小松と志ん生、満州で邂逅
第39話では、志ん生(森山未來)と三遊亭圓生(中村七之助)が太平洋戦争末期に満州へ慰問に渡った。日本ではすでにほとんど手に入らなくなっていた酒飲みたさに満州行きを決めた志ん生は、当初ひと月で日本に帰れるものと思っていたが、気づけば2ヵ月がすぎていた。そこへ現れたのが、兵士として満州に送られた五りんの父で、金栗四三のマラソンの弟子の小松勝(仲野太賀)だった。二人の落語を聴いた小松は楽屋に押しかけると、圓生は色男だと持ち上げる一方、志ん生に対しては、「富久」の主人公の久蔵の走り方がなっていないとダメ出し。呼吸法などを指南したあげく、これを読めと、自分がマラソンを始めるきっかけとなった四三の著書『ランニング』を渡し、志ん生を怒らせてしまう。
小松はこのとき、もうすぐ沖縄に転戦すると話していた。志ん生と圓生はその後、満州で世話をしてもらっていた現地の放送局勤務の森繁久彌(渡辺和知)から沖縄が米軍によって攻め落とされたと聞く。やがて広島と長崎に「変なもの」(もちろん原子爆弾のこと)が落とされ、さらに日本と中立条約を結んでいたソ連が参戦した。ソ連参戦から6日後の1945年8月15日、終戦を伝える玉音放送を、志ん生たちは大連で聴くことになる。現地の中国人が日本からの解放を喜ぶなか、大連にもソ連軍が侵攻し、日本人は逃げ惑う。そのどさくさにまぎれて、志ん生から財布をひったくる者がいた。
今回の物語は、満州に渡った志ん生と圓生が、日本の情報がほとんど入ってこないまま遠く満州の地で2年をすごすさまが描かれた。劇中では、二人はずっと大連に滞在したかのように描かれていたが、実際には当初彼らは満州国の首都だった新京(現・長春)を拠点に、各地を慰問に回っており、大連に移動したのは終戦直前のことである。それが舞台を大連に限定したのは、志ん生たちが外部からほとんど閉じられた場所ですごしたことを強調するためではないか。
志ん生にとって満州は最初のうちこそ極楽だったが、ソ連侵攻により一転して、暴力が吹き荒れる地獄と化した。小松と再会したときには、目の前で中国人の男が日本人たちを射殺されるのを目撃してしまう。危うく志ん生たちも殺されるところだったが、その男は小松を見て、そのまま立ち去る。じつは男は終戦前に小松が絵はがきを買った相手だった。そのとき、ほかの日本兵から横暴に振る舞われるなか、小松だけが絵はがきを買ってくれたのを中国人は覚えていたらしい。それにしても絵はがき売りの男のあまりの変貌ぶりに驚かされた。
志ん生の「富久」の完成、そして突然の別れ
志ん生と圓生はこのあと小松と、ソ連軍から身を潜めながら酒を酌み交わすうち、小松がオリンピック出場を夢見ていたこと、そして3人とも子供がいると知って打ち解けていく。その翌日、志ん生と圓生は二人会を開いた。
さて、志ん生は何をやるか。迷っていたところ、一緒にいた小松から「富久」をリクエストされる。最初は渋る志ん生だが、主人公の久蔵が浅草から日本橋まで走るのを、芝まで延ばせばいいと助言される。浅草から芝までそんな長い距離を走るやつなんていないと言う志ん生に、小松は「いる」と言い張った。もちろん彼の頭のには師匠の金栗四三のことが浮かんでいた。関東大震災のとき被災者救援のため東京中を駆けまわった四三は、ちょうどこのころ、上野の闇市から大塚のハリマヤへ小松の妻・りく(杉咲花)を訪ねていた。
小松のアドバイスを受け、高座に上がった志ん生の演じる「富久」はそれまでとはまったく違い、走る姿が真に迫るものとなっていた。それを聴くうち、小松はいても立ってもいられなくなったのか、夜の街へと飛び出し、走り始める。そして例の絵はがきに「志ん生の『富久』は絶品」と書いて、ポストに入れようとしたところ、ソ連軍と遭遇する。
りくと幼い五りん(本名は金治)のもとには、しばらくして小松からの絵はがきや遺品が届けられた。りくは夫の足袋を見ながら五りんに向かって「いっぱい走ったんだねえ」と話しかけると、そのまま泣き崩れる。その姿に四三も父の増野も何も言えない。四三は泣きながら小松の足袋を手に、戦争の終わった東京の街へと駆け出すのだった。
死んだと思われた志ん生、2年ぶりの帰国
平和が訪れていた日本に対し、満州では各所で暴虐の限りが尽くされた。その様子について劇中では、志ん生の語りで「ソ連軍が本格的に来てからはひでえもんだったよ。女はみんな連れてかれた。抵抗すれば自動小銃で撃たれた。沖縄で米兵が、もっと言やあ、日本人が中国でさんざんぱらやってきたことだが……」と説明されていた。
志ん生はあまりの状況にやけを起こし、ウォッカを大量にあおって自殺を図るも、圓生に止められて事なきを得た。年が明けて1946年、満州からいつまでも帰らない志ん生と圓生は死んだものと噂され、寄席の香盤表から二人の名前を外そうかという声もあがっていた。これを聞いた志ん生の妻・おりん(夏帆)は、夫はまだ生きていると信じ、頑なに反対する。このとき、寄席の席亭から日本橋のほうにすごく当たる占い師がいると言われ、彼女はバー・ローズに赴いた。占い師とは店のママのマリー(薬師丸ひろ子)のことだった。マリーからは夫のことはあきらめろと告げられ、さらに、彼は死ぬまであなた一筋だったとも言われるのだが、そのころ志ん生は満州で、圓生に勧められるがままに現地の義太夫の師匠と見合いをしていた。ただし、相手の酒癖の悪いのにさしもの志ん生も参って、重婚は未遂に終わるのだが。
それからさらに1年、志ん生いわく「そこからが本当の地獄だったよ。
激動の第39話のクライマックスは、脳出血で入院中の志ん生(すでに意識が戻り、五りんからこっそり酒を飲ませてもらっていた)に、年老いた圓生(七之助が特殊メイクで演じた)が見舞いに訪れる場面だった。妻のりん(池波志乃)と娘たち(小泉今日子・坂井真紀)には、まだ意識不明のふりをしていた志ん生だが、圓生から「義太夫女のこと、バラしましょうか」と耳元でささやかれ、あわてて飛び起きる。
老志ん生が圓生に向かって口にした「久しぶり」のセリフが、満州から帰宅して再会したりんに告げた「久しぶり」と重なる。妻を前に「また貧乏に逆戻りか」「今度は日本がとびっきりの貧乏だ。みんなで上向いて這い上がればいいんだからわけねえや」と笑い飛ばしてみせた志ん生は、帰国の翌月、寄席に復帰。「ただいま帰ってまいりました」と挨拶したあと、一席始める。演じるのはやはり「富久」であった──。
小松の思いを受け継いだ「富久」
第39話は、宮藤官九郎がもっとも書きたかった回だという。敗戦前後の話を、あえて主人公二人を外して、語り手である志ん生を主人公に描いたのがキモだろう。
四三からマラソンを学んだ小松が、さらに志ん生に対し「富久」へのアドバイスという形で、その教えを伝えた。まるで駅伝のたすきを渡すように。志ん生にとって寄席で「オリムピック噺」を語り始めたのは、単に1964年の東京オリンピックが決まったからというだけでなく、オリンピックを夢見ながら亡くなった小松を偲ぶという意味もあったのだろう。ちょうどそのころ彼の前に現れた五りんという青年が、ほかでもない小松の一人息子とわかり、すべてがつながったのである。
振り返れば、「富久」は、志ん生が最初の師匠である橘家円喬を人力車に乗せながら稽古をつけてもらった噺でもある。そう考えると、このドラマにおいて「富久」は、志ん生がさまざまな人の思いを受け継ぎながら語り続けている噺なのだとあらためて思った。
さて、戦争も終わり、「いだてん」はいよいよ最終章に入る。きょう放送の第40話のサブタイトルは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(大河ドラマで英語由来のサブタイトルは珍しい)。ということは、おそらくいったんは、ドラマの冒頭に出てきた東京オリンピックの招致に成功した1959年に戻るのではないか。初回で観たシーンも、物語が進展したいま再び観ると、また違ったふうに観られるに違いない。(近藤正高)
※「いだてん」第39回「懐かしの満州」
作:宮藤官九郎
音楽:大友良英
題字:横尾忠則
噺・古今亭志ん生:ビートたけし
タイトルバック画:山口晃
タイトルバック製作:上田大樹
制作統括:訓覇圭、清水拓哉
演出:大根仁、渡辺和樹
※放送は毎週日曜、総合テレビでは午後8時、BSプレミアムでは午後6時、BS4Kでは午前9時から。各話は総合テレビでの放送後、午後9時よりNHKオンデマンドで配信中(ただし現在、一部の回は配信停止中)