NHKの大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」先週11月10日放送の第42話では、冒頭、渋滞が慢性化していた東京都心の道路が出てきた。時は1961年6月。
3年後の東京オリンピックの仕事に携わっていたデザイナーの亀倉雄策(前野健太)と建築家の丹下健三(松田龍平)が、渋滞でなかなか進まないタクシーのなかで、オリンピックの聖火リレーのコースを下調べするため「聖火リレー踏査隊」が結成されると話をしていた。それを耳にした運転手がいきなり、踏査隊に参加したいと二人に申し出る。

芸人たちの名演に泣き笑い


角田晃広演じるタクシー運転手は、第1回の冒頭で登場し、古今亭志ん生(ビートたけし)を乗せていたところ、やはり渋滞に巻き込まれた。その後もたびたび登場したが、チョイ役かと思いきや、終盤に来ていきなり「聖火リレー踏査隊」という大役を担うとは驚いた。しかもこの運転手は、森西栄一さんという実在の人物だという。

その森西さん、ギリシャのアテネからシルクロード経由でシンガポールまで2万キロの距離を自動車で走破して帰国すると、髭も伸び放題とボロボロの姿で東京の大会組織委員会に現れた。そして組織委員会の事務総長の田畑政治(阿部サダヲ)と対面するや、途中のタクラマカン砂漠を越えるのに半年かかり、とてもリレーなどできないとブチ切れながら報告。
とどめに、タクラマカンとはウイグル語で「帰れない場所、または死」という意味だと吐き捨てるように伝えた。タクラマカンといえば、東京オリンピック直前に公開された東宝のミュージカル映画「君も出世ができる」では、若き日の高島忠夫がその名も「タクラマカン」という挿入歌をロマンチックに歌っているのだが、まさかタクラマカンにそんな意味があったなんて。

森西さんが田畑の前に現れる場面は、本職のコント師が演じるだけに、やっぱりコントっぽかった(ドラマのスタッフもそれをあきらかに狙ってたと思う)。同じく第42話では、やはりお笑い芸人である徳井義実(チュートリアル)扮する日紡貝塚・女子バレーボールチーム監督の大松博文のシーンもコントのようだった。それは1962年の世界選手権で優勝するべく、すでに婚期を迎えていたキャプテンの河西昌枝(安藤サクラ)にあと2年バレーを続けてもらえるよう、大松が彼女の両親を説得のため訪ねたときのこと。彼は、河西のことを両親に向かって「こいつ」呼ばわりしていたことに気づき、あろうことかいつも呼んでいるあだ名の「ウマ」と言い換えたのだ(悪びれることなく執拗に「ウマ」と言い続けるところは、徳井がM-1グランプリを勝ち取った漫才で「チリンチリン」とひたすら言いまくっていたのをふと思い起こさせた)。
両親もあっけにとられるが、河西からも頭を下げて懇願され、ついに父親(野添義弘)が大松に「こいつの花嫁姿だけは見たい。それだけはお願いします」と条件をつけ承諾する。

その河西はセッターに転向、右でも左でも攻撃できるよう、練習でも普段の生活でも利き手である右手を使うことが禁じられた。ここから劇中では、脳出血で右半身に麻痺が残った志ん生が、外で噺の稽古をしたりしながら、高座復帰に向けリハビリを重ねる様子が描かれる。そんな志ん生を、バイク事故で顔面麻痺の経験を持つたけしが演じているということに感慨を抱かずにはいられない。

ちょうどそのころ、弟子の五りんは、金栗四三(中村勘九郎)と幼少期以来、久々の再会を果たす。
それは四三が自身の伝記『走れ二十五万キロ』の刊行記念で、ハリマヤの店頭でサイン会を行なったときだった。五りんの前には、円谷幸吉(菅原健)という青年がやはり四三と会って感動しながらサインをしてもらっていた。

前出の亀倉雄策はオリンピックのポスター第2号を制作する。今度は短距離のスタートダッシュの瞬間を、何台もカメラとフラッシュを用意して撮影するという大がかりなものであった。果たして、できあがってきたのはじつに迫力あるポスターで、大評判をとる。
「いだてん」まーちゃん「はい、所得倍増!」」立川談春演じる池田首相を落語仕立てで説き伏せる42話
イラスト/まつもとりえこ

選手村をめぐって田畑が大逆転!


そんなふうに史実・創作を織り交ぜながらさまざまなエピソードが描かれるなか、主人公の田畑のまーちゃんは東京オリンピックの準備に奔走するのだが、世間はオリンピックに向けてなかなか盛り上がらない。そのうえ、次々に難題が持ち上がった。


選手村は埼玉県朝霞の米軍キャンプ・ドレイクに決まりかけたが、選手村と競技場は近くなくてはならんという信念から田畑は代々木のワシントンハイツ(米軍関係者の家族が暮らす住宅地)にあくまでこだわった。そこで外交の専門家である平沢和重(星野源)が一計を案じる。折しも日米安全保障条約の改定(いわゆる60年安保)をめぐり、国民の反米感情が高まっていた。それを緩和するためにも、ワシントンハイツの返還は有効だとアメリカ側を説得しようというのだ。平沢は駐日アメリカ大使のライシャワーとも直談判して了解をとりつける。

これで代々木選手村への道筋がついたかに思えたが、新たな壁が立ちふさがる。
何と、米軍はワシントンハイツにある施設の立ち退き料として60億円を日本側に要求してきたのだ。こうなったら政府に支援をあおぐしかない。このため津島が大蔵省の後輩である時の首相・池田勇人(立川談春)を田畑に会わせて交渉の場を設けてはくれたが、池田は「(選手村もプールも)全部朝霞に持って行けば済む話じゃないのかね」と聞き入れず、頼りの津島もちっとも助け舟を出してくれなかった。日米安保条約の改定を実現して総辞職した岸信介のあとを受けて、1960年7月に首相となった池田は、国民の所得を10年で倍にするという「所得倍増計画」をぶち上げながらも、オリンピックに対しては渋ちんであったらしい。

どうしたら国は60億を出してくれるのか。このとき、組織委員会事務局の職員となっていた岩田幸彰(松坂桃李)が田畑に、国の予算が出るのは、国立競技場しかり、オリンピックのあとも使われる施設だと助言する。
だとすれば、代々木にも何か持ってくればいい。それは何か……悩む田畑に、組織委員会の事務局に宿った(?)嘉納治五郎(声・役所広司)が語りかける。1940年の東京オリンピックが戦争で返上されたことをようやく知った嘉納だが、今度の東京オリンピックを国民はどう見ればいいのかと訊ねた。田畑はテレビだと答えると、はたとひらめいた。

田畑はさっそく単独で池田首相と面会し、NHKを代々木に持ってくる提案をする。それでいいことがあるのか? 池田が訊くと、田畑は「カラーテレビが売れます」と答え、滔々と語り出す。メインスタジアムの近くに放送局があれば、鮮明な放送を確実にお茶の間に届けられる。そうなれば白黒テレビよりはカラーテレビで見たくなるもの。皇太子(現・上皇)成婚の際に白黒テレビがバカ売れして莫大な経済効果を生んだ。ここで田畑は落語仕立ての夫婦の会話を織り込んでくる。「今度はオリンピックが来るそうよ、あなた。カラーテレビほしいわあ」「そうだなあ。ボーナスも出るし、買い替えるか」というわけで、今度はカラーテレビがバカ売れとなる。さらにダメ押しで「ねえ、あなた、お隣さんがカラーテレビに買い替えたそうよ。うちもほしいわ、カラーテレビ」「うーん、よし! お父さん頑張って働くぞ!……はい、所得倍増!」とポーズを決める田畑。これには池田も「うまいね、君。乗せられそうだよ」とつい苦笑いしてしまう。何だか阿部サダヲの小噺を、落語家の談春が「うまいね」と言ったようにも見えるが……。

田畑は続けて、カラーテレビはいま1台60万円すると具体的に価格を挙げる。高いように思えるが、これが1万台売れれば60億円の儲けが出る。だから、ワシントンハイツを60億円で買っても、その跡地に放送局をつくれば、カラーテレビが普及し、たった1万台で元が取れてしまう。田畑はそうまくしたてたあと、「買うならいまです。だって、オリンピック終わったあとで放送局つくっても意味ないですからな」「どうです? そんな代々木ワシントンハイツ、いまならたったの60億ですよ」と、まるでテレビショッピングのようにプレゼンを締め、まんまと首相を丸め込んでしまう。

しかし宿敵・川島正次郎も動き出す……


そんな田畑の大逆転を苦々しく見ていたのが、自民党の重鎮・川島正次郎(浅野忠信)だ。川島もまた池田首相と面会すると、「オリンピックは経済成長の起爆剤ですよ」と、オリンピックを政府が利用しない手はないと説く。池田は「政治は不介入が基本ですからな」と言い返すが、川島はなおも「国際舞台で日本の株を上げる。そのためにもしっかりと政府が舵を取るべきだと思うんだなあ」と主張した。こうして首相を抱き込み、川島は新たに設けられたオリンピック担当大臣のポストを得た。1962年春のことだ。就任の記者会見では、カメラを前に田畑・津島・東とにこやかに手を組む。そのあとで、川島は田畑にさも親しげに近寄ると、津島と一緒ではやりづらいだろうと話しかけ、津島ではオリンピックをやり遂げられないと総理も言っているとささやく。彼はまた、その前に東と密談した際、田畑と津島にはオリンピックを任せられないと強い口調で言ったうえで、東から田畑は欠かせないとの言葉を引き出していた。一体、「政界の寝業師」川島は何をたくらんでいるのか。

これまで描かれてきたとおり、直情径行型の田畑は何か思い立ったらすぐ動き、自分の言いたいことをストレートに訴えては、相手の心をつかんで願望を実現に移してきた。これに対し、寝業師の川島は何かを成す場合、まずは相手の隙を突いて態度を探ったうえで、徐々に外堀を埋め、本丸を攻め落とすのが常套手段らしい。戦国武将でたとえるなら、さしづめ田畑が秀吉、川島が家康といったところだろうか。家康が最終的に天下を取ったと考えると、どうも田畑の分が悪いが……。

きょう放送の第43話では、いよいよ川島と田畑の対立が最終局面に入る。関連書で予習したかぎりでは、このあたりの事情はなかなか複雑なのだが、「いだてん」ならきっと面白く描いてくれることでしょう。寄席でオリンピックに関するモノマネを披露していた五りんが、テレビを通じて田畑の目に留まり、岩田に呼びに行かせたあとの展開も気になるところ。

ポスター用の写真を即座に選んだ亀倉雄策


第42話で出てきた、東京オリンピックの第2号ポスターの制作には、アートディレクターを務めた亀倉雄策のほか、多くの人が携わっている。

亀倉は制作にあたって、ポスターに写真を使うことを思いついた。これまで制作されたオリンピックポスターをすべてチェックしたところ、どうも絵描きが片手間に描いてつくったようなものばかりに思えたからだ。そこでリアルに写真を使うことにしたという。

カメラマンには、広告制作会社のライトパブリシティに在籍した早崎治を起用した。早崎は女優やモデルを起用した広告などで実力を発揮していた。スポーツカメラマンではないが、ポスターのサイズにまで引き伸ばしても見るに堪える写真を撮るには、早崎こそふさわしいとして選んだ。亀倉はさらに、自分のイメージを映像として具体化させ、カメラマンに指示するフォトディレクターに、同じくライトパブリシティの村越襄を抜擢した。亀倉は早崎と村越を呼んでミーティングすると、陸上競技のスターターがピストルを撃つその手元を撮る第1案、女子体操の第2案、そして短距離走のスタートダッシュの第3案のなかから、議論の末に第3案を選ぶ。

打ち合わせのあと、亀倉は、「選手が折り重なるように撮ってくれ」と命じた。それも暗黒の空間に選手の姿だけが浮かび上がるというイメージだ。そのために撮影にあたっては、東京中からストロボをかき集めたという。

撮影が行なわれたのは1962年3月31日。その日、国立競技場では昼間から準備を進められ、日が暮れると撮影が始まった。モデルに起用された6名の現役の陸上選手(日本人3名と在日米軍の立川基地に所属する3名)を、メインカメラマンの早崎と、3名のサブカメラマンがそれぞれ違うアングルから狙う。ストロボに直結しているのは早崎のカメラのみ。ほかの3人は、スターターが「よーい」と発声した瞬間、シャッターのボタンを押して開いた「バルブ」の状態にする。この状態だと宵闇のなかでは何も映らない。「ドン」と号砲が鳴り、選手がスタートして一拍置いて早崎がシャッターを切ると、ストロボが同期して光り、3人のカメラにも選手の姿が写るというしくみだ。バルブにしていたカメラは、光った瞬間、押していたボタンから指を放しシャッターを閉じた。

この方法で撮影を続けるうち、スタートトレーニングの限界とされる20回を優に超えてしまった。それというのも、なかなかうまい具合に選手が重なった姿が撮れなかったからだ。そこで何度目かのスタートに際し、早崎と村越はある“演出”を加えることにした。まず、コースの内側にいた選手をスタートラインより1メートルほど前方から走らせ、いわばフライングの状態にする。そして手前の選手には、「低い姿勢のまま走り出してくれ」と注文をつけたのだ。このあともやり直しは続き、結局、30回を超えたところで撮影は終了する。

翌日、現像した100枚ほどのフィルムから、早崎と村越は60枚を選んで、亀倉にチェックしてもらった。亀倉は全体を見渡したあと、あらためて拡大スコープを目に当ててチェックするや、すぐに1枚を選んだという。亀倉がのちに語ったところによれば、《簡単だった。あの一枚しかない。すっと一枚を選らんだ》という(以上、ポスター撮影のくだりは野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』小学館eBooksを参照)。何という眼力。熟練のデザイナーのなせる業だろう。

なお、亀倉雄策は1960年に、原弘や山城隆一らグラフィックデザイナーとともに日本デザインセンターというプロダクションを設立していた。早崎や村越の在籍するライトパブリシティとはいわばライバル関係にあったが、しかしライトの創業者であるグラフィックデザイナーの信田富夫は亀倉とは戦前からの友人であり、またライトからは日本デザインセンターの設立直後に田中一光が移籍するなど、両社のあいだでは盛んにクリエイターが交流していた。当時、ライトの若手だった和田誠は、同じくデザインセンターの若手だった横尾忠則や宇野亜喜良とよく昼食をともにし、互いに会社外部の仕事を依頼することもあったという。亀倉の部下にあたる横尾が、のちのち歴史上の人物として亀倉が登場する大河ドラマのタイトルを担当することになるのだから面白い。

余談ながらライトでは早崎治が写真部のチーフを務めており、そこでは新人は何年か助手として修業したあとでカメラマンに昇格するのが通常だった。それをある年、学生のまま入社した新人が、助手はいやだ、すぐカメラマンにしてほしいと主張し、受け入れられる。その新人とは誰あろう篠山紀信であった。上司の早崎にしても、オリンピックポスター撮影時には28歳の若さだった。東京オリンピック前夜は、若いクリエイターたちが互いに切磋琢磨しながら、新たなものを創り出そうとしていた時代でもあったのだ。(近藤正高)

※「いだてん」第42回「東京流れ者」
作:宮藤官九郎
音楽:大友良英
題字:横尾忠則
噺・古今亭志ん生:ビートたけし
タイトルバック画:山口晃
タイトルバック製作:上田大樹
制作統括:訓覇圭、清水拓哉
演出:北野隆
※放送は毎週日曜、総合テレビでは午後8時、BSプレミアムでは午後6時、BS4Kでは午前9時から。各話は総合テレビでの放送後、午後9時よりNHKオンデマンドで配信中(ただし現在、一部の回は配信停止中)