6月も半ばですね。
これから暑くなるとか、雨が降ってじっとりするとか、仕事が山のようにとか考えるととっても嫌な気分になりますね。

昨年はいろいろありましたが、こんな時くらい、逆に不謹慎なこと言ってみたい衝動にかられませんか。
僕は駆られます。
今すぐにここでも(以下編集による削除)

ふう。
以前インタビューをした、芥川賞作家の長嶋有が描いたマンガ『フキンシンちゃん』が発売中です。
小説家がマンガ!? とびっくりされる方もいると思います。
実は「コミPo!」という、キャラを3Dモデルで動かしてマンガのようにコマを作れるソフトを駆使したマンガなんです。
絵が描けなくてもマンガが作れる! すごい時代です。
もちろんあくまでもソフトウェアなので、3Dモデルはある一定のものを使用。なので似たような顔のキャラで構成されていますが、行動と髪の毛・表情の差で、読みやすくキャラ分けができています。

このマンガはほぼ最初に「フキ子ちゃんが不謹慎だってこと、皆、気づいていない」というセリフで始まります。
一定のパターン化されたセリフで始まるマンガ、ってのがなんとも懐かしい感じですよね。まさに藤子不二雄A、藤子・F・不二雄が多用していた日常マンガのお決まりです。

実はこのマンガ、お約束パターンをあえて使うことで、作者の人生観を浮き彫りにしたちょっとテクニカルな作品なんです。
一話とかは「ベタだなー」と笑えますが、後半になるに従って結構驚きますよ。

出てくるキャラも、わざとベタ。頭がよくて真面目な竹畑君、元気いっぱい大暴走脇坂さん、無邪気でちょっとあぶなっかしい天然の薬師丸さん、邪魔ばかりする迷惑なお金持ちの豪欲寺君。
藤子世代のノリのキャラと、現在の萌え4コマにいそうな女の子キャラ達がうまい具合に交じり合ってます。タケハタ君とか、某エスパー魔……なんとかのマンガ思い出しますよね。

ベタなキャラの中に変わり者が一人交じる、というパターンもきちんと踏襲。それが今作のヒロインの一人フキ子ちゃんになります。

メインヒロインのミル子ちゃんが、フキ子ちゃんのいう不謹慎極まりないセリフに振り回される、というのが主な流れ。
不謹慎具合ハンパじゃないですよ。
「タールマンみたいだけどいい子だよ」
「ワンフォアオール オールフォーワダ」
「気をつけないと市原達也容疑者みたいのに三分間首を絞められて浴室に(略」
「クスリも買い(略」
危ない、危ない!
危ないけどこれしゃべっているのはショートカット美少女のフキ子ちゃんだからしかたない!
仕方ないよね!(ニヤニヤしながら)
不謹慎な話ってのは「だめだよそんなこと言っちゃー」と言いつつ、ちょっと楽しくなっちゃうものなんです。

問題はここからなんです。

フキ子ちゃんは不謹慎発言が多いですが、基本みんなにスルーされていて、ミル子ちゃんしか反応していないように見えます。
ミル子ちゃんはそれが不思議ではあるんですが、同時にフキ子ちゃんに対して非常に強い興味を持っています。
フキ子ちゃんの不謹慎な発言は、一般的には使ったらドン引きされるものばかりです。マンガだから許される発言です。
しかし不謹慎な発言を堂々と出来るキャラクターというのは、同時にあらゆることを堂々と言える、ということでもあるんです。
どこまでが嘘かわからない、腹のさぐり合いをするような世界にあって、まっすぐに語れる。

これは心強いわけですよ。

たとえば、彼女ははっきりと「だってずっと友達なんだよ?」と言ったことがあります。
これ小説やマンガだと普通にいうセリフですが、実際に友達に対して「友達だよ」っていう機会がどれくらいあるでしょう。
まあ、高校生だけじゃなくて大人でも、面と向かってはほぼ無いですよ。恥ずかしいって思っちゃって言えないんですよ。
でも彼女は言うんです。
不謹慎なこともいうし、気恥ずかしいことも言う。

またこんなことも言います。
薬師丸さんことヤクちゃんはノホホンとしていますが、両親が離婚、お父さんの再婚相手といろいろあって親戚の家に暮らしています。
たいていの場合はここで「かわいそうだね」「寂しいよね」と声のトーン落として話すでしょう。あたかもお悔やみの言葉のように。
しかしフキ子ちゃんは違います。
「でもかわいそうじゃないね」
悲しいのは間違いないかもしれない。でもそれを「かわいそうだ」と定型文のように言うのはどうなんだろう?
ミル子もお母さんを亡くしていて、それをぼんやりと胸に抱えています。泣きそうになる日もまだあります。
しかし「悲しい」ことがあっても、今は楽しく生きてる。
フキ子ちゃんはこう言います。
「この世界に「かわいそうな誰か」はいるかもしれない。でも、「かわいそうな自分」なんて世界のどこにもいないんだよ。私そう思ってる」
フキ子ちゃんのセリフは時々非常にズバッと核心をついてきます。覆い隠すことを一切しません。
だけど、だからこそ、一見ナイフのように尖った言葉でも、優しく聞こえるのです。

物語は後半、豪欲寺の陰謀によってミル子が窮地に陥る、というお約束な展開にさしかかります。
でもそれはあくまでも外枠でしかありません。
本質にあるのは、他人の幸と不幸とはなにか、自分の思いをかなえるとは何なのか、というテーマです。
誰かのためにする? 自分のためじゃないのか?
そもそも幸せって、誰かが見て感じるものなのだろうか、それとも自分が受け取るものなんじゃないだろうか。

ミル子とフキ子という二人が交わした言葉の数々は、本音の応酬でした。
基本ミル子目線で話が進むので、フキ子ちゃんははっきり言ってくれて面白いな、もっとあなたのことが知りたいな、と読者も思わせる展開になっています。
しかしラストで、フキ子もまたミル子に対してこう考えていたことが書かれます。
「いつも見ていてくれたよね、私のこと。私は、気をひきたくて変な発言ばかりしちゃってたけどね。「恋」ってわけではなかったつもりだけど……。昔読んだ小説の主人公が言ってた。『相手に向かって放っていても、本当は自分に語る言葉がある。とても美しい言葉だ』」
まあ、地なんですが。でも彼女は無感情ではない。不謹慎な言葉を言いながら、いつも相手を気にしていました。
「ミル子ちゃんを助けたいって願いがかないたかったな」
かなえたかった、ではありません。「かないたかった」。最後は願うだけ。

幸せと不幸せ。それを「かわいそうだね」というのか、「理不尽だ!」と怒り狂うのか、あるいは願いがかないたいと祈るのか。
ただ、これは間違いない。今生きている。となりに「友達」だと言える人がいる。
なら、フキ子ちゃんのようにまずは、はっきり言おう。
「悩んでみえる人に対して尋ねることしか出来ないのなら、直線を歩いて最短距離で尋ねるんだ」とミル子は心に誓います。

外観は藤子イズムに彩られ、展開もオマージュ度合いが非常に高い作品です。
ですので笑って楽しめる作品なのですが、読めば読むほどジワジワとテーマが差し迫ってくる作品でもあります。
もちろんそれは、最初読んでわからなくてもいいと思います。
ぼく自身、この本が刊行されてから何度も読んでいますが、完全にはわかっていません。小説じゃないだけに逆に絵や間からしか判断出来ない部分が多く残されていて、フキ子の「でもかわいそうじゃないね」の説明がはっきりと出来ないままです。
でもそれでいいんです。
おそらくこの作品は、読み終わっていくらか……明日かもしれないし、数年後かもしれませんが……たってから、ふっとした瞬間にカチっとわかる日がくるはずの作品だからです。
ミル子がそうだったように。
何度も読めば読むほど、その時の精神状態を反映するかのごとくフキ子の姿が変幻する作品なんです。

それにしてもネタ多いな!
コマの隅々に細かいネタてんこもりです。
「あのー」っていうだけなのに「ジャンジャック」とか。「アニメ化?ノイタミナで?」とか。いやいや、それは小玉先生のアポロンのほうですから。
不謹慎ネタや細かいギャグを探すだけでも楽しいので見てくださいな。
ぼくも不謹慎な話したいなあ。その分、自分の気持をまっすぐ言えるように、なれたらなあ。

長嶋有『フキンシンちゃん』
(たまごまご)