古来「人の生き方は、その死に様にこそ表われる」とはよく言ったもので、死を前にした時の言動は、その人の評価を大きく左右するものです。

往時の人々は、死に際して生涯の集大成とも言える辞世(じせい)を記したのですが、老衰ならともかく、戦場や刑場ではなかなかそんな余裕もありません。


新選組4人相手に死闘を演じ「ぜんざい屋事件」に散った志士・大...の画像はこちら >>


辞世を書く武士(イメージ)。

そこで平素から辞世を作っておくのですが、死を意識することによってここ一番で命を惜しまぬ=後(おく)れをとらぬよう自分を戒めたり、大義を示すことで自らを鼓舞したりしたものでした。

幕末の志士たちもまたそのようにした者が多く、今回は尊王攘夷に生きた大利鼎吉(おおり ていきち)の生涯を振り返ってみたいと思います。

■土佐を脱藩、尊王攘夷の志士たちと合流

大利鼎吉は江戸時代末期の天保13年(1842年)、土佐藩(現:高知県)に生まれました。諱は正義(まさよし)、また史料によって正樹(誤記?変名?)とも記されています。

幕末の風雲吹き荒れる文久元年(1861年)、20歳となった鼎吉は同じく土佐の武市半平太(たけち はんぺいた。
瑞山)らによって結成された土佐勤王党(とさ きんのうとう)に加盟。尊王攘夷を推進するべく尽力しました。

新選組4人相手に死闘を演じ「ぜんざい屋事件」に散った志士・大利鼎吉が詠んだ辞世の心【前編】


武市半平太の自画像。Wikipediaより。

「一刻も早く天子様(天皇陛下、朝廷)に政権をお返しし、不埒な外国勢力を一掃せねば、日本国に未来はない。我ら勤王党はその先駆けとして奉公いたそう!」

しかし保守派(尊王攘夷に慎重)であった土佐藩参政(家老)の吉田東洋(よしだ とうよう)を暗殺するなど過激な運動を展開したため弾圧され、鼎吉は文久3年(1863年)に土佐から脱藩。


大君(おおきみ)の 為と思えば やみ得ずも
命にかへて 魁(さきがけ)やせん

【意訳】尊王攘夷を実現するため万難を排し、この命に代えても全国志士たちの先駆けを務めよう!

そんな決意を詠んだ鼎吉は、京都へ潜入して長州藩の過激派志士たちと合流します。

■池田屋事件を生き延び、禁門の変に参戦

「君側の奸(くんそくのかん。主君を惑わす奸臣、ここでは徳川幕府)より天子様をお救いするべく、まずは京都洛中に火を放つ!」

京都三条小橋の池田屋(いけだや)に集まって謀議を重ねていた元治元年(1864年)7月8日、京都洛中の治安維持に当たっていた新選組(しんせんぐみ)の襲撃を受けました。世に言う池田屋事件です。

「御用改めである!」

「おのれ、ここで捕まってなるものか!」

敵味方入り乱れての大乱闘で、鼎吉は新選組の武田観柳斎(たけだ かんりゅうさい。五番組隊長)らしき敵と闘ったと言います。


新選組4人相手に死闘を演じ「ぜんざい屋事件」に散った志士・大利鼎吉が詠んだ辞世の心【前編】


池田屋での暗闘(イメージ)。

はっきり判らないもんなの?と思ってしまいそうですが、お互いが堂々と名乗り合う一騎討ちならいざ知らず、互いの顔も(恐らく)知らず、灯りも消した暗闇でのことですから、後の記録や証言をすり合わせた結果、
「あぁ、俺はあの時、多分アイツと闘ったんだろうな」
などとおぼろげに判ったのでしょうが、当時そんな呑気なことを思う暇もなく、鼎吉は逃げ遅れたのか、生け捕りにされてしまいます。

「土佐脱藩、大秋鼎(おおあき かなえ)を捕らえたぞ!」

大秋鼎とは鼎吉の変名で、大「利」を同じ禾編(のぎへん)の「秋」に、鼎吉から吉の字をとって訓読みの「かなえ」としたのでしょう(異説あり)。ただ、吉を除いたことが凶と裏目に出てしまったのでしょうか。

「くっ、殺せ!」

池田屋に乗り込む当初、新選組当局では「尊王攘夷派の方が多数だから、斬り捨てもやむなし」という方針でしたが、次第に形勢が逆転すると「なるべく生け捕りにせよ」と方針転換。

お陰で命拾いした鼎吉は、ドサクサに紛れて脱出に成功。
長州藩の同志たちと再合流し、破れかぶれの実力行使に臨みました。

新選組4人相手に死闘を演じ「ぜんざい屋事件」に散った志士・大利鼎吉が詠んだ辞世の心【前編】


幕末期「禁門の変」の様子を描いた瓦版。

池田屋事件から11日後の元治元年(1864年)7月19日、起死回生を賭けて長州藩が挙兵。世に言う「禁門の変(蛤御門の変)」は会津・薩摩の両藩に敗れてしまいます。

この戦いで御所=朝廷に対して鉄砲を射かけたことから、長州藩は永らく「朝敵」「逆賊」の汚名に甘んじ、苦境に立たされてしまうのでした。

【後編へ続く】

※参考文献:
伊藤成郎『新選組は京都で何をしていたか』KTC中央出版、2003年10月
菊池明『新選組の真実』PHP研究所、2004年1月
田中光顕『維新風雲回顧録』大日本雄弁会講談社、1928年3月

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