先週末、驚くべきことが「週刊文春」誌上で報じられた。
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」が映像化! しかも実写とアニメが同時進行とのこと!
過去にも実績はあるし、アニメ化のほうは別に驚くようなことでもない。
むしろ今まで放置されていたことのほうが不思議なくらいである。しかし実写化となるとっ! あの世界観をどうやって実写で表現するのかっ、と意味もなくジョジョ立ちで悩んでしまうわけである。実写化するのはたぶん第四部なんだろうけど、第一部だったりしたらそれはそれでびっくりだ。
そんなこともあって、今夏に出た『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』を読み返してみた。これは荒木ファンならずとも読むべき内容の映画鑑賞ガイドなのである。いや、ファンで未読の人も多いだろうから、この機会に読んでみよう。

まえがきにおいて荒木は、自分流のホラー映画定義を読者に示している。「観客を怖がらせるために作られた」映画であること。それが荒木の定義だ。
――(前略)つまり「社会的なテーマや人間ドラマを描くためにホラー映画のテクニックを利用している」と感じさせる作品よりも、まず「怖がらせるための映画」であって、その中に怖がらせる要素として「社会的なテーマや人間ドラマを盛り込んでいる」作品。それこそがホラー映画だというわけです。
これは非常にまっとうであり、他のジャンルにも転用できる見方だ。
たとえば、ミステリー映画の定義を「観客を驚かせるために作られた」映画とする人は多いだろうし、恋愛映画の定義は「観客に恋愛の気分を味わわせるために作られた」映画ということになる。
ただし荒木の見方はさらに踏み込んでいて、ホラー映画には効用というべき側面があるとも述べている。
――(前略)さらに言えば「不幸を努力して乗り越えよう」のような、お行儀のいい建前は絶対言わない、それよりも「死ぬ時はしぬんだからさ」みたいにポンと肩を叩いてくれることで、かえって気が楽になるという、そういう効果を発揮してくれるのがホラー映画です。
だから「かわいい子にはホラー映画を見せよ」と荒木は言う。

ホラー映画が好きだから、という理由で本書を手に取った人は第1章を読んだだけで著者を信用するはずだ。ゾンビ映画を採り上げた章を荒木は冒頭に持ってきている。普通の映画では役者は個性的な演技を求められるがゾンビ映画は無個性の演技に支えられている、ゾンビ映画では定番の展開であるショッピングセンターへの立てこもりは観客にユートピア体験を与える、生き残りのためにはゾンビを殺さなければならないという局面は死者を敬うという現実世界の価値観の逆転を促す、といった具合に映画の要素を分析し、時間軸に沿って自身が名作と認める作品を紹介しながら、ゾンビ映画というジャンルの全貌を荒木は明らかにしていく。その中で「走るゾンビ」や「ウィルスの感染」といったトピックを落とさずに語っているのも評価したい点だ。過不足なく、よくまとめられたゾンビ映画論である。なんといっても〆の文章がいい。
――(前略)ゾンビ映画にルールがあるとするなら、それは「平等・無個性なゾンビたちにリーダーがいてはならない」と考えているからです。それ以外は動きがゆっくりでも速く走ってもいいし、また頭を撃たれて死ななくても、人間以外の動物を食べてもいい。
僕はそれを許します。そのかわり「アイ・アム・レジェンド」のような吸血鬼は別として、ゾンビにリーダーだけはいてはならない。ゾンビの本質とは全員が平等で、群れて、しかも自由であることで、そのことによってゾンビ映画は「癒される」ホラー映画になりうるのです。
癒されるホラー映画!
荒木がいかにホラー映画に(そして映画全般、もしかするとエンターテインメント全般に)「日常からの解放」の要素を求めているかが判る一言だ。それが甚だしい恐怖であっても、溢れんばかりの愛でもいい。必要なのは徹底なのである。ある主題を突き詰めることによって観客(読者)を俗世から解き放ち、豊かなイメージの世界で遊ばせる。それは素晴らしいことでしょう? と荒木は言いたいのだ。
私はこのくだりを読んで『孤独のグルメ』のあの名台詞を思い出した。はいみなさんご一緒に。
「モノを食べる時はね。誰にも邪魔されず自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。
独りで静かで豊かで……」(井之頭五郎。句読点は筆者が補った)

以降の章立てを紹介すると、第二章:「田舎に行ったら襲われた」系ホラー、第三章:美ザール殺人鬼映画、第四章:スティーブン・キング・オブ・ホラー、第五章:SFホラー映画、第六章:アニマルホラー、第七章:構築系ホラー、第八章:不条理ホラー、第九章:悪魔・怨霊ホラー、第十章:ホラー・オン・ボーダーとある。スティーブン・キングに一章を割いているのは当然のことだし、個人的にはアニマルホラーの章があることに安心感を覚える。1970年代に映画を観て過ごした世代としては「ジョーズ」を初めとする動物ものの影響を抜きにしてホラー映画を考えることは不可能だからだ(この領域は「タワーリング・インフェルノ」や「ポセイドン・アドベンチャー」といったパニック・ストーリーの映画と接していると思うのだが、それはまた別の機会に)。
第二章では「悪魔のいけにえ」について、人間のゲスな面を描いて良識を打ち砕くために表現のすみずみまで計算が行き届いた芸術作品であると荒木は指摘しており「音楽にたとえるならこれぞ「ロックだ」となるでしょう」という一文にはうなずかされる。また第三章で「13日の金曜日」シリーズが成功を収めた理由を「殺人鬼が出てくる映画を、勝ち抜き戦ならぬ負け抜き戦、逆トーナメント方式のエンターテインメントにしてしまった」としているのも興味深。
第十章は境界領域の作品のことだが、第七章と第八章も著者独自の定義のためわかりにくい。構築系ホラーとは「リアリティよりも面白さ優先で、パズルのようにストーリーを組み立てていく。あるいは編み物のようにストーリーを編み上げていく」トリッキーな映画のこと。「ファイナル・デスティネーション」「キューブ」「ソウ」といった作品がベスト3として挙げられている。不条理ホラーのほうは「理解不能、答のない底なしの恐怖へと強烈に誘ってくれる作品」とあり、「ファニーゲーム」「ザ・チャイルド」「シックス・センス」といった作品が俎上に載せられている。前者は観客との知恵比べを主眼とする作品だろう。
荒木作品の中にここで挙げられたような「構築系」の趣きがあるものが多いことはファンならよくご存知だ。デビュー作「武装ポーカー」以来、たびたび荒木は読者に知恵比べを挑むような作品を書いてきた。
忘れていたが、自作との関連性について荒木が語っている箇所は本書の読みどころだ。未読の方の興を削がないように控えめにしておくが、下記のような箇所はファンにとってはたまらない種明かしとなるだろう。
――たまたま僕が漫画家デビューしたのがこの公開時期でしたから、創作するうえでも影響を受けて、「エイリアン」を作品作りの目標にしようとさえ思ってくらいです。それでエイリアンの生命力を自分なりに咀嚼しえ、究極の生命体が活躍する「バオー 来訪者」という作品を後に描いたくらいで(第五章 SFホラー映画)
また、ところどころに「やっぱり荒木飛呂彦は荒木飛呂彦以外の何者でもない」と思わせる箇所もある。こういう感性の人だからああいう作品を描くのだな、と納得させられるのだ。
――映画館にカップルで見にきている若い人たちがいますよね。僕だけがそう感じるのかもしれませんが、そういう男女の雰囲気というか、話をしているその内容、態度、笑い方や、お互いの目配せの仕方と、そのすべてが気になって仕方ありません。映画を観始めた当時の四〇年前のカップルと現在見ているカップルは当然別人のはずなのに、ずっと同じカップルが映画館にいるようにさえ感じられるのです。そしてそこから飛躍して、「いったいいつからいるんだろう?」「あのカップルはゾンビかもしれない?」などと想像を巡らせると、何かゾッとしてしまうことさえあります。(第一章 ゾンビ映画)
正直その発想はなかった!
ちょっと心配なのは日本製ホラーについて荒木が触れている箇所である。
決して好意的なものではないのだ。「THE JUON」などの例外と別とすると「思わせぶりの演出が過ぎて、かったるくなる作品」が多いのだという。
――例えばカメラが天井の隅に寄っていって、そこに幽霊でも出るのかと思ったら何も起こらなかったりとか、何かを撮るのではなく雰囲気を見せたいのかもしれませんが、見るほうにとっては「もったいを付けすぎだろうと」と思ってしまう。単に退屈なだけです。
『ジョジョ』映像化スタッフがただちに本書を熟読することをファンとして要求するっ!!
(杉江松恋)

(おまけのお知らせ)
本書第一章で触れられた「ゾンビ映画」について、大のおとなが集まってああでもないこうでもないと議論を戦わせるイベントを8月31日に行います。ゲストは、『ライフ・イズ・デッド』の著者、漫画家・古泉智浩、「映画秘宝」編集長にしてこのたび『ゾンビ映画大マガジン』を刊行した田野辺尚人とゾンビ研究の第一人者である「タコシェ」店長・伊東美和。現在ゾンビ・アメコミ『ウォーキング・オブ・デッド』(飛鳥新社)を絶賛翻訳中のホラー評論家・風間賢二という豪華版だ。未公開ゾンビ映画のトレーラーなども観られるチャンスなので、ファンの方はぜひお越しください。詳細・前日予約はこちらまで。
日時:2011年8月31日(水) 開場・19:00 開始・19:30 (21:30~22:00終了予定)
会場:LEFKADA(レフカダ)(東京都新宿区新宿5-12-4リーレ新宿ビルB1)
料金:1500円(当日券500円up)
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