立川談志、終わりなのか。一つのプロセスなのか、不快は確か。
七月二十二日
何曜日かワカラナイ。日にちもワカラナイ。何もなく我が家。何処にも行きたくない。七十三歳だ、ムリもないか。でも立川談志だし。
八月×日
一年のうち、何もせずは初めて。海も山も老いも若い人も、笑いを待っているのに。日本中駆け回った立川談志。
八月二十五日
明日は引退。何の気も起きず。
2009年8月15日、落語立川流初代家元・立川談志は、所属事務所に対して初めて「引退」の意志を口にする。
だが、談志の休養は年内には終わらなかった。数度の入院を経て、翌年の初頭から急速に体調は快方へ向かう。そして2010年4月13日、ついに高座復活の日がやってきた。
『談志が帰ってきた夜』は、立川談志が闘病中に記した日記の抄録の冊子と、4月16日の復帰高座の模様を収めた77分のDVDから成る作品だ。
立川談志、1935年12月2日生まれ。16歳のとき、5代目柳家小さんに入門し、前座名は小よし。18歳で二つ目に昇進し、小ゑん。27歳で真打に昇進して5代目立川談志を襲名した。途中国政選挙にも出馬し、1971年に参議院選挙全国区で当選。1975年、三木内閣で沖縄開発庁政務次官に就任するも、わずか36日で辞任。
1983年、真打制度を巡る意見対立が元で、所属していた落語協会を脱退。弟子を引き連れて落語立川流を創設し、初代家元となった。立川流は、落語界で始めて弟子からの上納金制度を導入し、ビートたけしなどの有名人を弟子(Bコース。有名人専用)にとるなどの世間に向けた行動が大きな話題となった。寄席出演を主戦場としない一門として存続が危ぶまれたが、その後立川志の輔、談春、志らく、談笑などの実力派が育ち、談志自身のカリスマの強さから、逆に現代落語界を語る上でなくてはならない存在となった。
DVDは、談志が東京都文京区根津のマンションで身支度をしているところから始まる。ここから高座までをドキュメンタリーとして追っていくのだ。服装は見慣れない背広姿。上着のネームを入れる場所に「224」の刺繍がある。
しかし、ぎょっとさせられる。談志の声がしゃがれていて、病気前とは比べものにならないほど声量がないのだ。やはり病気の影響から脱しきれていないのか。
カメラは今夜の「立川流一門会」の会場である新宿・紀伊國屋へと向かう車中にも同行する。カメラに向けてぼそぼそと思い出話をする談志。話題はなぜか、可愛がっているぬいぐるみ、ライオンのライ坊のことに及ぶ。弟子・立川談春の自伝エッセイ『赤めだか』にこのライ坊のことが出てくる。雑誌連載時、談春が洒落で、弟弟子の志らくがライ坊を虐待したら中の綿が出たので腹巻でごまかした、と書いたら、怒った談志に志らくは破門されかけた(志らくから物言いがつき、単行本では別のエピソードに差し替え済み)。そのライ坊だ。
車は、紀伊國屋楽屋口に到着する。下車してきた談志は、落語家というよりは、スタンダップ・コメディアンか、タップ・ダンサーのようだ。吉川潮が聞き手を務めた『人生成り行き 談志一代記』によれば、二つ目の小ゑん時代の談志は、隆盛だったキャバレーに出演し、荒稼ぎをしていたという。その洒落たセンスは、当時の落語家には欠けていたものだった。
――「一日だけ幸せでいたければ床屋に行くがいい。一年幸せでいたければ結婚するがいい。二年幸せでいたければ家を建てればいい」かなんか振って、「一生幸せになりたければ、おれの話を聞くがいい」とか「このキャバレーに来るがいい」てなこと言って、「グッドラック!」。グッドラックというのも極めて新しい言葉だったんです。それでもう客はワーッて。
入口のところで談志は軽くタップを踏むような動きをした。黄金時代のミュージカル映画を愛していることで知られる談志の、映画界における唯一無二のヒーローは、故・フレッド・アステアだ。アステアが亡くなった日、談志が飲み屋でヘベレケに酔っぱらって、「アステアが死んじゃったよぉ」と号泣したのを、志らくは目撃している。
――泣きながら帰りの車に乗り込む師匠の足どりが、かすかにタップを踏んでいたのを私は見た。そのことに気づいたのが私だけというのが、ちょこっと誇らしいのです。(立川志らく『立川流鎖国論』)
楽屋入りした談志を、弟子たちが出迎える。当たり前のことだが、一門総出だ。「おつかれさまです。ネクタイしちゃって」と、ひときわよく通る声。高田文夫だ。高田は立川流の創設時に有名人専用のBコースに入門し、立川藤志楼を名乗った。後にBコース初の真打に昇進した(二人目はミッキー亭カーチスこと、ミッキー・カーチス)。立川キウィの顔も見える。キウィは、落語界では前代未聞の前座生活16年という記録を打ち立て(って威張れない)、都合3度の破門を経験して、そのたびに不死鳥の如く甦り、二つ目昇進を果たした。その模様を書いた『万年前座 僕と師匠・談志の16年』が売れたため、その功績が談志に認められ、2011年に真打に昇進することが決まっている。
落語界の開口一番は立川談修が務めた。
「世界一チケットをとるのがめんどくさい落語会に、よくいらっしゃいました」
と談修が声をかけると、客席がドッと沸く。実はこの日の「立川流一門会」は、談志が休養中に発表した『談志最後の落語論』を紀伊國屋書店新宿本店で買い、はがきで申し込んで当選した人間だけがチケットを購入できるというものだったのだ。談志の出演する落語会は近年プラチナ・チケットとなっていたが、自身はそうした傾向を快く思っていなかったという。志の輔と新橋演舞場で親子会をやった際、チケット価が高騰して6桁に達したと聞いた談志は、開口一番に「××××!(自粛)」「×××××××、マンセー!(自粛)」と叫んで演舞場の気取った客に冷や水を浴びせかけた。そしてかけたネタが「金玉医者」(『人生、成り行き』)。
談修の次には志らくが上がる。談志は立ち上がって、舞台の袖でまくらを聞き「なんの噺か、わかんねえ。(耳打ちされ)『茶の湯』か。よく似てんね、オレに。……落語なんてあまりおもしれえもんじゃねえな」と呟いた。
志らくには、先に挙げた『立川流鎖国論』や自伝『雨ん中のらくだ』、『全身落語家読本』(現代の落語界の話をするのに、談志を新幹線、古今亭志ん朝をブルートレインに喩えたまではよかったが、五代目柳家小さんのことをSLと言ってしまい、古参の落語家から殴ると脅された)などの著書があり、狂信的な談志原理主義者であることを公言している。早くから頭角を現し、二つ目でありながら志の輔に次ぐ人気を得た。若手時代のとんがった感じが、熟成された風格へと変貌しつつある落語家だ。
高座を降りた志らくは、着物のまま談志を囲む席に座り、その言葉に耳を傾ける。
中入り前の最後は、志の輔と並んでチケットをとりにくい落語家となった、立川談春だ。志らくによれば、若手時代から口舌は完璧で、一度聴いた落語は完璧に覚えていたといい、いまや立川流きっての正統派である。「何やってんの」と聞いた談志に、側の者が「『包丁』です』と答える。談志は「んー、包丁できんの」と口にしかけ、「いや、こいつの包丁はわりといいんだ」と言い直した。包丁は途中で小唄を歌いながら女を口説く場面が難しいらしい。若き日の談志には、独演会で包丁をやると予告しておきながらそこがどうしてもできず、十八番としていた六代目三遊亭圓生に代演してもらった(独演会なのに!)という逸話がある。志らく、談春たちが二つ目に昇進した際の披露の会で、談志が高座にかけたのはこの噺だった。弟子にとっては、特別な意味を持つネタである。志らく、談春とも、真打昇進をかけて談志の前で演じたのは、包丁だった。
――(包丁を)演り終えて楽屋で聴いてくれていた談志(イエモト)に挨拶すると、談志は楽屋のモニターを見たままで、
「それでいい。どこひとつをとっても直すところはない。上出来だ」
と云ってくれた。心が、体が、ふるえた(『赤めだか』)
その包丁を高座で談春がしゃべっている間に、楽屋には兄弟子である立川談幸がやや遅れて挨拶に訪れた。談幸は、弟子がプライベートの空間に足を踏み入れることを嫌がる談志が、唯一住み込みの内弟子にした男である。「談幸は付き合って損をさせない数少ない落語家」と談志は言った。理想の弟子だったわけだ。..
その談志とは懐メロ好きの趣味が共通していて、師匠の機嫌が悪そうだ、と察すると、サッと懐メロのテープをかけて心をなごませるという。談幸の顔を見たからか、談志が藤山一郎「みどりの雨」の一節を口ずさみ始めた。師弟ともにお気に入りの一曲だ。
いつの間にか、談志の声が滑らかになっていた。聞き苦しさはあるが、自宅で身支度をしていたときほどではない。唾液の分泌をよくするという薬が効き始めたのか、高座にこれから向かうという緊張感、高揚感がなせるわざなのか。
中入り後はいよいよ、談春、志らくとのトークをはさんで、復帰後初の高座である。
ゆっくり立ち上がった談志は、記憶をなぞるような足取りで軽やかにタップを踏んだ。
2人の弟子が待つ紀伊國屋ホールの舞台に、高座着に着替える前の背広姿の談志が出て行く。
この日、立川談志は、落語の台詞をスラップスティックにつないでかつての得意ネタ「二人旅」にもっていくイリュージョン落語、ほぼ初演と思われる「首提灯」の2席を演じた。
2010年4月13日、立川談志が高座に帰ってきた日。
(杉江松恋)