ブロックチェーンやAIに注目が集まり優秀なエンジニア獲得に各社が動くなか、気になる人材募集を行っている企業を見つけた。明治30年創業の老舗出版社・実業之日本社だ。
同社のイメージは作家・池井戸潤氏の小説や「月刊美術」といった紙の雑誌、また「静かなるドン」や「ストロベリーナイト」といった青年・大人向けコミック。ガイドブックや子ども向けメディアミックス作品の「ねこねこ日本史」も人気だが、AI・データサイエンス・ブロックチェーンといった技術分野に進出するイメージが得られず、またそれぞれの専門職種を高給で募集するイメージも湧かなかった。
さらに同社ではそうしたエンジニアの募集の中で「情報通信業」という業態への転換もほのめかしている。
同社の狙いは何か、またどのような人材を獲得したいと考えているのか。代表取締役社長の岩野裕一氏にこれからの成長戦略とエンジニアの活用についてお話を伺った。
個人で情報発信できる時代の出版社のビジョン
――リクルートページでは「『製造業』から『情報通信業』に脱皮」と書かれていました。将来的な事業スタイルを見据えての人材募集と考えましたが、老舗出版社がどのようなお考えで何を目指されての募集なのかをご教示いただけますでしょうか?
岩野氏:老舗企業の社長としては、バトンを次世代にきちんと託す、ということは大切に考えなければならないことの一つです。しかし、ご存じの通り出版業界は現在、とても追い込まれており極めて深刻な状態にあります。情報を得るために本・雑誌を読む時間は減って、ネットを活用している時代ですよね。戦後のある時代までは情報を独占できていた時代があったのですがそうではなくなってきています。
出版社の強みとは何なのか。それは情報を「持っている」ことではなく「流通させてお金に換えることができる」ことだと思っています。
インターネットが普及する前は、個人で情報発信するのには大きな壁がありました。有名になれば新聞やテレビに出られますが、そうでなければ出版社に依存していたのです。それが今は、ブログなどで簡単に情報発信ができます。
コンテンツが一人歩きできる時代です。個々人が情報発信をできる中で、私たちが何をできるのか。
紙に限らずありとあらゆる手段で情報を読者に届け、そして換金する。キャッシュポイント(収入源)をたくさん持った上でコンテンツを送り届けること。それがこれからの私たちの強みになるのです。
――コンテンツプロバイダーのような存在ですか?
岩野氏:少し違いますね。コンテンツプロバイダーになれるほどの規模ではなく、エージェントのような規模感と捉えています。
今、自分の作品をより広げてくれる存在に預ける。そういう著作物をお預かりして展開していくのがこれからの出版社ということです。
AIエンジニア・データサイエンティスト・ブロックチェーンエンジニアをどう活用?
――中長期的にAIエンジニア・データサイエンティスト・ブロックチェーン関連エンジニアをどのように活かしていきたいのでしょうか?
岩野氏:まず背景として、とにかく世の中の技術革新は猛烈なスピードで進んでいます。一方、出版業の形態はほぼ明治から大正時代に固まったシステムです。編集作業や本を作る作業がデジタル化されていても、最後は職人がインクの色を調整しているようなアナログの世界です。個々のツールはデジタル化されているものの、「第4次産業革命」とは無縁に進められた業界が出版社と言っても良いでしょう。
世の中から良く言われていない「再販制度(再販売価格維持制度)」がなぜあるかといえば、例えば流通の充実している地域と充実していない地域で同じ情報を得るのに格差があってはいけない、という社会的保護が一つあります。とはいえ、その弊害として返品の問題が出てきています。
返品にも複数の問題があり、一つは編集者が良いと思って作るものと読者が必要とするものがマッチしているかという企画の精度の問題。そして大切なのが「本当にほしい人に届いているのか」という問題です。ネット通販店では在庫が切れているのに書店では7割残っている、ということもあるのです。
この二つの精度を上げるために、これまでの勘と経験に依存していた出版業界は成り立たないとすれば、ビッグデータを解析しAIで予測することで読者が望んでいることをつかむ。こうしたテクノロジーを出版業に結びつけないと生き残れないと思っているんです。
――とはいえとても高額な募集です。
岩野氏:弊社だけの規模で言うと確かに高額な募集になります。
もちろん、出版社として必要な技術だからこそ募集をしています。近頃話題になった海賊版マンガサイトの問題でも、デジタルデータに著作権のキーを紐付けできるようになっていれば業界の管理レベルは向上するでしょう。ブロックチェーンと著作権を結びつけてビジネスができるようになれば、弊社だけということではなく業界全体で著作権が適切に管理できるようになると思うのです。
また、ブロックチェーン技術は著作権だけでなく、本物・偽物の診断にも使えるのではないかという期待もあります。アートで問題になるのは贋作ですし、デジタルの世界ではさらに判別が難しくなります。デジタルの美術品では本物であるという証明を作品中に記録できていれば良いですし、アナログの美術品についてはデジタル化したときの登記所を作るような発展も考えられます。
デジタルアートで「今この作品の本物は誰が所有している」ということが分かるようになります。こういった登録を、美術だけでなくマンガやアニメなどでも利用できないかと考えているんです。
――データサイエンティストについてはいかがですか?
岩野氏:弊社で昔から作っているものに旅行のガイドブックがありますが、これも今「不要論」が出てくるほど売り上げは下がってきています。現代はInstagramのようなSNSでその場所の今を伝えられますよね。
とはいえ、海外から来られる方のために、海外の出版社に翻訳権を渡して出版しているというものもあります。
そういった書籍に向けて、海外の方が日本の地域のどういったところを、いま見たがっているかを知っておきたいのです。そのためにはWebやSNSで拡散されている日本の地域情報を調べるのですが、クロールするだけなら今でもできます。しかし、それを分析してマーケティングにつなげるためにはデータサイエンティストが必要になります。そういった領域などで活躍していただきたいと考えています。
出版業界が生き残れるエコシステム構築を目指す
――TPP(環太平洋パートナーシップ)の影響で著作権周りのルールも変わろうとしています。出版業界のこれからと御社の役割をどのように考えていますか?
岩野氏:今でこそ叩かれている出版取り次ぎのシステムですが、当初、あのシステムを構築したのが弊社だったんですね。その仕組みで100年以上出版業界は続いてきました。
これからの100年、ミクロで言えば弊社、マクロで言えば出版業界が生き残れるエコシステムの構築にチャレンジしています。
他の業態と同様、出版も大きくはM&Aで大きな企業にまとまるか、インディーズのようになっていくかという流れにあります。
私どものような中規模のところは他と同じことをしているだけでは生き残れません。今回募集しているような技術を中核技術とすることができれば、一緒に仕事をしましょうという企業も出てきますし、その技術がビジネスパッケージ化できれば、さまざまな出版社に活用してもらえる可能性も出てきます。
書籍を管理する倉庫スペースを、ある出版社が他の出版社に提供するというケースはこれまでにもありました。ビッグデータやブロックチェーンは実業之日本社が音頭を取っていければよいと考えています。
現代は出版社以外のさまざまな企業がデジタルコンテンツを制作しています。それをもっとも届けたい相手に届けられるようにするために活用する技術になってほしいと考えています。
現在の危機感と将来の期待感を持たせた採用戦略
AIやブロックチェーンエンジニアの募集というきっかけから老舗出版社のこれまでの歩みと現在の課題、将来の展望までをうかがうことができた。
読みたい人に本を届けるという書籍販売の根本の見直しからデジタルコンテンツの権利を守ることまで、出版社が抱える課題が山積の中、それらの解決だけではなく、世の中にあふれるデジタルコンテンツの保護にまで視野を広げた同社の視点に基づいた採用計画であることが分かった。
同社によればそれぞれの職種の応募者もいるものの採用に至った人材はまだ誕生していないそうだが、業界では話題になっているとのこと。
デジタル化の波に飲み込まれないために老舗出版社が打った「次の一手」は社会にどのような変革を起こすのだろうか?
(奥野大児)