『岸辺露伴は動かない』(2)「くしゃがら」野生の本能を発する森山未来の十五と、理性的な高橋一生の露伴
イラスト/おうか

作り手の自戒を感じた『岸辺露伴は動かない』

『岸辺露伴は動かない』(NHK総合 よる10時〜)。3話連続の第2話「くしゃがら」は、極上のホラーだった。

【前話レビュー】『岸辺露伴は動かない』(1)「富豪村」基の物語の骨格をいっそう堅固にした、理想的な実写化

原作は、『岸辺露伴は叫ばない 短編小説集』に収録された北國ばらっどが書いた同タイトルの短編小説。
荒木飛呂彦の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』から派生した豊富なメディアミックスのひとつである。

漫画に対していっさいの妥協を許さない求道者的な主人公・岸辺露伴(高橋一生)が同業者・志士十五(森山未來)が魅入られた謎の言葉「くしゃがら」に振り回され、これまで経験したことのない恐怖を味わう。放送中から放送後、ネットでは謎のワード「くしゃがら」に溢れた。

ある夏の日、カフェでくつろいでいる露伴のテーブルに、ぶしつけに同席する志士十五。同じ漫画家であることは知っているとはいえ、それほど親しい関係ではないにもかかわらず、ぐいぐいと間合いを近づけてくる十五の相手を面倒臭さそうにする露伴。

勧善懲悪な少年漫画ばかり描いてきた(無関心を装いながら露伴がそれを知ってるところが面白い)十五は、今度、ホラーに挑戦しようと、怖いこととは何かを考えているなかで、出版社からもらった「禁止用語リスト」のなかで、「くしゃがら」という言葉が気になっていると言う。


この言葉は何なのか、なぜ禁止なのかを知りたい十五。露伴は、うざいと思いながらも、十五の語る、リアリティーのない話を絶対作りたくない、そのためには日常生活からリアリティーを得る必要があること、リアリティーのための言葉の大切さ……等々には共感を覚える。

十五は全身を駆使し、弾丸のように熱い熱い信念を語り続ける。基本、わあわあ喚いてばかりいるが、「先生(露伴)も同じタイプだよな。漫画読んですぐわかったよ」と言うときだけは声を落とし、これが逆に真実味を帯びる。自分と志を同じくする者がいることで興が乗った十五は次第に語尾に露伴のように「ッ!」がつく。


露伴はカンタンに他者に心を開いたりはしない(岸辺露伴は動かない、だからね)。淡々と「『なぜ』だめなのか、『なぜ』禁止なのか、それを知ったうえであえて使わないのと、ただ使わないのとでは、作品に出る厚みがちがう」と持論を語る。

それを聞いてますます気が合うとはしゃぐ十五を、まつわりつく人なつっこい犬をあしらうようにする露伴だが、我が意を得たりの嬉しい感情が一瞬、顔からこぼれ出る。

高橋一生と森山未来のスリリングな演技対決

精密機械のようにクールに振る舞いながら、内側に人間的な柔らかさを隠しているように見える高橋一生の露伴。それはまるで、丸ペンの細くて固い線で描いたような、理性で閉じ込めたような輪郭。高橋の身体は丸ペンのように筆者には見えるのだが、彼の左耳のピアスはGペンである。高橋の一挙一投足ごとに揺れるそれは、露伴が外になかなか出さない繊細な心を映し出しているようだ。


『岸辺露伴は動かない』(2)「くしゃがら」野生の本能を発する森山未来の十五と、理性的な高橋一生の露伴
岸辺露伴は叫ばない 短編小説集/集英社
→Amazonで購入する

対する、森山未來の十五は、「表現には生きてるエネルギーが必要だからな」というセリフのごとく、カラダ中から、エネルギーが火山口から溢れ出て見える。ダンスで鍛えた筋肉の重量や熱と弾力は、Gペンで緩急入れた描線そのものだ。

森山は2015年に荒木飛呂彦の漫画『死刑執行中脱獄進行中』を舞台化した作品に主演しているため、荒木の描く絵の再現力がハンパない。「くしゃがら」は小説なので、十五がビジュアル化されていないにもかかわらず、とめどなくカラダを動かしているような濃密な荒木キャラをのびのびと描き出していた。

野生の本能を発する森山の十五と、理性的な高橋の露伴は、動と静で、じつに対照的であり、それが、「くしゃがら」にどんどんのめり込んでいく十五と、惹かれながらもその危険性を感じて留まる露伴の差をみごとに明確にする。容易に合意しないが、ときどき、通じ合うものを一瞬、感じさせるこのふたりの演技対決はじつにスリリングで見応えがあった。


カフェでお茶代を払って去っていく十五。これっぽちの借りといらっとするプライドの高い露伴。のちに、くしゃがらに取り込まれてすっかりやつれた十五に、ピザを黙って奢る。借りは作らないタイプ。

そのピザを貪りながら、露伴の家に押しかけてくる十五の変わり果てた姿(本当に別人みたいな森山がすごい)。露伴はついに彼にヘブンズ・ドアーを使う。


ヘブンズ・ドアーとは相手の記憶を本にして可視化する能力。露伴はこれを使って、自作の漫画のリアリティーに厚みを作ってきた。

十五の本は、横罫ノートのような素朴なもの(1話の、一究の本は上質な紙に縦書きされていた。それぞれの本の違いも人間の個性になっている)。そこにみつけた、気味の悪い黒々した袋とじ。

「絶対にヤバいッ!」

くしゃがらくしゃがらくしゃがら……と子どものような大人のような声がお経のように発せられ、脳に侵食してくる。
無敵のはずの自分の能力が効かず怯む露伴が、絞り出した対抗策は……それはここには記さないでおく。

十五の、ホラーに挑戦したいという強い熱意が、リアリティーを帯びすぎるあまり、現実のホラーを作り出してしまったかのような世にもおそろしい物語であった。

1話では、漫画とドラマの違いを、絵とセリフの違いで見せていたが、2話は小説という膨大な言葉で綴られたラストの余韻を、ドラマではワンカットで見せた。とても大事なオチなのだが、批評として記録しておくべきと思ったので、記しておく。ネタバレがいやな方はお読みにならないでください。

「くしゃがら」が現実のインターネットにも伝播

※ここから、ドラマのラストに関するネタバレを含みます
「視聴者の安全のため、番組内で使用した『くしゃがら』は、実際の単語とは違うものを使っております。NHK」

ドラマのラスト、この注意書きがドアに貼られている。これも放送後、ネットで話題になった。「くしゃがら」という、有名だが実体のわからない言葉から、昔の『世にも奇妙な物語』で北川悦吏子が描いた傑作「ずんどこべろんちょ」を思い出した視聴者も少なくなく、Twitterトレンド入り。「くしゃがら」の熱気が伝播し派生していくという、パワーワードの威力が、物語を超えて現実化したことも作品の強度の証である。

かようにネットでは言葉は拡散し、増殖し、変質していく。原作とドラマ版の違いは、そんなネットに溢れる情報に対してちくりと刺していたことだ。

「くしゃがら」という言葉を調べるにあたりネットも使うことを辞さない露伴ではあるが、「デマと真実が大量に、しかも無表情に並んでいる」と批判的ではある。それに比べて、「情報がリアルな五感で感じられる」と書物を愛でる露伴。

担当編集の泉京香(飯豊まりえ)は露伴に影響され、記憶喪失の恋人・平井太郎(中村倫也)の悩み――ネットで自分のことを調べると、有名な写真家だった記録がいくらでも出てくるが実感が沸かないことに対して、自分の足で調べてみたら? と助言する。自らもまた、足を使って、十五の担当編集者を探そうと試みるというエピソードは、ドラマ版(脚本:小林靖子)のオリジナルだ。

小説に書かれた「くしゃがら」は古来より伝わる怪談の感覚に近いように感じたが、ドラマの「くしゃがら」はネットが作り出す魔物のようだった。いま、テレビドラマは、ネットの評判が欠かせない。ただ、ネットが正しい情報や善意を広げていくだけではないこともわかっていて、それを承知で飲み込んで、必要悪として付き合っている。そんな時代であることに対する作り手の自戒が込められているようにも見えた。

ただ、そこに投じられた高橋一生と森山未來の身体や、十五の仕事場の美術や、ヘブンズ・ドアーでできた本と袋とじなどから立ち上る、曖昧で空疎なネットの価値観とは真逆の強烈な肉感はまるで書物のような愉悦をくれた。

※『岸辺露伴は動かない』(3)「D.N.A」のレビューを更新しましたら、Twitterでお知らせします。お見逃しのないよう、ぜひフォローしてくださいね

【関連記事】『岸辺露伴は動かない』(1)「富豪村」基の物語の骨格をいっそう堅固にした、理想的な実写化
【関連記事】『岸辺露伴は動かない』(3)「D.N.A」 個性は“ギフト” 3話は空想科学浪漫に満ちた多様性の物語
【関連記事】『ジョジョの奇妙な冒険』背中を見られると殺されるスタンド「チープ・トリック」がエゲツない


Writer

木俣冬


取材、インタビュー、評論を中心に活動。ノベライズも手がける。主な著書『みんなの朝ドラ』『ケイゾク、SPEC、カイドク』『挑戦者たち トップアクターズルポルタージュ』、構成した本『蜷川幸雄 身体的物語論』『庵野秀明のフタリシバイ』、インタビュー担当した『斎藤工 写真集JORNEY』など。ヤフーニュース個人オーサー。

関連サイト
@kamitonami