マツダスタジアムのブルペンには「弱気は最大の敵」と刻まれたプレートが飾ってある。プロ野球ファンなら誰でも知ってるであろう津田恒美の座右の銘だ。
その津田恒美が亡くなったのは今から23年前のことだった。

関係者が絶句した津田恒美の死


1993年7月20日、広島市内の病院で津田恒美は息を引き取った。津田の死はすぐさま関係者に伝えられたが、悲報を耳にした誰もが絶句したという。津田はまだ32歳という若さだった。
実は津田はこの2年前のシーズン開幕前から頭痛が止まらなかったそう。体調不良のまま開幕を迎えた津田は、4/14の巨人戦で原辰徳にレフト前ヒットを打たれて降板。この試合の直後に検査を受けた津田は脳腫瘍と診断され、すぐさま入院となった。


周囲に隠していた津田恒美の病名


5月5日に広島カープは会見を開き「津田は水頭症で入院した」と発表。津田の病は周囲には隠されたのだった。しかし津田は医師から「激しい運動はもう無理」と告げられたため、同年秋に退団届けを提出。球団側も津田の意思を尊重し、引退を発表する。

津田の腫瘍は手術で摘出が出きない位置にあったため、病状は一進一退を繰り返していた。
一時はチームを陣中見舞いに訪れるくらいまで回復し、現役復帰へ向けての夢を口にしたこともあったが、1992年6月頃になると病は悪化。ベッドから起き上がることも難しくなったそうだ。


津田恒美の死後


生前から津田と親しかった森脇浩司(前オリックス監督)は自分の結婚式に津田に招待状を送り、津田の席に自らお酒を注ぎ、津田への追悼を行った。その森脇は、津田の一人息子を始球式で登板をさせるように球団に掛け合って実現させている。

津田の通算成績は10年で49勝41敗90セーブだが、津田が投げる渾身のストレートは多くの野球ファンの記憶に残っている。
「弱気は最大の敵」という座右の銘は、津田自身の「自分が気が弱いから常に自分に言い聞かせてないといけない」という考えから生まれたそうだ。この言葉が刻まれたプレートは今でもカープの投手を励ましている。
(篁五郎)

甦る炎のストッパー 津田恒美