■前回のあらすじ

戦国時代、九州の大友義鎮(おおとも よししげ。大友宗麟)に仕えていた高橋紹運(たかはし じょううん)は、島津忠長(しまづ ただなが)率いる20,000の大軍を迎え撃つべく、763名の兵で岩屋城に立て籠もります。


その兵力差は26倍以上……1日で陥落すると思われたものの、紹運らの果敢な抵抗によって攻防戦は半月以上にも及び、島津方にも多大な犠牲を出しました。

「もう貴殿は十分に戦われた。手厚く遇するゆえ、速やかに降られよ!」

そんな忠長の勧告に対して、紹運の回答は……?

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20,000対763名!戦国武将・高橋紹運が魅せた武士の心意気と壮絶な最期【上】

■敵も味方も大歓声!紹運が魅せた武士の心意気

紹運は開口一声、忠長らを怒鳴りつけます。

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あくまでも主君への忠義を貫いた高橋紹運。Wikipediaより

「主君が栄えている時は誰もが忠義ヅラをして奉公に勤しみ、功名を競い合うが、ひとたび主君が衰運たるや、なおも一命を奉じる者は稀なり。貴公もまた、島津の御家が衰えたならば、主君を裏切って他家へ走るのか!」

「いや、そのような……」

「命は一代、名は末代!主君が衰亡の危機にある今、我ら一死もってお支えすることこそ、武門の誇りである!」

「「「そうだ!」」」

「「「いいぞ!」」」

紹運の心意気を聞いた者たちは、敵も味方もなく大歓声を上げたと言います。
力に媚び入り、卑しく命を永らえて何になる。それまで渋々と島津に臣従していた者たちは我が身を恥じ、鬱屈した思いを解き放ったのでした。

「参るぞ者ども、最後の斬り込みじゃ!」

「「「おおぅ……っ!」」」

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島津の大軍を相手に大暴れ(イメージ)

わずかに生き残った城兵を率いて紹運は島津の大軍へ斬り込みをかけ、悪鬼羅刹のごとく暴れ回って紹運自身も敵兵17名を斬り捨てる大奮闘。

そして最後は城内の高楼へ登って切腹。残った者も誰一人降ることなく全員が自刃して果てました。

かくして7月27日、ようやく岩屋城は陥落。
島津方は約3,000の犠牲を払ったということです。

■エピローグ・紹運からの書状

さて、紹運の首級は首実検のため忠長のもとへ届けられますが、遺体の傍らにあったという書状も添えられていました。

「これも義によってなれば、ご理解されたし」
【意訳】元より貴公に恨みはなく、和睦の意思を踏みにじるようなことをして心苦しく思わないでもないが、武士として主君の恩義に背く訳にはいかず、このようになったことを、理解して欲しい。

これを読んだ忠長は座っていた床几(しょうぎ。椅子の一種)から崩れ落ち、両膝をついてその死を惜しんだと言います。

「我らは類まれなる名将を喪ってしまったものだ。
入道(紹運)殿はまさに軍神の化身であった。もし彼と和解できたならば、かけがえのない友となれたろうに、まことに武士とは恨めしく、因果な道であることか……」

島津の諸将も瞼の裏に浮かぶ紹運の鬼神ぶりを思い出し、涙に袖を濡らしたのでした。

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岩屋城二の丸に眠る紹運の墓と、供養塔。Wikipediaより(撮影:Heartoftheworld氏)

その後、岩屋城での痛手が後を引いて島津の九州統一が遅れたため、やがて豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の九州征伐を受けますが、主君・義鎮は無事に生き永らえることとなります。

紹運らが命を賭けて守り抜いたのは、単に主君の命のみならず、あるべき武士の姿、そして日本の精神だったように思えてなりません。

【完】

※参考文献:
桐野作人『歴史群像デジタルアーカイブス <島津と筑前侵攻戦>壮絶!岩屋城 高橋紹雲の抵抗』学研、2015年3月
小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論第一部 巨傑誕生篇』小学館、2014年1月
吉永正春『九州戦国の武将たち』海鳥社、2000年11月

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