バックナンバーはこちらから
なあ、みんな。たけのこの里ときのこの山で戦争している場合じゃないぜ。
たけのこの里ときのこの山で恋愛小説を書いちゃう新人が現れたんだ。
名前は佐々木愛という。
デビュー作は2016年に第96回オール讀物新人賞を獲った「ひどい句点」で、その翌年くらいから、まだ本は出てないけどとてもいい短篇を書く新人がいるな、と思って私はこっそり注目していた。「小説推理」2017年7月号に載った「胸は育たない」だとか。いつか絶対にすごい小説を書くぞ、と思って見ていたら、本当に書いたのである。
それが初の単行本『プルースト効果の実験と結果』の表題作だ。雑誌掲載は「オール讀物」2018年10月号だった。読んで興奮し、この年に出た恋愛小説の短篇ではベストじゃないかと思った。切ないほどに一途で、でも世間知らずだから大事なところがすっぽり抜けていて危なっかしくもあって。そんな十代女子の心の動きを、少しだけ未来に行った作者の視点から綴っていく。ひさしぶりに取り出した卒業アルバムを眺めているときのように、現在の時が停まって過去がよみがえってくる。そういう小説だった。
マドレーヌの代わりにたけのこの里ときのこの山
プルースト効果というのは、マルセル・プルーストが著した『失われた時を求めて』に由来する言葉だ。あの小説の主人公は、紅茶にマドレーヌを浸すと、その香りに導かれるようにして幼年時のことを思い出す。それにちなんで、特定の香りが過去の記憶を呼び出す現象のことを、プルースト効果と呼ぶのである。佐々木愛が造ったわけではなく、以前からある用語だ。千昌夫が味噌汁を飲むとおっかさんのことを思い出したりするのもたぶん同じ。
で、そのプルースト効果をひそかに実践している人物が、主人公〈わたし〉こと長田のクラスにはいたのである。小川さん。歯並びがよくて、めがねがよく似合う。〈わたし〉は最初「小川くん」と呼んでいたけど、なぜか「さん付け」で呼ばれるオーラがあり、ほかの女子からの呼ばれ方も「小川さん」であると分かったので、それに倣うことにした。その小川さん、高校三年生になって初めて同じクラスになった小川さんだ。
彼は、受験勉強をはじめる前に必ずたけのこの里を食べるのだという。プルースト効果の実験のためである。そうやって受験知識がお菓子の味や香りと関連づけられれば、いざ本番という時に効果が見込めるであろう。試験の前にたけのこの里を食べて、記憶を呼び覚ますのである。〈わたし〉はその理論に賛同し、きのこの山で自分も実験に参加する、と表明する。かくして、図書館で勉強を始める前には、飲食禁止の規則をこっそり破ってお菓子を口にするのが二人だけの秘密となった。
スーパーマーケットにおいて「たけのこの里ときのこの山は、ほぼ100%隣にならんでいる」と小川さんは断言する。二人はそれと同じようなペアになる。すぐ近くにいる小川さんを観察する〈わたし〉の眼の細かさが読者に何事かを物語るだろう。きのこの山を含んだ後で口の中にずっと残るお菓子の甘さが、何かを暗示させるだろう。佐々木はさまざまなシグナルを出しながら主人公の心の動きを追っていく。
図書館司書のマサコさんは、プルースト効果の説明を受けて図書館でお菓子を食べていたことを見逃してくれる。そのお礼に渡したたけのこの里ときのこの山をマサコさんがティッシュペーパーに載せて持っていくのを、溶けてしまうのではないか、と心配する〈わたし〉に小川さんは言う。
「たけのこの里ときのこの山が一緒に溶けてひとつのチョコレートになったら、もっとおいしくなると思うよ」と。
夏休み、小川さんは東京へ出かけていった。第一志望校のオープンキャンパスに参加するためだ。帰ってきた彼は〈わたし〉にふたをした小さなガラス瓶を手渡す。中には東京の空気が入っているのだという。
───「東京のどこの空気?」と聞くと、しぶってなかなか教えてくれなかったが、やがて、「もちろん、長田さんの志望校の正門前だよ」
と照れくさそうに言った。「だからお守りにもなると思うよ」
誰かが小川さんのこういうところを笑うだろうということは分かる。でも、わたしは笑えなかった。どちらかと言えば、泣きそうになるのだ。
佐々木愛はたけのこの里ときのこの山をスタンダード・ナンバーにした
この小説を支えているものは上にも書いたように〈わたし〉の視線を用いてくっきりと描き出される細部と、さりげないフラッシュフォワード、すなわち浮かび上がる未来の図像だ。題名が「実験と結果」であることからも判るように、語り手はこの高校生活の行く手を知っているのである。
忘れられない一言がある。司書のマサコさんが二人に行く台詞だ。
「二人がわたしをとても年上だと感じているように、先のことは遠くに見えるだろうけど、わたしが二人のことを、まるで自分を見ているみたいに親しく感じるように、過ぎたことは、いつでもすぐ近くに感じるのよ。これからは過去がどんどん増えていくから、近くにあるものが増えていくのよ」
これもフラッシュフォワード。これまでに書かれた佐々木愛の小説はここに本質があると思う。過ぎていく時間の中で気づかないことは未来の視点からは当たり前のように発見できてしまう。現在進行形のもどかしさと過去形の懐かしさが交錯し、その両方を往復することで生まれる感慨が読者の心を満たしていく。
おっと、表題作の話だけでこんなに書いてしまった。全4篇が収録されていて、どれも素敵なのでぜひ読んでもらいたい。上に書いたデビュー作の「ひどい句点」も入っている。他の3篇より主人公の年齢が少し上で、就職活動をする女性の視点で書かれている。「句点」の意味するものが何かというのがたいへんおもしろいのだが、もちろん書かない。「プルースト効果の実験と効果」では隠喩に留められていたことがこちらでは直接的に表現されている、とだけ書いておこう。残念ながら「胸は育たない」は入っていない。次に期待。
「春は未完」は小説を書くことについての小説で、やはり恋愛小説になっているところがおもしろい。「楽譜が読めない」は共学の教室のがやがやとした感じ、女子が男子を、男子は女子を意識しながら馬鹿話をしている雰囲気を思い浮かべながら読むと楽しい。実はサザンオールスターズの桑田佳祐に関する小説だったりもする。
桑田といえば、サザンオールスターズの歌詞集『ただの歌詞じゃねえかこんなもん』の新潮文庫初版に村上龍が解説を寄稿し、映画『アメリカン・グラフィティ』でふんだんにポップスが劇中曲で使われているのを観て、日本にもこういう風に流せる曲があったらいいなと羨ましく感じていたが、サザンの「いとしのエリー」を聴いてこれだと思った、という意味のことを書いていた。本が手元にないものでおぼろげな記憶で恐縮だが、サザンは日本のポップスが獲得した初のスタンダード・ナンバーだとも。それと同じことを佐々木は「プルースト効果の実験と結果」でやったのだと思う。たけのこの里ときのこの山をスタンダード・ナンバーにした。あのお菓子を恋のシンボルにしてしまったのだ。
※おまけ動画もご覧ください。こちらでは「プルースト効果の実験と結果」のような素敵な短篇を探す旅を続けていこうと思います。
(杉江松恋 タイトルデザイン/まつもとりえこ)
「こちらのタイトルは絶賛募集中です」