常勝軍団の中心で、類まれなリーダーシップを発揮してチームを牽引したのが石毛宏典だ。なぜ長年にわたって自我が強いプロの選手たちを束ねることができたのか。石毛宏典という男の素顔の一端を知るべく、幼少期の出来事や環境などについて語ってもらった。
11人家族で暮らしていた幼少期
千葉県旭市の農家で生まれ育った石毛は、当時をこう振り返る。「親父、お袋、3つ上の兄貴、自分の4人に加え、曾祖父がいたり、親父の兄弟が多かったりもして、11人家族で住んでいたんです。昔の農家は屋号で呼ばれることが一般的で、うちの屋号は源左衛門(げんざえもん)でした。周囲からは『源左衛門の次男坊』と呼ばれるわけです。
当時はほとんどが手作業で、肥溜め(こえだめ)から肥料を担いで田んぼや畑に撒いていました。暑い時期も田畑に手伝いに行っていましたし、曾祖父が五右衛門風呂に入るために薪を割ったりもしていました。そういったことが自分の日々の仕事だったんです」
いわゆる一般的な家族のように過ごした記憶がないと石毛は言う。
「学校から家に帰っても、家族みんなが野良仕事に出ていて誰もいませんでした。家には田んぼを耕すウシのほか、ブタやイヌもいましたし、シャモやハト、ウサギなんかも飼っていましたね。家族で旅行へ行ったり、お小遣いをもらってどこかに買い物に行くなんてことはありえなかったですね。
小学6年生くらいまでは大体そのような生活でしたし、周囲の家庭も似た感じだったので、貧乏という意識は誰も持っていませんでした。世の中の暮らしはこういうもんだって、みんなが思っているわけです。電車やバスに乗るわけでもなく、リヤカーや耕運機に乗っていましたから(笑)」
小学生の時点で身体能力は高かった
農作業の手伝いに明け暮れる日々の中、石毛の身体能力の高さが徐々に周囲に知れ渡るようになる。「銚子市、旭市、匝瑳市、飯岡町、海上町、東庄町の生徒が参加する陸上競技大会があって、4年生から出るようになったんです。体は大きくなかったのですが、4年生から6年生の時まで100メートル走で負けたことはなかったですね。運動神経はそこそこ良かったと思います。
5年生の時に担任の先生から『ソフトボールをやってみれば?』と勧められたりもしましたが、兄貴の影響で4年生の時から少年野球を始めていたんです。当時はピッチャーをやるのは大体ガキ大将と決まっていて、自分はずっと兄貴からキャッチャーをやらされていましたね。それが野球を始めたきっかけです。
担任も校庭で野球を教えてくれたりしましたね。自分たちはやんちゃだったので、花壇をグチャグチャにしてしまったりして、校長先生に怒られるわけです。担任が『許してやってください』と間に入ってくれて。和やかな環境で育てられたと思いますよ」
「早い時間に家に帰りたくないから」野球部に入部
小学生時代は毎日野良仕事を手伝っていた石毛だが、中学校への入学が近づくと、「野良仕事はもうやらなくてもいい」と家族から言われていたという。ただ、「家事を手伝わされるから、早い時間には家に帰りたくない」と考えていたという石毛。
「一番遅い時間まで練習していたのが野球部だったんです。足が速かったので周囲からは陸上部に入るんじゃないかって言われていたらしいのですが、自分は野球部一択でしたね。家に帰る時間も必然的に遅くなりますから。ただ、当時の野球部は、まぁガラが悪いっていうのかな。自分が住んでいた旭は海っぺりでガラの悪い地域ではあるのですが、練習が終わると正座させられて、ぶん殴られたり……。1年生の時はそういうことが日常茶飯事でしたね。
試合に出るようになったのは2年生になってからでした。自分がいた旭二中は東総地区でそこそこ強かったのですが、それよりも強かったのが銚子四中や銚子五中でした。ちなみに、1つ年下の篠塚和典(元巨人)がいたのが銚子一中だったかな。あと、その後に銚子商で篠塚と一緒に甲子園で優勝することになる、エースの土屋正勝(元中日、ロッテ)が旭一中にいたんです。一中とは頻繁に練習試合をしていましたね」
中卒で大工を目指すも、担任から進学を勧められ…
きっかけは何であれ、小学校、中学校と野球を続けてきた石毛。中学校卒業後は大工を目指していたという。
「中学校を卒業したら、高校には進学せず大工になろうと思っていたんです。そうしたら、野球部の監督であり担任でもあった先生が『高校へ行って野球をやれ』と。自分たちが束になってかかってもかなわないような体格だったので、どうも逆らいにくかったのですが、それでも『嫌です』って言いました。ただ、再度『いいから、高校へ行って野球をやるんだ』と押し切られてしまいましたね」
石毛の能力が、いかに周囲から高く評価されていたかの証左である。幼少期に携わった野良仕事の日々も無関係ではない。
「草をむしる、鎌で何かを切る、斧で薪を割る。幼い頃から野良仕事をやらされてきたことで、体が自然と疲れにくい身のこなしを覚えたんでしょうね。あと、バッティングでは“てこの原理”(小さな力で大きな力を生み出すための原理)が重要ですが、そういった効率の良い腕の使い方にも活かされていたと思います。
耕運機に乗れば揺れるし、田んぼの畦道もボコボコしていて足をとられそうになりますし……。足首の強さや粘り、平衡感覚みたいなものは、田舎の環境が作ってくれたような気がしますね。体全体のバランスをとるための筋力や神経が養われたというか、農作業から得たことは多いと思います。農繁期なんかは、学校側から『今日は学校を休んで田植えへ行ってこい』と言われるような環境でしたから」
家庭環境が不安定でもグレなかった
リーダーの素地が備わっていたことを思わせる、こんなエピソードもある。
「何の時だったのかは覚えていませんが、小学生の時に担任から『おい石毛、仕切ってくれ』なんてことを言われることもけっこうありました。運動会なんかでは、『よーいドンっ!』と合図を出す係も任されていましたし、勉強に関してはそんなにできませんでしたが、スポーツに関しては石毛、みたいに思われていたのかもしれません。
『生徒会長をやってくれ』と頼まれたこともありました。忙しくなるのが嫌だったので、『副会長であればやってもいいですよ』と答えたら、『じゃあ、副会長をやってくれ』と。会長と違ってやることはあまりなかったですね(笑)」
石毛は今年(2026年9月)で70歳を迎えるが、年齢を微塵も感じさせないほど、いつもエネルギッシュだ。また、自身の性格を「あっさり」「さっぱり」と表現し、良くないことがあっても、あまりくよくよしないタイプだという。
「お袋は家事のほかに野良仕事もしていて、尚且つ舅、姑との問題も抱えていたんです。涙を流している姿をけっこう目にすることもありました。自分が6年生の時だったでしょうか。お袋から『もう帰るぞ』と手を引っ張られ、月夜の灯りの中、飯岡にあるお袋の実家まで幾度となく行くことがありましたね。住んでいた旭から15キロくらいあって遠いので、『またか……』と子供ながらに思っていました。親父とお袋が離婚するかどうかっていう問題だったのですが、当時はそういう問題が起こっていたことを知る由もありませんでした。
学校にもお袋の実家から通う時期がけっこう続きましたね。ただ、家庭環境が不安定な状況でも自分はグレるようなことはなかったんです。性格的にも、あまり物事を深刻にとらえるタイプではなかったのかもしれません」
西武黄金期を牽引した類まれなリーダーシップ、走攻守で発揮した抜群の運動能力。これらは生まれながらに備わっていた部分だけではなく、石毛が過ごした幼少期の環境や周囲の大人たちによって育まれ、また導かれた部分も、多分にあたったのだろう。「野球を続けていこうとか、プロ野球選手になるんだと思ったことは一度もない」という石毛が、球史に燦然と輝くチームのリーダーだったのだから面白い。人生とは、わからないものだ。
<取材・文/浜田哲男>
【浜田哲男】
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界を経て起業。「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ・ニュース系メディアで連載企画・編集・取材・執筆に携わる。X(旧Twitter):@buhinton
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