「夏休みって、うちで毎日子供がゴロゴロしてるから鬱陶しいんだよねー」とか言っているお父さんお母さん、あと数年もしたらその子には相手にもしてもらえなくなりますよ。まだ間に合うから子供と一緒に遊びにでも行くといいよ!
というわけで子供にとっては最大のイベントである夏休みも間もなく終了である(二期制や、寒冷地の学校は今週から始まる場合もあり)。
子供たちにここで提案だ。この機会に「自分はなぜ学校に行くのか」ということについて考えを巡らしてみてもいいのではないだろうか。
義務教育だから?
上の学校に行くために必要だから?
給食がおいしいから?
いや、理由は人それぞれでいいや。とにかく一度は考えてみましょうということだ。毎日の居場所なのに、そこにいる理由が見つけられないというのはちょっともったいない話だよ。夏休み、何日かの休みの一日をそのことに使ってみてもいいじゃないですか。


というわけで「自分はなぜ学校に行くのか」考えるために読む文庫5冊を挙げてみた。

その1)学校に自分の居場所って本当にあるの?
先日『オーダーメイド殺人クラブ』が直木賞の候補になった辻村深月は、学校という閉じた空間についてみんなが感じている違和について書かせると非常に巧い作家だ。その中でもお薦めしたいのが『太陽の坐る場所』である。地方の高校を卒業して10年が経ったある日、有志が集まって同窓会を企画する。彼らのクラスには上京して誰でも知っているような女優になった女性がいた。スターであるキョウコを呼び出そうという挑戦が、彼らの学校時代の記憶を呼び起こしていくのだ。

教室の中には誰もが意識をせずにはいられない「太陽」もいれば、誰にも顧みられることのない「雑草」もいる。人は生まれながらに平等であるというお題目の嘘を、この残酷な図式は明らかににしてしまうのである。そうしたいたたまれなくなるようなありさまを、胸に迫るような筆致で描くのが辻村という作家である。

――自分は人気がない、と最初に気付いたのはいつだったろう。

なんて文章で章が始まる小説だ。痛いところをついてくるなあ。
そしてこの作家は「なぜ人気がないといけないのか」「そもそも学校における人気ってなんだ」という問いにまで読者を導いていく。「今は」学校に居場所がないと思っている人にはぜひこの作者の本をお薦めしたい。

その2)学校ではみんなが一緒のことをしないといけないの?
誰もが心当たりのあることだと思うが、学校という場の中でもっとも怖いのが「同じでいなければならない」という同調圧力だ。その恐怖と理不尽さを描いたのが、ロバート・コーミアの『チョコレート・ウォー』である。
小説の舞台となっているトリニティ学院では、学校の運営資金を捻出するためにチャリティ事業が行われている。生徒が周辺の民家にチョコレートを売りに行くのである。
ボランティアとはいいながら実質強制であるこの行為に、ある生徒が叛旗を翻す。一年生のジェリーだ。学院の生徒を裏から支配する学生集団も彼に圧力をかけ始めるが、ジェリーは頑として態度を変えようとしない。そのために彼は悪夢のような体験をすることになるのだ。
みんなと同じ、が当たり前の世界で一人自分の信念を貫くことの困難さを描いた創設である。みんな同じじゃなくていいんだよ、傷つかなければいけないくらいなら、学校なんて行かなくていいんだよ、とこの小説を読むと登場人物に語りかけたくなる。


その3)人生の勉強って学校じゃないとできないものなの?
冒頭に掲げた問いは、筆者自身が十代のころにずっと抱えていたものだった。読書が好きだったので、大事なことはみんな本の中に書いてあるじゃないか、と思っていたものである。本ではなく、人をお手本にして自分の人生のありかたを学ぼうとする者もいる。そうした人物を主人公にしたのが鈴木隆の『けんかえれじい』である。
題名からは「喧嘩上等」の暴力小説であるかのような印象を受ける。たしかにそうした面もあるが(「近代喧嘩の実践及び白虎隊精神の探究」なんて章がある)、上下2巻の大半は主人公・南部麟六が人生の師匠を見つけ、その人から学ぼうとする姿勢、得られた貴重な教条について書かれているのである。
方言で書かれた台詞の滑稽さばかりに目が行くが、杓子定規な学校(のちにはそれが軍隊という場に代わられる)の中で真摯に学んでいこうとする麟六の態度には胸を打たれる。
麟六は純情からたびたび筆禍事件を引き起こし、自らの居場所を狭くしてしまう。たとえば「人はいかにして皇軍将校たりうるか」の章では、自身が学んだ兵卒の心得を「月見草と電話兵」なる童話にして表しなおそうとして却って中隊長殿の不興を買ってしまうのだ。そうした不器用なところも愛らしいキャラクターで、読み進めるうちに従って麟六という男が好きになっていく。
――喧嘩修業の道はどうなるのだ。
――満身創痍癖の克服はどうなるのだ。
という最後の呟きが、いつまでも心に残る小説だ。

その4)学校選びをしくじったら人生はそこで終わりなのか?
重い作品が続いたので、ちょっと目先を変えてみる。ミステリー作家の東野圭吾にはギャグの書き手という隠れた才能があるが、それが最上の形で活かされた著作の一つが『あの頃ボクらはバカでした』だ。
ご存じの方も多いと思うが、東野圭吾は大阪府立大学工学部の電気工学科卒、すなわち理系の出身である。後の大作家は、幼少のころから神童と呼ばれるような天才少年で……あったというようなことは一切ないらしい。小学校を出て入ったH中学は地元の不良が集まるガラの悪い学校だった。しかも東野は、三年の時に「自他共に認める不良」ばかりが集まるクラスに入れられてしまうのである。球技大会でバスケットボールの試合があると「ドライバーやナイフをジャージのポケットに忍ばせる者あり、手の甲の部分にベルトのバックルを仕込んだ軍手をはめる者あり、頭突き用に鉢巻きの下に鉄板を隠す者ありという具合」だし、教室では「一度きゃあきゃあという女の子の嬌声が聞こえてきたので振り返ってみると、二人の男子が一人の女子を椅子に押し倒し、身体を触りまくっているところ」だったというのだからどんな『男組』なんだよ! 学園のボスは白い学ランを着てるのかよ!
そんな学校からなんとかF高校に入ったはいいものの、理系だった東野は学校側の方針のためにえらい目にあってしまう。工学部を受験するのに必要だった「数学3」の授業が三年次に事実上消滅してしまったのだ。「殆どの生徒が数学2Bはおろか1でさえ満足に理解していないことを知り愕然とした教師たち、数学3の授業を一年と二年の復習にあてることにしてしまった」せいだという。そのことに対して問い質した生徒に、教師はこう返答するのである。
「まあ、あとは独力でなんとかしてくれ。それに、一浪ぐらいどうってことないぞ」
こんな目にあったおかげで東野は浪人を余儀なくされるのだが、それにもめげずに大学に入り、ちゃんと就職し、ミステリー作家としてもデビューを果たしたわけである。本書から得られる教訓は二つ。「学校選びはきちんとしないと確かに大変なことになる」「だが学校に期待しすぎなければ途中でいくらでも人生は軌道修正できる」ということだ。

その5)ではいったい、なんのために学校に行くのか?
その問いに答えることは難しいが、参考になるかもしれない本を一冊挙げておく。桜庭一樹『青年のための読書クラブ』である。
本書は、聖マリアナ学園という名の私立学校の創立から廃止までの間、百年の長きにわたって存在し続けていた「読書クラブ」の歴史を描いた作品である。聖マリアナ学園は良家の令嬢のみが通う「お嬢様学校」だが、読書クラブの部員は異能の持ち主ばかりであり、いわば醜いアヒルの子のみが寄り集まった場だ。代々の読書クラブ員は何を見聞したのか、学園の深奥にあって何を企図したのかということが、手記の形で残されている。手記は史書の列伝のような形をとっているが、記述のあちこちに読者を(小説の中においては、いつか手記を見るであろう未来の聖マリアナ学園の関係者を)意識した文章が混入されている。代々のクラブ員たちは、手記の形で書き記すことによりリレーのバトンのような形で何かを残そうとしたのだ。

学園の中で醜いアヒルの子としていることの意味。
それでも過去や未来とつながっているという現実。
手記を読むという行為を通したときにのみそのつながりは発動するというトリック。

それが書かれた小説である。学校に行くことの意味を明確に定義するのは難しい。だが、学校にいることによって初めて見聞きできるもの、体験できることが世の中にはある。本書を読んで、そうしたことを考えた。

だから学校に行こう、というのではなくて。
学校はそこにあるよ、ということだけを言いたかったのでした。夏休み、もうすぐおしまい。(杉江松恋)