「いだてん」では、金栗四三(中村勘九郎)を主人公とする第1部が、四三が日本人で初めてオリンピックに参加するまでを描いた章と、女子スポーツの黎明を描いた章で構成されていたのに対し、田畑へ主人公が替わった第2部は終戦をもって区切りをつけたことになる。ここでは「田畑政治編」の前章について、最終章を前にちょっと振り返ってみたい。
戦争とテロの時代へ向かうなかで
6月に田畑が主人公として登場したとき、そのせわしなさにちょっと戸惑った。何しろ「違う! いや、そう!」「アレがナニして」などと、考えるより先に言葉が出てしまうのだ。何につけても行動が先立ってしまう彼は、体協がオリンピックの選手派遣費の捻出に苦労していると知るや、朝日新聞の政治記者という立場を利用して蔵相の高橋是清(萩原健一)に直談判、まんまと国庫から派遣費を引き出すことに成功する。無謀ではあるが、妙な政治力を発揮して、オリンピックのため国を動かしてしまう田畑は、理想主義者である四三や嘉納治五郎(役所広司)とはあきらかにタイプが違った。本人も旧世代とは違うのだとばかり、四三や嘉納たちに悪態をつくこともあった(あとになって尊敬の念を示すとはいえ)。
少年時代に郷里・浜松で水泳に打ち込んだ田畑は、病気のため競技からは退いたものの、指導者として朝日新聞社入社後も水連の設立や選手強化にかかわっていた。しかしオリンピックには長らく憧れながらも、なかなか参加がかなわなかった。1924年のパリ大会に続き、1928年のアムステルダム大会(菅原小春演じる人見絹枝が陸上800メートルで日本女子初のメダルをもたらす)のときも日本にとどまり、会社に泊まりながら、日本水泳陣の競技結果を知らせる電報をいまかいまかと待ち続けた。ようやくオリンピック参加を果たしたのは、1932年のロサンゼルス大会、日本水泳陣の総監督としてであった。この大会で日本は水泳の全6種目のうち5種目で金メダルを獲得し、地元の日系人をおおいに勇気づけるとともに、開放的な選手村では各国の選手たちが交流した。その様子に田畑はオリンピックの理想像を見出す。
しかし1931年に満州事変の勃発して以来、日本は戦争とテロの時代を迎えていた。1932年には、満州問題を原因として首相の犬養毅(塩見三省)が、海軍の青年将校らに射殺される(五・一五事件)。田畑は犬養に最後に取材しただけに、この事態に衝撃を受ける。このとき、ロサンゼルスオリンピックを前に朝日新聞社が応援歌の歌詞を公募しており、応援歌のお披露目には犬養も出席する予定であった。合唱団が朗々と応援歌を歌うなか、首相官邸で犬養が襲撃される様子が描かれていたのが印象に残る。
動き出す東京オリンピック招致
このころ、東京市は市長の永田秀次郎(イッセー尾形)の発案で1940年のオリンピック招致に乗り出した。かねてより東京でのオリンピック開催を夢見ていた嘉納はその実現に向けて力を注ぐ。だが、同年のオリンピックにはローマも名乗りを挙げ、独裁者ムッソリーニの指導のもと準備を着々と進めており、開催は確実と目されていた。そこで日本は、IOC委員の杉村陽太郎(加藤雅也)と副島道正(塚本晋也)がムッソリーニと面会して直談判し、開催権を譲ってもらうことに成功する。1935年のことだ。しかしこれをオリンピックへの政治介入とみなしたIOC会長のラトゥール(ヤッペ・クラース)は、1940年のオリンピック開催地を決める投票を翌年に延期すると発表する。この事態に、嘉納たちは再び策をめぐらした末、ラトゥールを日本に招待して、各地を案内しながら日本についてよく知ってもらおうと決める。
この間、1933年には日本は満州問題により国際連盟を脱退していた。
はたして1936年7月、ベルリンでのIOC総会で1940年のオリンピック開催地に東京が決まる。翌8月には、ベルリンオリンピックが開幕した。ロサンゼルスに続いて総監督として参加した田畑だが、ヒトラー率いるナチスのプロパガンダ色の濃い大会に違和感を隠せなかった。おまけにラトゥールからは、ヒトラーに東京オリンピックが決まった御礼を言うよう忠言されていた。田畑はヒトラーが大嫌いだったが、いざ会場で出くわすと、呼び止めて「ヒトラーさん、オリンピックをナニしてくれてダンケシェン」と礼を言わざるをえなかった。このとき、階段で握手したあと、ヒトラーが立ち去ってからの田畑が、期せずしてあれほどいやがっていたハイル・ヒトラーのポーズになっていたのに皮肉を感じた(これは演出の大根仁の発案によるものだという)。
嘉納の死とオリンピック返上
田畑がヒトラーと面会したのは、女子200メートル平泳ぎ決勝に日本から前畑秀子(上白石萌歌)が出場する直前だった。4年前のロサンゼルスで銀メダルだった前畑は、帰国時、永田秀次郎から次は金メダルをと懇願されていたが、ベルリンでその約束を見事に果たす。このときラジオの実況中継でアナウンサーの河西三省が「前畑がんばれ」を連呼したことは語り草で、ドラマでも描かれていた。
前畑の活躍により、田畑はベルリンオリンピックもこれはこれでよかったのではないかと一瞬思ったのもつかの間、選手村で通訳をしてくれたユダヤ人青年がオリンピック閉幕直後に自殺したと知って衝撃を受ける。ユダヤ人を排撃するナチスのもとでは、オリンピックが終わったらもう自分に利用価値がないと失望してのことであったらしい。
田畑がベルリンオリンピックに疑問を抱く一方で、嘉納は4年後の東京オリンピックは挙国一致体制で開催し、世界中の人たちに日本の文化や精神を知ってもらおうと画策していた。そのために大会組織委員会にも、東京市や体協だけでなく、政府や軍部など各方面から委員を集めた。競技場も、嘉納自身がその建設に尽力した神宮外苑競技場ではキャパシティが足りないと、もっと大きな競技場を新設したいと考えるようになる。いずれもベルリンオリンピックを見ての方針転換であった。だが、組織委員の足並みはそろわず、議論がなかなかまとまらない。そこへ来て1937年には日中戦争が始まってしまう。IOCは東京でのオリンピック開催を不安視するなか、嘉納は1938年のカイロでのIOC総会に出席せねばならなかった。
各国のIOC委員から尊敬される、その人格をもって何とか東京オリンピック開催の承認を得た嘉納だが、その帰国の途上、船上で死去する。このときたまたま一緒に乗船した外交官の平沢和重(星野源)は帰国後、臨終間際に嘉納から預かったとして、形見のストップウォッチを田畑に渡した。
しかし戦局は悪化するばかりで、かねてより嘉納の心変わりに反発していた副島の決断により、オリンピックはとうとう返上されることになる。1941年には太平洋戦争が開戦、1943年には兵力不足から文系学生の徴兵が決まった。かつて嘉納がオリンピック開催を夢見て建設した神宮外苑競技場は、学徒出陣の壮行大会の会場となり、雨の降りしきるなか、学生たちが行進する。そのなかには金栗四三の弟子・小松勝(仲野太賀)の姿もあった。
ところで、史実では、1940年の東京オリンピックには田畑政治はほとんどかかわっていないのだが、そこは彼が主人公なので、ドラマでは折に触れて招致活動や開催の準備に携わっているように描かれていた。ただ、ムッソリーニへの直談判など、肝心なところではほかの人物から功績を横取りさせることなく、田畑はあくまで傍観者に回っていたところに(このために記者という立場は重宝されたことだろう)、作者の宮藤官九郎の分別みたいなものを感じる。
シリアスななかにも笑いを忘れず
このようにドラマの筋だけを追うと、シリアスな面が際立って見えるが、そこは宮藤官九郎のこと、しっかり笑いを入れている。語りを古今亭志ん生(森山未來/ビートたけし)が演じているだけに、合間あいまには、落語を下敷きにしたエピソードも差し挟まれていた。先述のオリンピック派遣費を高橋是清から引き出した回では「火焔太鼓」、ロサンゼルスオリンピックで日本水泳陣から腹を壊す選手が続出したときには「疝気の虫」、ラトゥールを東京で接待する際には「目黒のさんま」と、それぞれの噺のエッセンスがうまくドラマの展開に採り入れられていた。さらに第39話では、「富久」が志ん生とオリンピックを結びつけた真相があきらかにされた。
こうして振り返ってみると、第25話から第39話の15回分によくぞこれだけの内容を盛り込んだものだと思う。
※「いだてん〜東京オリムピック噺〜」は毎週日曜、総合テレビでは午後8時、BSプレミアムでは午後6時、BS4Kでは午前9時から。各話は総合テレビでの放送後、午後9時よりNHKオンデマンドで配信中(ただし現在、一部の回は配信停止中)