Amazon Prime Videoで毎話24:00頃から配信予定。

原作と違うことで描かれた家族愛
「ばんもんの巻」は原作でも重要な回。
アニメ化に際して演出やストーリーで、かなり大きな部分が変更されている。
国境を超えることで死者が出た「ばんもん」は、原作では連載当時のベルリンの壁や板門店の風刺要素が強い。どろろと友達になった子供の助六が、遊びから帰ろうとしたら2つの国の問題で壁ができて、戻ることができなくなった……というのは現実のベルリンの壁であったエピソード。
ばんもんの前では、多宝丸と百鬼丸の一騎打ちが行われる。
もっとも原作の多宝丸は出番があまりない。「口が悪い、領主の後継ぎ、百鬼丸の弟」程度の記号的なキャラクターだった。むしろ2人の争いを知って大慌てする父・醍醐景光の姿の方が、人間味があって印象的。
漫画でインパクトが強いのは、助六が他の民衆と共に矢で射殺されるシーンだ。原作で指示を出しているのは多宝丸(朝倉の人間を、醍醐側が殺している構図。アニメでは逆)。
助六の家は焼かれ、両親ともに殺されている。
百鬼丸はというと、民衆を射殺していた兵士たちを、割とあっさりと皆殺しにしている。
アニメでは「家族愛」に焦点を定めるため、戦争の悲劇の表現は軽めになった。射殺シーンはちゃんと残っているが、助六が生き残っている。
しかも助六は、隠れて必死に生き残っていた母親や村の人々と、最後に再会している。
とても幸せそうな場面だが、どろろが一瞬たじろぐ。
どろろ「助六たちは、アニキが鬼神に身体を食わせてるから……」
愛を受けられず、生まれぞこないの鬼子と父に言われ、家族から敵認定された、百鬼丸の立場との対比になっている。
ここで助六たちの家族像を描いておかないと、百鬼丸は「幸せな家族」の姿を知らないままになってしまっただろう。
一応百鬼丸も、ミオやさるたちのように、身を寄せ合い共に生きる疑似家族には出会っている。
血縁ではないどろろだけが、百鬼丸に「おいらがついてる」というのも、百鬼丸の感情が育つ上で今後重要になって来そうだ。
殺さないことを願うどろろ
百鬼丸が誰一人殺さなかったのも、アニメでの大きな変化だ。
原作では割と全編を通してザクザク殺している百鬼丸。アニメ版では実際に斬り殺したのは、六話でミオや子どもたちを蹂躙した兵士だけ。
今回ミオ達を殺戮した兵の生き残りが再登場する。
とても嫌味な行動をとるキャラクターだ。百鬼丸はミオ絡みになると理性を失って激昂するため、彼を殺す寸前だった。
どろろ「ダメだって! あにきは鬼じゃねぇ!」
何があろうと百鬼丸に人を殺してほしくない、と強く願うのはどろろ。ここも感情的なキャラクターとして描かれる原作と大きく違うところだ。
アニメのどろろは「魂次第で人も鬼になりうる」という理を感じ取っている人物。
百鬼丸はまだ幼児のような価値観なので、怒れば殺す、身体を取り返すために殺す、くらいの本能的な感覚で妖怪を斬ってきた。
彼はどろろと旅をする中で、何があっても人を斬ってはいけない、友好的な妖怪は斬らない、と学習している。
アニメ版が描くのは、善悪の判断や、妖怪への勝利ではない。簡単に死ぬ理不尽な世界の中でどろろが踏ん張るように、「がむしゃらに生き抜く」「刃をみだりに振らない」と心に決める、人間たちの姿だ。
多宝丸が背負うもの
ネット上での多宝丸人気が、うなぎのぼり中。
まだ15歳。
今回の彼の決断は、リスク・リターンを考えた冷静なものだ。
「父上がしたこと、私は正しいとは思いません」
「しかし、そこまでしても守らなければならぬのが国! 兄上、いま鬼神との約定を反故にすれば、国は滅びます」
「今や国を脅かす兄上こそ、この国にとっての鬼神!」
多宝丸は、人間の倫理的な問題も、国を守ることも、両方背負った上で兄を討つ決断をした。
今、醍醐の国は飢饉も水害も無い、豊かな土地になっている。町に娯楽まであるのにはびっくり。
百鬼丸1人が生贄になったことでそれが守られていたのだとしたら、対価としてはむしろ軽すぎるようにも見えてしまう。百鬼丸が鬼神を倒すほどに、土地は荒廃していき、多くの民の生命が奪われるなら、こればかりは多宝丸の選択を責められない。
原作では百鬼丸が多宝丸を斬り殺してしまっている。
しかしアニメでは戦闘中に妖怪が出てきてしまったため、それどころじゃないと百鬼丸が多宝丸の右目だけ斬って離脱している。
これによって、原作で右目を閉じ続けていた(理由は不明)多宝丸の姿が、再現されることになる。
おっかちゃんあんまりだ
百鬼丸と多宝丸の母、醍醐景光の妻、縫の方。
彼女の決断も、多宝丸とほぼ近い。
「百鬼丸、さぞ恨みに思うでしょう」
「わたくしは、そなたを救えませぬ!」
「我が国はそなたに許しを請うしかありませぬ。我が国は、修羅となってそなたを喰らい続けるのみ!」
縫の方は、百鬼丸を生んだ後ずっと首なし菩薩に祈り続けており、精神的な消耗が尋常ではなかった。
今回「百鬼丸を救えば国が滅びる」という天秤を悟った結果、彼女が選択したのは「自分も死ぬ」という最悪のもの。生命の釣り合いという意味では理解はできるが、それが確約されるでもなし。全く解決策になっていない。
ネットでは、彼女が限界まで苦しんだ16年への同情はありつつも「多宝丸のこと無視しすぎでは?」という疑問が多数あった。
多宝丸は、間違いなく両親に愛されていた。しかし母の中の優先度は、常に百鬼丸の方が上。自分のことを見てくれない母、という印象が多宝丸視点だとどうしても残る。
今回は百鬼丸と多宝丸の戦いで、多宝丸が右目を斬られている。大惨事だ。
なのに母親は全く多宝丸を見ず、狂乱状態で百鬼丸に許しを請い、自害する。
積年のものがあるのは大いにわかるが、流石にあんまりだ。自害するほどなら、せめて一声かけてあげられなかったのか、と感じてしまう。
今まで彼女が兄への意識を優先していた描写があるからなおのこと。
11話では、生まれた百鬼丸の姿を見て狂った女性(オリジナルキャラ)が登場している。道端で石を抱いてあやす様子は、町の人全てが避けて通るほど鬼気迫るものがある。
見た目は異なり穏やかそうだが、縫の方もほぼ変わらない精神状態だ。多宝丸に思いがいかなかったのが仕方ないくらいに、心を病んでいたのだろう。
そんな中領主の後継ぎとしてしっかり育ち、母と父を愛し、父の行いの誤りを理解した上で、民のため覚悟を決めるまでになった多宝丸。
強い信念を持って育った彼は、どろろ、百鬼丸と並ぶ、この作品の主人公の1人になってきた。
気になるのは、醍醐景光も多宝丸も縫の方も、皆の前で鬼神の話をばらしている所。
もしみんなが聞いていたとしたら、醍醐の国全てが百鬼丸を災厄として忌避することになってしまいそうだ。
(たまごまご)