建に着手してから1年半後には黒字転換し立て直すことができました。

 その後、金川さんが社長に就任し、全社的な改革の陣頭指揮を執ることになります。

 私が社長に就任した頃の信越化学は、官僚主義的な意識が蔓延していました。陋習(ろうしゅう)に囚われて組織運営が硬直化し、非効率な慣習がはびこる大企業病に陥っていました。その結果、シンテックと比べると経営効率ではかなり遅れていました。

 本来、一気に変革すべきなのですが、長い歴史を持つ会社ゆえ、急激な変化を求めると大きな反発が起きかねません。それで変革が止まってしまっては元も子もありませんから、現状を頭から否定することはせず、時間をかけて変えていく決心をしました。

 まず手をつけたのは新規採用の抑制です。私が社長に就任する前は年に600人ほど新規採用していたのですが、思い切ってほぼゼロにしました。

 それまでは各部門が横並び意識で他部門並みの数の新卒社員を求めていました。仕事がないのにどうやって定年まで雇用するつもりなのか不思議でなりませんでした。人を採用するのであれば、まずは人を必要とする新規事業を立ち上げるべきでしょう。そしていったん採用した人は大事に処遇することが基本だと思います。

 新規採用をゼロにするというのは荒療治にも思えますが、社内の反発は相当に大きかったのでは。

 いろいろな意見はありました。しかし、彼らに対して「仕事もないのになぜ毎年大量の社員を採用する必要があるのか」と尋ねると、誰一人明確に答えられる人はいませんでした。要するに「定期採用だから続けていた」というだけなんです。

 こんな非合理な採用は、シンテックでは考えられないことです。シンテックの社員はすべて私が採用しましたから、無駄に採用した人は一人もいません。それゆえ業績を理由にした社員の解雇はただの一度も行ったことはありません。

 一回もないんですか。

 はい、ただの一度もありません。安易に大量採用して、「やらせる仕事がないから解雇する」というのでは、まったく無責任でおかしな話です。必要な人しか採用せず、そして、いったん採用したら終身雇用を前提に大事に処遇すべきです。

 御社では年功序列を排して実績主義を徹底しています。しかし一方で、社員のクビを切らない終身雇用も重視しています。実績主義と終身雇用の二つは両立するものなのでしょうか。

 先ほども申し上げましたように、私は一度も業績を理由に社員を解雇したことはありません。社員を採用した側として、社員とその家族の生活を守り、社員が定年まで勤められる会社であり続けることは経営者の責務です。その責任の重さを知っていれば、安易に大量採用などできません。

 もちろん、終身雇用だからといって年功序列で人を評価するようなことはけっしてしません。実績主義を徹底し、結果を出した社員にはきちんとした処遇を行います。ここで大事なのは、実績で公平に評価することです。口先だけではいけません。元社長の小田切さんは、「何を言ったか」ではなく「どんな実績をつくったか」で人を評価する人でした。この実績で人を評価するというのは、長く続いている当社の企業文化といえます。

 実力主義と終身雇用は矛盾しないということですか。

 まったく矛盾しません。人は誰しも意気に感じれば、立派に仕事をしてくれます。それでも手のつけようがない社員がいるとなれば、それは採用した側の責任でしょう。

 とはいえ、採用時にその人の能力を見極めるのは困難です。ですから一度採用した人は何年間もかけて、その人の実績を正しく評価するしかないんです。

 ビジネスマンの能力を分析してみると、先見性や判断力というのは天性の素質による部分が多いと思います。いくら経験を積んでも先見性などのひらめきがない人は、重要な局面で的確な判断ができません。各人の資質に応じてふさわしい仕事を任せていくしかないのです。また、成果を上げた社員には報奨や地位などの面でしっかりと報いることが大切です。

 そうすることで社員たちはやる気を高めてくれるというわけですね。

 そうです。採用は少人数に留め、その社員たちを終身雇用や正しい人事評価を行うことで、社内には忠誠心や一体感が醸成されます。その一体感が業績の向上につながり、会社の成長を支えることになります。その結果、さらに優秀な社員たちが入社するという好循環につながるのです。

*つづき(後編)はこちらです

●聞き手・構成・まとめ|松本裕樹(ダイヤモンドクォータリー編集部) ●撮影|中川道夫

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