NHKの大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」も最終回まで残り約1カ月半となった。最終章に入った先週10月27日の第40話では、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」というサブタイトルどおり、第1回で描かれた1964年の東京オリンピック招致に向け大詰めを迎えていた1959年に再び舞台が戻ってきた(冒頭では1961年に脳出血で倒れ、翌年退院して帰宅した古今亭志ん生が出てきたが、これは物語と本筋とどうつながってくるのか)。

まーちゃん一気に「いだてん」終戦から1959年オリンピック東京招致まで14年間語った40話
イラスト/まつもとりえこ

今回は田畑が語った「オリムピック噺」


西ドイツ・ミュンヘンでのIOC総会が2週間後に迫るなか、東京招致の最終スピーチをする予定だった外交官の北原秀雄(岩井秀人)が外務省の運動会で足をけがしてしまう。会話にはまったく支障はないものの、アキレス腱を切った状態でオリンピック招致をするのはどうも具合が悪い。そこでピンチヒッターとして、大会組織委員会の田畑政治(阿部サダヲ)が白羽の矢を立てたのが、元外交官の平沢和重(星野源)だった。平沢は当時、NHKの解説委員としてテレビでニュースをわかりやすく解説し、女性を中心に人気を集めていた。田畑は、平沢が嘉納治五郎(役所広司)の死を看取ったことから代役に立てようとしたのだが、当の平沢は東京オリンピックについて時期尚早として反対していた。

大会組織委員会に呼ばれた平沢は、なぜ時期尚早なのか15分で説明してみせましょうと(テレビのニュース解説の時間がこの分数だった)、まずその理由として「1、対アメリカ問題」「2、スポーツ教育の遅れ」「3、人材不足」「4、交通や宿泊施設の不備」「5、開催国の選手としての実力不足」と5つの問題点をあげる。1については、日本は独立したといってもまだ国内に多くの米軍基地やキャンプが残されていた。また、5についても、たしかに有力なメダル候補はこの時点でいなかった。

平沢のわかりやすい説明に、東京都知事の東龍太郎(松重豊)も、田畑の秘書の岩田幸彰(松坂桃李)も思わず納得しそうになる。しかし平沢には何としてでもスピーチしてもらわねばならない。田畑はいきなりテーブルに上がって土下座……かと思いきや、上着を脱ぐと一席ぶち始めた。何事かと思いきや、田畑はさらに岩田に「岩ちん、カーテン」と言って映写の準備をさせると、「(オリンピック開催が)早えか遅えか論じるのは15分間、俺の『オリンピック噺』を聞いてからににしてくれ!」と見栄を切る。まさに「俺の話を聞け」とばかりに始まった第40話は、田畑が終戦から1959年までの14年間、戦後スポーツの復興のためいかに尽くしてきたか、自ら語る形で展開された。


そこで語られたのはじつに多岐におよぶ。敗戦後、米軍に接収された神宮外苑競技場に赴いたあと、田畑は日本橋のBarローズで東龍太郎と松澤一鶴(皆川猿時)と再会(第39話でママのマリー〈薬師丸ひろ子〉に志ん生の妻おりん〈夏帆〉が占ってもらっていたのは、このとき)、そこで東京にオリンピックを呼ぶとぶち上げたこと。それからまもなくして生き残ったオリンピック関係者15名を集めて「日本体育協会」を発足させたこと。水連も再建し、戦地から帰ってきた宮崎康二(西山潤)や小池礼三(前田旺志郎)を迎え、食糧もろくにないまま選手の指導を始めたこと(タンパク質を摂るためカエルも食べた)。そのなかから「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋広之進(北島康介)ら世界レベルの選手が生まれ、非公認ながら世界記録を次々と樹立したこと。1948年のロンドンオリンピックに日本が招待されなかったため、田畑の発案でオリンピックの競泳と同日同刻、神宮プールでレースを行ない(名づけて「裏オリンピック」)、古橋と橋爪四郎がオリンピックの1位・2位の選手を上回るタイムを出したこと。翌年にはGHQの最高司令官マッカーサー(ダニー・ウィン)から直接許可を得て古橋たちを全米選手権に出場させ、勝利をすべて世界記録で飾ったこと。しかし戦後初めて日本が参加した1952年のヘルシンキオリンピックでは、すでに全盛期をすぎていた古橋は惨敗したこと(このとき、Barローズで客たちがテレビを見ていたが、テレビの本放送開始は翌53年だから試験放送の段階で設置したのだろう。また、テレビで競技の結果を知った田畑が「古橋を責めるな」と言っていたのは、ラジオで男子400メートル自由形決勝の実況を担当したNHKの飯田次男アナウンサーがレース終了後、「日本のみなさん、古橋を責めないでください。戦後の日本で、われわれに希望を与えてくれた古橋を責めないでください」と泣きながら語った史実を踏まえたと思われる)。

古橋の活躍は敗戦に打ちひしがれていた日本人を勇気づけたが、まだまだオリンピックやスポーツに対して国の支援は薄く、田畑は東らとともに首相の吉田茂(実写)を訪ね、直談判したりもした。だが、それでもらちが明かず、田畑は「政治家が動かねえなら俺が政治家になってやろうじゃねえか」と、朝日新聞社を退職して1953年の衆議院議員選挙に出馬する(10月27日の本放送では田畑が「自民党」から出馬したと語っており、このころ自民党はまだないだろうと思っていたら、11月2日の再放送ではちゃんと「自由党」から出馬と訂正されていた。
当時の与党である自由党には田畑の新聞社での上司・緒方竹虎がおり、吉田内閣の副総理兼官房長官の座にあった)。出馬に際し、造り酒屋を営む浜松の実家から資金を用立ててもらうも、選挙区である浜松で東京オリンピック招致を訴えても聞いてもらえるわけもなく、あえなく落選。

「オリンピックは面白いこと」の言葉に平沢も心を動かす


しかし田畑はめげない。1956年、南半球で初開催となったオーストラリアのメルボルンオリンピックでは、英語の流暢な岩田幸彰を秘書につけ、IOC委員に対しロビー活動を展開、東京でのオリンピック開催を訴えて手応えをつかむ。神宮競技場も老朽化から、思い切って取り壊し、国立競技場に建て替えた。1958年に竣工した国立競技場は8万人が収容可能で、聖火台も設置される(同年開催のアジア大会で使われた)。同年には東京でIOC総会も開催され、会長のブランデージ(実写)は演説で東京にはオリンピックを開催する資格が十分にあると太鼓判を押した。

いよいよ招致活動は本格化し、田畑は東龍太郎に東京都知事選に出馬するよう懇願する。戦前の幻に終わった東京オリンピックの轍を踏まないためにも、船頭は少ないほうがいいと、東をすでに務めていた体協会長・IOC委員に加えて都知事に据え、招致活動をスムーズに進めようと考えたのだ。これに東の妻(筒井真理子)と息子(荒井敦史)が田畑の家に乗り込み、「主人をたきつけないでほしい」「父の晩節を汚さないでくれ」と猛反対する。だが、東は「戦後14年、オリンピックのことでやれると思ってやったことはない」「だからこそ晩節を汚してでもやりたいんだよ」とあらためて説得。田畑の妻・菊枝(麻生久美子)も「田畑の夢は田畑一人ではできない。だから力を貸してください」と頭を下げ、やっと納得してもらえた。


東が都知事に当選し、いよいよ1964年のオリンピック開催地を決めるIOC総会まであと2週間というところで、先述のとおりスピーチをする予定だった北原がけがをして、平沢が呼ばれたのだった(ここまで田畑が語り終えるまですでに30分が経っていた。15分で収めると言ってたのに!)。平沢はここまで話を聞いたうえで、あらためてなぜ田畑たちがそこまでオリンピックに惹かれるのか、その理由を訊ねる。田畑は北原に、フランス語で平和は何と言うのか訊くと、「ペ」との答え。これを受けて平沢に「ペだよ、ペ、平和のためにやっている」と言い張った。

ここで田畑が語ったのが、1954年にフィリピン・マニラでのアジア大会に参加したときの話だ。このとき日本選手団は、フィリピンの人々から宿泊先のホテルに石を投げ込まれるなど、激しい反発にあった。それというのもフィリピンは戦時中に日本軍に占領され、人々は過酷な仕打ちを受けたからだ。田畑は当時を振り返り、「歓迎されると思った自分を恥じたよ。われわれが世界平和など言うのはおこがましい。彼らにとって戦争はまだ終わっていなかったんだ」と苦々しく語った。彼はこのとき、大会開幕を前に選手団を引き上げようとするが、指導者となっていた小池や宮崎は「俺たちには水泳しかない」と出場を強く訴える。
これに田畑も思い直した。「おまえたちが泳げば、何か変わるかもしれない」「アジア各地でひどいこと、むごいことやってきた俺たちは、面白いことやんなきゃ」……そう、田畑がここまでオリンピックに情熱を傾けるのは、それが「面白いこと」であるがゆえだったのだ。これを聞いて、平沢は、亡くなる直前の嘉納もまた「面白いこと」として東京オリンピック開催をあげていたのを思い出す。そして嘉納が乗り移ったかのように「そこだよ、そこ」と言うと、「面白いことならやらせてもらいましょう」とようやくスピーチを引き受けるのだった。

平沢は、自分の言葉で自由にしゃべらせてもらうと田畑たちに約束させると、さっそくスピーチの案を練った。そこでたまたま小学生の娘の洋子が、国語の教科書に載ったオリンピックについての文章を暗誦するのを聞き、スピーチのなかでとりあげることにした。

はたして平沢は、IOC総会においてまず、例の教科書を取り出すと、そこに「五輪の旗」という話が載っていることを紹介する。画面には「オリンピック、オリンピック。こう聞いただけでも、わたしたちの心は躍ります。全世界から、スポーツの選手が、それぞれの国旗をかざして集まるのです。すべての選手が、同じ規則に従い、同じ条件のもとに、力を競うのです。遠く離れた国の人々が、勝利を争いながら、仲良く親しみあうのです。
オリンピックこそが、まことに世界最大の平和の祭典ということができるでしょう」という子供たちの朗読とともに、これまでドラマで描かれてきたオリンピックの回想が流れる。教科書に書かれたオリンピック精神をとりあげたうえで、平沢は背後に掲げられた五輪マークを指すと、「五輪の紋章に表された“第5の大陸”にオリンピックを導くべきではないでしょうか、“アジア”に」と訴えた。

かっきり15分で収めたスピーチは功を奏し、東京はついにオリンピック開催を勝ち取った。きょう放送の第41話からは、開催に向けて、田畑がさまざまな人々を巻き込みながら、準備に奔走するさまが描かれることになる。

古橋広之進役に北島康介という配役に意表を突かれる


戦争が終わってから東京がオリンピック招致に成功するまでをどう描くのだろうと思っていたのだが、14年間のできごとをまるっと1回分に収めてしまったのには意表を突かれた。荒業ともいえるが、それでも、スピーチをなかなか引き受けない平沢和重を説得するため、田畑が聞かせた「オリムピック噺」という形にしたおかげで、無理なく物語に収まっていた。

意表を突かれたといえば、戦後水泳界のスーパースターである古橋広之進の役に、平成の水泳界のスーパースターである北島康介を抜擢したのもそうだ。しかも“裏オリンピック”のレースでゴールした瞬間、「よーしゃ、気持ちいいじゃんね」と、2004年のアテネオリンピックの200メートル平泳ぎで優勝した瞬間に叫んだ「チョー気持ちいい」を思い起こさせるセリフまで用意されていて、つい笑ってしまった。

ちなみに、これまで大河ドラマには、1964年の東京オリンピックに出場した木原光知子、ソウル(1988年)とバルセロナ(1992年)と2大会連続で出場した藤本隆宏が、水泳界から芸能界に転身後に出演している。それでも北島ほどのスターが大河ドラマに出演するのは異例だ。2003年放送の「武蔵 MUSASHI」に当時現役メジャーリーガーだった佐々木主浩が豊臣家の家臣・大野治房の役で出演して以来の大物アスリートの起用だったように思う。

ドラマでは描かれなかったマニラ・アジア大会秘話


ただ、14年間を1回分でまとめたがゆえに、細かいエピソードは抜け落ちてしまった。その点はやや不満が残る。
たとえば、古橋たちが全米選手権に参加するにあたっては、マッカーサーだけでなく、宿舎に自宅を提供してくれたロサンゼルス在住の日系アメリカ人フレッド・和田勇など、多くの人たちの支援があった。そのあたりの細かい経緯が描かれなかったのは残念である。作者の宮藤官九郎としても、1957年の水連会長選挙で現職の田畑と高石勝男が争った話(結果、高石が勝った)も描きたかったが泣く泣く落としたと、ラジオで話していた。

ドラマガイドでは、岩田幸彰を演じる松坂桃李が、岩田は田畑と初めて会ったとき、女性と一緒にいたと語りながら、そのシーンはまるまるカットされていた。岩田についても資料を読むと田畑がらみのエピソードは多い。たとえば、メルボルンオリンピックでは、選手が持ち込もうとした梅干しが検疫で引っかかり、選手団は空港からなかなか出してもらえなかった。痺れを切らした田畑は、選手たちを早く選手村に送りこまねばならないと、岩田に梅干しと一緒に残るよう命じる。一人残された岩田は検疫官に対し「これは日本の漬物(ピクルス)で、日本選手のエネルギーのもとである」と説得を重ねたものの、相手も「いや、これは種があるからフルーツである」となかなか聞き入れない。ついには「それじゃ、ためしに食べてみろ」と言うと、検疫官は一粒口にしたとたん、悲鳴を上げて吐き出し、「早く持っていけ!」とようやく検疫を通過できたという(ベースボール・マガジン社編・発行『人間 田畑政治』)。

ドラマのなかで平沢の心を動かしたマニラのアジア大会についても、できれば、次のような後日談まで含めて描いてほしかったところである。

このとき日本選手団は、戦時中の賠償問題もからんでフィリピン国民から強い反発を買ったのは劇中で描かれたとおりだ。開会式の入場行進でも、客席からは「オイ」「コラ」「バカヤロウ」と罵声が飛んだが、いざ競技が始まり、日本選手があらゆる競技で活躍し出すと、空気が一変する。罵声はしだいに影を潜め、拍手へと変わり、閉会式の行進は大歓声で送られるまでになったという。

さらに翌朝、選手団長だった田畑は、ウェイトリフティングの藤原監督に叩き起こされる。藤原は日本選手団の護衛を務めた若いフィリピン兵と一緒だった。その若者は、戦時中に家族を日本兵に虐殺されて以来、日本人を憎み、日本選手団の護衛を務めるのもいやでいやでしかたがなかったが、会期中、選手たちと一緒にすごすうちにしだいに彼らが立派だということがわかってきて、敬愛の念さえ持つようになった。そして、彼らは家族を殺した日本兵と同じ日本人だろうかと自問自答を繰り返した末、ある結論にいたった。それは「悪いのは日本人ではなく、戦争なのだ。戦争はどこの人間をも鬼畜にするのだ」というものだった。若者はこれを言うために藤原を訪ね、話を聞いた藤原はぜひ田畑にも彼を会わせたいと連れてきたのである(田畑政治『スポーツとともに半世紀』静岡県体育協会)。平和のためにオリンピックを開くという田畑の主張からしても、このエピソードを描いたほうがより説得力が増したのではないだろうか。

「いだてん」は全47話になるとすでに決まっているが、これが50話あったのなら……とつい思ってしまう。さらにここへ来て、きょう放送の第41話は、日本女子バレーボールの大松博文監督を演じる徳井義実の税金申告漏れの問題を受けて、彼の出演シーンを中心に再編集を行ない、通常43分の放送時間が42分に短縮されることになった。色々と残念ではあるけれど、現場のスタッフたちにはきっと苦渋の決断であったはずである。こんなときだからこそ、「いだてん」を応援したい。

ところで、先週のレビューで私は、田畑の口癖を「違う! いや、そう!」と書いたが、第40話を観て、正しくは「違う! そう!」で、「いや」は入らないことに気づいた。このセリフは一見すると、田畑の物事に対する考えが、まず否定から入り、すぐに肯定へと変わるのを示しているように思える。だが、ここはむしろ、田畑のなかでは否定と肯定が常に同時にあり、それらをことあるごとにぶつけ合うことで、より高い段階へ高めている(哲学用語で言うところの「止揚」している)と解釈したほうがいいのではないか。「違う」と「そう」のあいだに「いや」と断りが入らないのも、そのためのような気がしてならない。……以上、自分の勘違いからふと考えた与太話でした。もちろん間違いそのものについては、お詫びして訂正します。(近藤正高)
まーちゃん一気に「いだてん」終戦から1959年オリンピック東京招致まで14年間語った40話
イラスト/まつもとりえこ

※「いだてん」第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」
作:宮藤官九郎
音楽:大友良英
題字:横尾忠則
噺・古今亭志ん生:ビートたけし
タイトルバック画:山口晃
タイトルバック製作:上田大樹
制作統括:訓覇圭、清水拓哉
演出:井上剛
※放送は毎週日曜、総合テレビでは午後8時、BSプレミアムでは午後6時、BS4Kでは午前9時から。各話は総合テレビでの放送後、午後9時よりNHKオンデマンドで配信中(ただし現在、一部の回は配信停止中)
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