締め切り間際、2時間で仕上げた大会マーク
場所がバーだったことなど、一部脚色はあったものの、これはほぼ実話である。コンペの締め切りは1960年6月10日で、指名されたほかのデザイナー(河野鷹思、杉浦康平、田中一光、永井一正、稲垣行一郎)の作品は3点ずつ届いていたが、亀倉のだけ来ていなかった。審査が行なわれるのは午後1時から。亀倉は自ら設立した日本デザインセンターのオフィスで、事務局から電話を受けて慌てた。だが、すでにある程度はプランができあがっており、わずか2時間で仕上げて提出したという。亀倉案は、会議室に届くと同時に満場一致で選ばれた(日経デザイン編『てんとう虫は舞いおりた 昭和のデザイン〈エポック編〉』日経BP社)。ちなみにオリンピックで開催地が独自にシンボルマークをつくったのはこれが最初とされ、以後の大会でも設けられるようになった。
亀倉がオリンピックのデザイン顧問を依頼されて断ったというのも事実である。彼はあくまでデザイナーであり、デザインを選ぶ側よりも、選ばれる側で実作業に携わりたかったのだ。そこで顧問としてデザイン評論家の勝美勝を推薦する(野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』小学館eBooks)。こうして組織委員会の事務局内にデザイン懇話会が設置され、勝美が座長となって、オリンピックにかかわるあらゆるデザインが選定されることになった。
そもそも亀倉がデザイン顧問を依頼されたのは、これまたドラマで描かれていたとおり、オリンピックの東京開催が決まった1959年のミュンヘン(西ドイツ)でのIOC(国際オリンピック委員会)総会にてプレゼンテーション用の英文パンフレットの装丁を手がけたのがきっかけだった。ただし依頼したのは、田畑ではなく、旧皇族でJOC(日本オリンピック委員会)の常任委員だった竹田恒徳(つねよし)だ。竹田が銀座のバーで装丁を頼んだとき、総会まで約1カ月しかなかった。しかもパンフレットの印刷は木更津の印刷所にたった1万円で発注したもので、貧弱きわまりない出来だったという。それを亀倉は、本革の表紙をつけて金文字で箔押しし、どうにか立派なものに仕立て上げた。竹田はミュンヘンから帰国すると、「カメさんの表紙がよかった」と相好を崩し、その後も東京オリンピックのデザイン計画や監督人事などを相談しにくるようになる(『TOKYOオリンピック物語』)。デザイン顧問の依頼もそのなかで出たものだった。ちなみにこの竹田の三男が、前JOC会長の竹田恒和である。
デザイン料はわずか5万円
亀倉による大会シンボルマークは、そのままB全(1030×1456ミリ)の大きさに拡大して公式ポスターの第1号にもなった。東京ではあちこちのビルに掲げられ、ほかにもメダルやバッジ、絵はがき、貯金箱、タバコのパッケージなどあらゆるものに使われた。さぞデザイン料が入ったことでしょうと亀倉はよく言われたが、実際のところ彼の懐に入ったのは5万円と、当時の貨幣価値からしてもそうとう少ない。
亀倉はマークの赤い丸に、太陽と日の丸と両方の意味を込め、《それで新時代のニッポンを象徴したかった》とのちに書いている(亀倉雄策『デザイン随想 離陸 着陸』美術出版社)。赤い太陽とその下に配した金色の五輪は、接触することなく、ほんのわずか空白をつくった。デザインに緊張感を出すための工夫だという。グラフィックデザイナーの早川良雄は「あの空白がいい」と評価した。《このマークの赤い丸を上へずらすと白地が増えます。すると、日の丸になってしまう。それじゃ国旗です。それじゃダメなんです》というのがその言い分だ(『TOKYOオリンピック物語』)。
だが、世の多くの人はこのマークをやはり日の丸と受け止めた。
赤丸のオリンピックポスターは、大会開催の2年後には、ポーランドのワルシャワで開催された国際ビエンナーレ66展で芸術特別賞も受賞した。このとき日本円にして95万円の賞金がついたものの、当時のポーランドは共産圏だったためか、持ち出すことができなかったという。亀倉はこれについて《だから変な手形をもらったようなものである。日本の税務署もがっかりしたと思うが、私もがっかりした》とまたしてもユーモアたっぷりに記した(『デザイン随想 離陸 着陸』)。そのポーランドの社会主義体制はそれから20年余りして崩壊したが、はたして亀倉は賞金を受け取ることができたのだろうか。(近藤正高)