石原さとみさんの交際報道に発狂する「東京タラレバおじさん」たち
公式サイトよりキャプチャ

人気女優・石原さとみさんと、動画配信サービスを手掛ける「SHOWROOM」の代表取締役社長・前田裕二氏の交際を週刊文春が報じ、にわかにインターネット上でも大きな話題になっています。

これまで人気芸能人の熱愛報道によって「◯◯ロス」という現象が起こるのはよくあることですが、今回、インターネット上で溢れている悲観の声を見ていると、単なる悲観を超えた「気持ち悪い」反応や、女性蔑視丸出しの反応が非常に多いように思いました。


「結局は金かよ」という醜い負け惜しみ


まず最も酷いケースが、「石原さとみも結局金かよ」という反応をする人たちがたくさんいたことです。

これは「酸っぱい葡萄」、つまり認知的不協和の典型例だと思います。自分が恋焦がれていた石原さんとは付き合えない辛い現実を叩きつけられた時に、その不協和を解消するため、「石原さとみは金で男を選ぶような恋愛観の持ち主だったから自分は選ばれなかったのだ!」と、石原さんの恋愛観を勝手に決め付けることで、弱き己のメンタルを慰めようとしているわけです。

ですが、その決めつけはハリボテに過ぎないことは言わずもがなです。確かにトップ女優の石原さんと同じ生活圏に身を置くには、ある程度の資産や地位が必要なのかもしれません。でも、石原さんの周りではむしろそういう人たちがデフォルトでしょうし、おそらく前田さんよりずっとお金持ちの男性だってたくさんいることでしょう。その中で前田さんを選んだということは、お金とは別の基準があることは明白です。

むしろ、わざわざ生活圏外にいる資産や地位の無い男性と接点を持つことのほうが明らかに不自然だと思います。仮に生活圏内にいたとしても、多くの男性は勝手に石原さんを高嶺の花だと思い込んで、アプローチするのを控えるケースが多いのではないかと思うのです。

そもそも、石原さんがお金ではなく、外見や内面を重視してパートナーを選ぶ人であれば、前田さんではなく自分を選んだとでも言うのでしょうか? 仮に石原さんがイケメン俳優と付き合えば、今度は「石原さとみも結局顔か!」等、どこまで行っても難癖を付け続けるのだと思います。

悪いのは女優ではなくエイジズムな日本男児


また、仮に彼女がお金で選んでいたとしても、それは女優さん個人の問題というよりも、女優さんが若い時にしか稼げないという日本社会の「エイジズム(若さ至上主義)」に問題があるからではないでしょうか?

たとえば、アメリカのドラマ等を見ていると、日本の女優さんは圧倒的に若い人に偏っていることが分かります。これでは、日本の女優さんが若い頃の生活水準を維持するために、お金のある男性をパートナーに選ぼうとするのも致し方ないことではないかと思うのです。

ですから、「顔と金の交換」という図式を批判したいのであれば、その元凶となっている若さを必要以上にチヤホヤする日本の男性たちに批判の矛先を向けるべきでしょう。でも、実際は彼等自身が女性の若さをチヤホヤしている場合も多い。
つまり、自分自身が元凶。そのくせ、女優さんたちに批判の矛先を向けるのですから醜悪です。

あふれ返る醜い「東京タラレバおじさん」たち


次に、「前田氏みたいに富をなしていれば」「IT企業の社長をやっていたら」「アイドルの動画配信サービスをやっていれば」と、「タラレバ」を叫ぶ人たちもインターネット上で散見されましたが、これも大変醜いと思います。まさに、「東京タラレバおじさん」に他なりません。どれだけ「タラレバ」を並べたところで、彼らは前田さんではないのですから。

それに、「◯◯すれば◯◯と付き合える」という思考回路自体が、恋愛における好みやコミュニケーションの重要性を全く分かっていない人の発想です。基本的に恋愛はスペックや肩書でするわけではありません。確かに多少マッチングする確率に影響を及ぼすこともあるかもしれませんが、所詮は確率論で、イケメンでもお金持ちでもどれだけ人間性に優れていても、相手が別に好きじゃなかったらフラれるだけです。

そもそも、石原さんにも相手を選ぶ意思や、基準となる価値観があるわけで、彼等はそれをまるで分かっていない。女性が人を好きになるという感情がある人間だということを完全に無視して、男社会のスペックに機械的に反応する「モノ」として捉えるのは、女性蔑視極まりない発想と言えるでしょう。

彼等が恋しているのは石原さとみではなく男社会の地位


さらに、石原さんの交際に発狂している人たちは、本当に石原さとみさんという人間が好きなのか、非常に強い違和感を覚えます。男社会のヒエラルキー構造に由来するスペックにばかり言及する彼等のタラレバ発言を見ている限り、「石原さとみというトロフィーが獲得できるような男社会での地位が欲しい!」「でも自分はその地位にいない!辛い!」と喚いているようにしか見えません。

男社会のカースト構造を内面化して、勝手に「負け組メンタリティー」かつ「非モテメンタリティー」に陥っている人たちは、恋が実らなかった辛さに苦痛を覚えているよりも、「“高嶺の花”とは付き合えない自分の地位の低さ」に苦痛を覚えているようですし、石原さとみさんという一人の女性を見ているよりも、ひたすらその先にある男社会のヒエラルキー構造ばかりを見ているようにしか思えません。

確かに、男社会のカースト構造や、恋愛至上主義、モテ・非モテのカースト構造はぶっ壊さないといけないと私も思いますが、そのためにはジェンダー平等が絶対不可欠です。
それなのに、彼等はどっぷりカースト的価値観に染まっていて、女性の意思を無視して「モノ」として捉える女性蔑視文化をむしろ強化しており、ジェンダー不平等社会の一翼を担っています。結局、自分で自分の首を絞めているのです。

「高嶺の花」は男の幻想である


そもそも、「高嶺の花」という概念自体が、男社会の作り上げたファンタジーではないでしょうか? 女性嫌悪・同性愛嫌悪を伴うホモソーシャルな男性のコミュニティでは、若い頃から「顔面偏差値」等の尺度で女性を勝手にランキング・序列化・格付けすることが少なくありません。

女性同士はフラットな関係でいても、男性たちからそのような「ピラミッド型の視点」の価値基準が加えられ、一部の人気のある女性が勝手に「高嶺」に据えられるわけです。また、少年漫画等でも、そのような視点でトロフィーとして描かれたヒロインを主人公が成功を収めて“手に入れる”作品も少なくないですが、そのようなファンタジーが、「高嶺の花」という幻想を強化していると思います。

確かに外見が社会的に美形とされる女性であれば、男性から人気が出るのも分かりますが、あくまでそれは「需要が多いか少ないか」という話であって、需要の多い人が少ない人よりも優れているという、「地位が上か下か」という話では一切ありません。彼等は勝手に女性に対しても男社会のピラミッドスキームを適用し、序列化して、「高嶺の花」の幻想を作り上げ、勝手に自分の地位の低さに絶望しているに過ぎないのです。

そして、人を上下という視点で捉えてしまったら、上にはいくらでも上がいます。ですから、たとえ上だと思う相手とパートナー関係を持ったとしても、いつまでも非モテコンプレックスで苦しむことになるのです。そんな「終わりなき非モテのラットレース」にハマってしまっているわけです。

石原さとみさんの交際報道に発狂する「東京タラレバおじさん」たち


人気があるから好きになる日本人


また、正確な文化比較をしたわけではなく、あくまで感覚でしかないのですが、高い格付けをした女性を「高嶺の花」に仕立て上げる現象は、日本社会においてより強く起こっているような気がします。

というのも、この国は「行列待ちをしているお店だから美味しい」「食べログの点数が高いお店だから良い店」と考えてしまう人が多い国です。「人気があるから良い女」と考える人がたくさんいてもおかしくありません。つまり、好きな顔だから好きというよりも、皆からの需要があるから好きになっている人も多いのではないでしょうか?

その結果として、「あなたはどういう顔やどのような体型に美しさを感じ、石原さんのどういうところがそれに合致しているのか?」と問われて、しっかりと答えられる男性は少ないように思うのです。
おそらく彼等の持つ女性の外見に対する美的基準は、そこまで明確なものではないのだろうと思うのです。


前田氏を祝福ではなく称賛する“ホモソ”たち


最後に、今回の件で前田さんをプラス評価したビジネス界隈の人たちの言動も酷いものが多いように感じました。

というのも、石原さんとの仲睦まじい姿を見せた彼を「祝福する」のならとてもよく分かりますが、石原さとみさんという超大物女優を“勝ち取った”ことを「称賛する」言動が非常に多く目立ったのです。

おそらく彼等もまた、女性のことを「男性が仕事で頑張って成功したことに対する報酬=モノ」として捉えており、石原さんのことも「究極のトロフィーワイフ」としか捉えていないから称賛という言い方になったのでしょう。まるで、敵の大将の首を落とした英雄を称えるかのようで、まさにホモソノリ(女性嫌悪と同性愛嫌悪の男性同士の奇妙な連帯意識)だと言えます。

カースト構造恋愛から等身大の恋愛を楽しむ社会に


以上のように、石原さんと前田さんの熱愛報道に関するインターネット上における様々な反応を分析してきましたが、やはり女性を一人の人間として捉えないような女性蔑視的な恋愛観を持つ日本人男性はまだまだ多く、未熟だと言わざるを得ないことがここからも分かったと思います。

でも、未熟な恋愛文化は指摘したように、いつまでも本当に人と人が繋がる幸福にはたどり着けないのは明白です。そして、恋愛とカースト構造が強く結び付いた未熟な恋愛文化で一喜一憂する大人たちを見て、若者たちが「自分たちはカースト構造に絡め取られたくないから恋愛自体しないほうがマシ」と考えるようになっていることも留意するべきでしょう。

人と人の心の結び付きを大切にする「アムール」を学んで、等身大の恋愛を楽しむ方向にシフトすることを社会問題として真剣に考える時がきていると思います。
(勝部元気)
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