先週10月6日放送の大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」第38話は、1938年の嘉納治五郎(役所広司)の死から、直後の東京オリンピック開催返上、さらに太平洋戦争の開戦を経て、1943年の学徒出陣までを一気に描いた。この間、師匠の金栗四三(中村勘九郎)の指導のもと東京オリンピック出場を目指していた小松勝(仲野太賀)はその夢を断念するも、りく(杉咲花)と結婚し、翌1940年には一児を儲ける。
それが志ん生の弟子・五りん(神木隆之介)だった。

第38回では、戦前・戦中の物語と並行して、1961年暮れに巨人軍の優勝祝賀会に余興のため招かれた古今亭志ん生(ビートたけし)が脳出血で倒れ、入院してからの様子も描かれた。五りんは、志ん生の看病……というより、意識が戻るとさっそく飲みたがった師匠のため酒をこっそり調達する役目を担いながら、父の小松が兵士として渡った満州で聞いたという志ん生の「富久」の謎を探り出そうとしていた。
「いだてん」東京オリンピック返上、そして戦争へ…五りんの父親がついにあきらかに38話
イラスト/まつもとりえこ

副島道正、苦渋の決断でオリンピックを返上


嘉納治五郎の死後、それまで国威発揚の場となるのを恐れて東京でのオリンピック開催に反対する立場にまわっていた田畑政治(阿部サダヲ)は一転して、嘉納が命を懸けた大会を何としてでも実現したいと思うようになった。

しかし大会組織委員会では、東京市や軍部などがそれぞれの言い分を主張するばかりで、一向に話がまとまらない。陸軍が、ギリシャからの聖火リレーに反対し、天孫降臨伝説ゆかりの宮崎・高千穂から出雲大社、伊勢神宮を経由して明治神宮をめざす「神火(しんか)リレー」を提案したかと思えば、東京市長の牛塚虎太郎(きたろう)は、神宮外苑競技場よりもキャパシティの大きい競技場を東京郊外の駒沢に建設する計画をぶち上げた。だが、建設には大量の鉄鋼が必要だった。日中戦争下にあって兵器製造のため鉄鋼の需要が高まっていただけに、軍部は新競技場建設に強く反対する。委員会をまとめる副島道正(塚本晋也)は、鉄鋼使用について文部次官に政府の考えを問うが、次官は軍部を恐れてか返答を避けた。

副島は、いつまで経っても何も決まらず、軍部の声が強まるばかりなのに失望して、ついに開催返上を決断する。首相の近衛文麿に電話してその旨を伝えようとする副島を、田畑は必死になって止める。ここで田畑に「俺はいいけど嘉納はどうかな〜」と、ミュージシャンの矢沢永吉の言葉(矢沢はあるオファーを断るとき「俺はいいけど矢沢はどうかな」と言ったと伝えられる)のパロディらしきセリフを言わせてしまうのが宮藤官九郎らしいが、田畑が続けて「副島さん、総理大臣に頼むんだったら戦争(休止)のほうじゃないの?」「オリンピックのあいだだけでも一時停戦にならないの?」と懇願するのにはグッとくるものがあった。しかし副島の答えは「いまの政府にはできないだろうね」。
もちろん、副島とて、嘉納の夢を実現できないのは忸怩たるものがあったのだろう、「機が熟せば、いつかやれるさ、東京オリンピック」と悔しそうに口にするのだった。

こうして1938年7月14日、政府はオリンピック返上を正式に決定する。発表したのは厚生大臣の木戸幸一である(演じていたのは松永英晃)。厚生省(現・厚生労働省)はこの年1月に設置され、文部省(現・文部科学省)に替わって体育・スポーツの管轄省庁となっていた。

このあと、副島からIOC会長のラトゥール宛ての書簡が、副島のモノローグとして画面のバックで語られる。大会組織委員会で返上を提案した自分の両隣りには誰も座らず、売国奴、非国民と罵られても、私は自分のとった行動を後悔はしていないと、副島はつづった。彼が返上を急いだのには、半年遅れたら、どの国でもオリンピックは開催できないとの判断もあった。副島は、東京で開催はできずとも、他国で開催される道は残したのである。そして最後は「いつかこの国がオリンピックが開かれる日を夢見て」と結ばれた手紙を、ラトゥール(ヤッペ・クラース)は読み終えると落胆して「Missing Olympic(幻のオリンピック)」とつぶやく……。

五りんの父親、本名がついに判明!


東京オリンピックは返上されたものの、小松勝はヘルシンキで代替開催されると知り、あくまで希望を失わなかった。しかしそのヘルシンキ大会も、1939年にヒトラーのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発すると中止が濃厚となる(実際そうなった)。日本国内でもすでにスポーツに興じる者はほとんどいなくなり、神宮外苑競技大会も「戦技大会」というスポーツ精神とはかけ離れた大会に取って代わられていた。そんな情勢を憂慮して四三は小松にしきりに郷里の熊本へ帰るよう勧めるが、彼は頑なに東京に残りたがる。
四三の妻のスヤ(綾瀬はるか)は、その理由が東京にはりくがいるからだと見抜く。図星を指された小松は照れて外へ駆け出すが、りくに自転車で追い抜かされた。そして彼は叫ぶ。「りくちゃん、俺と一緒になってくれんねー!」。ここで自転車が出てきたのに、四三とスヤの恋が彼女の結婚のため一度は破れたときのことを思い出させた(学生時代、帰省中にスヤが結婚すると知った四三は傷心で東京に戻る汽車に乗ったところ、彼女が自転車で追いかけてくる名シーンがあった)。

プロポーズの次の場面では、早くも小松とりくが祝言を挙げていた。りくの父・増野(柄本佑)は、酔いも手伝って、関東大震災で行方不明となった妻のシマの話を繰り返し話したあげく、「(りくを)大切にしなかったら、殺すよ!」と小松に約束させる。翌年、東京でオリンピックが開催されるはずだった1940年秋には、二人のあいだに五りんが生まれる。ここで初めて彼の本名が「金治」であると明かされた。五りんは志ん生に「金メダルの『金』に嘉納治五郎の『治』」と説明するが、志ん生は「金栗の『金』じゃねえのか」と言う。それを言ったら、「治」は田畑政治の「治」でもある。ドラマの主人公二人の名前まで織り込んでいるのが巧みだ。


落語界にも戦争の影が忍び寄る


五りんが生まれたのは、ちょうど志ん生がその名を襲った時期だった。当初、妻のおりん(夏帆)は、歴代の志ん生が早死にしているとの理由で、襲名には反対する。これに対して志ん生こと美濃部孝蔵(森山未來)は、自分が長生きして看板を大きくすれば先代の志ん生たちも文句はないだろうと言って押し切った。

だが、時代は落語にとっても悪い状況へと傾いていく。1941年10月には、日米開戦を主張する東条英機が首相に就いた。寄席では、もうすぐ三遊亭圓生を襲名しようとしていた山崎松尾(中村七之助)が廓噺「紺屋高尾」を艶っぽく演じ、志ん生を感心させる。そんななか楽屋には「禁演落語一覧」が貼り出され、多くの噺が高座でかけることを禁じられてしまう。そこには廓噺のほか、「付き馬」「疝気の虫」など志ん生の得意とする噺も含まれていた(いずれも「いだてん」に登場済み)。「冗談じゃねえや。お上の顔色うかがいなら芸人なんかできねえや!」と激怒する志ん生に対し、圓生は「私はようがす。このご時世、こうでもしなけりゃ寄席開けねえんでしょう」と受け容れる。「まあこれぐらい葬ってもネタには困りませんよ。ねえ、兄さん?」と圓生から言われては、人一倍落語に自信を持つ志ん生も「……おう。
屁でもねえや」と返さざるをえなかった。のちにそろって「昭和の名人」と謳われる志ん生と圓生のライバル物語が始まった瞬間だ。

「禁演落語」は演芸評論家の野村無名庵らの発案で、落語界の幹部や寄席の席亭が相談のうえ、1941年10月30日に53種目の落語を指定したものである。これら噺は、浅草の本法寺に「はなし塚」という石碑を建てて葬られた(結城昌治『志ん生一代(下)』小学館)。当局からは廓噺などについて非常時にふさわしくないと自粛を求められていたとはいえ、けっして強制されたわけではない。それにもかかわらず落語界は、こうでもしなければ興行を続けられないとの判断であろう、戦時体制に迎合する態度を示したのである。

神宮外苑競技場は学徒出陣を送る場となった……


「禁演落語」の指定は、東条内閣成立の12日後のことだった。この年12月8日には日本軍のマレー半島上陸と真珠湾攻撃により、とうとう太平洋戦争が火ぶたを切る。開戦当初、日本軍の連勝に国民は沸き、朝日新聞社でも社員たちが万歳を上げた。しかし田畑はまったく気乗りしない。見かねた上司の緒方竹虎(リリー・フランキー)から「嘘でも喜べ」と促され、ようやく一緒に万歳するのだが、その表情はまったくの無であった。

太平洋戦争の開戦と前後して箱根駅伝も2年休止されたが、1943年に「靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」の名で復活し、まだ学生だった小松も出場する。だが、兵力不足が深刻化し、それまで兵役を免除されてきた20歳以上の文系科学生の徴兵が決まった。
学徒出陣である。

出陣学徒壮行大会の前夜、ハリマヤの茶の間では、小松の家族や四三夫妻、ハリマヤ主人の黒坂辛作(三宅弘城)と子供たちが努めて明るくふるまい、小松の出征を祝っていた。「自転車節」を子供たちが歌っていたところ、増野がやって来て、いきなり小松を蹴りつけると「約束破ったね」と問い詰める。そのまわりで子供たちが「ばってん、ばってん」と無邪気にはしゃぐのを見て気を取り直した増野は、「勝くん、立派に戦ってくるんだぞ、お国のために」と伝えた。りくも千人針を贈る。その様子を見ながら、スヤが「韋駄天だけん、きっと生きて帰ってくるばい」とほほえんだ。小松は四三に、「金治は体が弱いので、3つになったら冷水浴ばさせてください」と幼い息子を託した(五りんが毎朝冷水浴を欠かさない理由を「父の言いつけ」と言っていたのはこのことだったのだ)。このあと増野の音頭により一同で万歳をする。みんな涙を浮かべながら……。

翌日、1943年10月21日、神宮外苑競技場において雨の降るなか出陣学徒壮行大会が挙行された。行進する学生たちを群集の一人としてスタンドで見つめながら、田畑は4万人しか入らないはずの競技場にそれ以上の人たちが集まったことに憤慨する。「こんなんだったらオリンピック、できたじゃないか!」。
スタンドを離れた田畑は、東京オリンピック開催に反対していた衆院議員の河野一郎(桐谷健太)の姿を見つけると、「俺はあきらめん、ここで必ず(オリンピックを)やる」と告げた。

学徒出陣の場面では、小松たちドラマの登場人物を撮った映像に、カラーで復原された現実の学生たちが行進する記録映像を織り交ぜることで、ドラマの世界が現実へと否応なしに引きずりこまれていくさまが効果的に表現されていた。ほかの場面で、東条英機の演説や太平洋戦争開戦時のラジオ放送が当時の音声のまま流されていたのも同様である。

第38話は、行進する小松の顔のアップに続き、東条首相とともに学生たちが万歳するカットで締めくくられた。きょう放送の第39話は「懐かしの満州」と題し、戦争末期に志ん生が圓生とともに満州(現・中国東北部)へ渡ってからの動向が描かれる。宮藤官九郎が「いだてん」で一番描きたかった回というだけに、ますます期待が高まる。やはり満州に渡った小松が、家族に送った絵はがきに「志ん生の『富久』は絶品」と書いたその謎もついに明かされることだろう。

1961年のカップ麺の謎


第38話では、1961年に志ん生が倒れた日、田畑が東京オリンピックの大会組織委員会の執務室であるものを食すシーンがあった。彼を「うまいなこれ、選手村で配ったらどうだい」と感激させたあるものとは、カップ麺だ(できあがりまでの時間を、嘉納の形見のストップウォッチを使っていたのはご愛嬌)。いや、カップ麺が商品化されたのは、日清食品が1971年に発売したカップヌードルが最初だったはず。それより10年も前に田畑がカップ麺を口にすることなどありえるのか。それともこれはオーパーツの類いなのか? いやいや、綿密に調査した史実にもとづく「いだてん」のこと、この場面にもきっと裏付けがあるに違いない……。そう思っていたところ、雑学サイトを運営する杉村喜光(知泉)さんが、あれは明星食品の「叉焼麺(チャーシューメン)」だとツイッターで指摘していた

私のほうでも明星食品の社史にあたってみたところ、たしかに1961年、同社は「明星叉焼麺」というカップ麺を開発し、商品化を目前にしていた。日清食品のチキンラーメン(1958年発売)が火をつける形で即席麺ブームが巻き起こるも、数年経ってさすがに消費者にも飽きが来る。明星はこのままではいけないと新商品の開発を乗り出した。

従来の即席麺は、麺に味つけされており、具材はついていなかった。それを明星は、麺には味つけせず、麺とは別にスープと具材(チャーシューとメンマ)を小袋に入れてパッケージに収納することにした。しかしスープと具材を小袋に入れると、それを開けるのにワンタッチ手間が増える。この解決策として考え出されたのが、紙製のカップに収納するという方法だった。これなら、従来の即席麺のように食器が必要ないから、小袋を開ける手間が相殺される。しかも紙カップに入れれば、小袋の破損が防げるというメリットもあった。

こうして試行錯誤を重ねた末、スープのなかに具材を漬けこんだような状態で小袋に入れ、それをカップに収納した「叉焼麺」が完成する。カップの製作はアイスクリーム容器のメーカーに発注したため、「叉焼麺」も底の浅いアイスの紙カップとほぼ同じ形状となった(ふたを開ける“耳”がついているのもそれっぽい)。販売方針も決まり、小売り価格は50円、市場は行楽地や鉄道弘済会(国鉄の駅の売店)などに絞って、新しい需要の掘り起こしを狙った。こうした市場の絞り込みは、のちのカップヌードルも発売時に踏襲しているのが面白い。やはりカップヌードルもそうしたように、発売を前にテストセールも行なわれた。鎌倉の海水浴場でのテストでは、味は好評だったものの、紙カップに問題が発覚する。油で揚げた麺の油が染み通り、しばらくするとカップから漏れてしまったのだ。ふたの紙のにおいが麺に移ることも問題だった。

結局、当時のカップ容器の技術では限界があり、問題の解決にはいたらず、「叉焼麺」の発売はついに断念される。カップヌードルは容器の問題を発泡スチロールを用いることで乗り越えたが、「叉焼麺」は時代が少し早すぎたのだ。特許出願も「周知のアイスクリーム容器にチャーシュー麺を入れたにすぎない」として退けられた(以上、エーシーシー編『めんづくり味づくり 明星食品30年の歩み』明星食品を参照)。

巨人が出てきた回の終わりにあの人の訃報が…


1961年は、巨人軍の大打者だった川上哲治が古巣の監督に就任し、ペナントレースと日本シリーズを制覇した年でもある(巨人の日本一は6年ぶりだった)。志ん生が倒れたのは、「いだてん」で描かれていたとおり、その優勝祝賀会(12月15日)に余興で招かれたときだった。

高輪のプリンスホテルで催された祝賀会は、川上が銀座のどこかに忘れ物をして取りに戻ったため、開宴が遅れたという。志ん生はさんざん待たされたあげく、即席の高座に上がると同時に、選手と家族らの食事のほうも始まり、とても落語をやるような雰囲気ではなかった。そこで、当初は「万病円」という噺をやるつもりが、小噺でもやって降りようと思い、《大晦日箱提灯はこわくなしてえますが、昔ア、師走ももう数え日ンなりますてえと、みんなこのウ、歩いてるひとの目の色が違ってましたな……》と始めたものの、気づけば自分の声が雑音にしか聞こえない。変だなと思って、もっと続けてしゃべったら、自分でも何をしゃべっているのかわからなくなってしまったという(安藤鶴夫『わたしの寄席』雪華社)。意識を失った彼はその場で倒れ、会場は大騒ぎとなった。

この日、志ん生は祝賀会の前にも、中華料理店の開店披露、テレビの収録を掛け持ちしていた。ハードスケジュールに加え、暮れの寒い時季とあって、当時71歳となっていた老体には堪えたに違いない。だが、幸いにも発作から30分以内で適切な処置ができたおかげで、一命をとりとめたのである。

余談ながら、先週の総合テレビの「いだてん」終わり、「いだてん紀行」の放送中には日本球界唯一の400勝投手・金田正一死去という速報が流れた。金田といえば、国鉄(現・東京ヤクルト)スワローズのエースとして、1958年、巨人のルーキー長嶋茂雄の初打席で三振を奪ったのち、1965年に巨人に移籍すると、川上巨人のV9の最初の年の優勝に貢献している。何かにつけて、物語と現実とのリンクが目立つ「いだてん」だが、奇しくも巨人がらみのエピソードがあった回で、金田の訃報が流れるとは、またしても! と思わせた。(近藤正高)

※「いだてん」第38回「長いお別れ」
作:宮藤官九郎
音楽:大友良英
題字:横尾忠則
噺・古今亭志ん生:ビートたけし
タイトルバック画:山口晃
タイトルバック製作:上田大樹
制作統括:訓覇圭、清水拓哉
演出:西村武五郎
※放送は毎週日曜、総合テレビでは午後8時、BSプレミアムでは午後6時、BS4Kでは午前9時から。各話は総合テレビでの放送後、午後9時よりNHKオンデマンドで配信中(ただし現在、一部の回は配信停止中)
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