■明智光秀は今上天皇のご先祖様!

皇室のご先祖様をたどっていくと、意外なほど多くの「日本史上の有名人」たちが、その系図に名前を連ねていることが分かります。今回はこの系譜をたどってみましょう。


まず、今上天皇の祖先に、戦国大名の明智光秀がいます。

光秀の娘であるガラシャは、細川忠興に嫁いだのち5人の子をもうけましたが、そのうちの一人・多羅が豊後・臼杵藩主の稲葉一通の正室になりました。

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明智神社「細川ガラシャゆかりの里」(Wikipediaより)

さらに多羅と一通の子である稲葉信通は、織田信良の娘と婚姻を結びます。実は、光秀と信長のひ孫同士が結婚しているのです。

稲葉信通の孫、つまり光秀の玄孫が稲葉恒通です。この恒通の娘が勧修寺顕道に嫁ぐことによって、公家の家系との繋がりができました。


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稲葉恒通(Wikipediaより)

■信長も家康も光秀の親戚!?

恒通の娘の孫が勧修寺婧子。119代天皇である光格天皇の典侍となり、仁孝天皇の母となる人物です。

また婧子は徳川家康の血筋も引いているため、今上天皇の祖先には織田信長や徳川家康も含まれることになります。

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徳川家康像

つまり、明智光秀─細川ガラシャ─多羅─稲葉信通─稲葉知通─稲葉恒通─稲葉恒通の娘─勧修寺経逸─勧修寺婧子─仁孝天皇─孝明天皇─明治天皇─大正天皇─昭和天皇─上皇─今上天皇と血筋が繋がっていくんですね。

さて、ところでガラシャと忠興の息子に細川忠隆がいます。

細川家の嫡男であった忠隆は、その妻・千世が、関ケ原の戦いの終盤で細川の屋敷が石田三成の軍勢に囲まれた折、自害することなく逃げたことで父・忠興の怒りを買い、廃嫡され京に移り住みます。


実はこちらの血筋からも、細川忠隆─徳姫─西園寺公満─西園寺公満の娘─広幡豊忠─広幡豊忠の娘─正親町公明─正親町実光─正親町雅子─孝明天皇─明治天皇─大正天皇─昭和天皇─上皇─今上天皇と血筋が繋がっています。

仁孝天皇の母・勧修寺婧子はガラシャの娘の子孫でしたが、仁孝天皇の后・正親町雅子はガラシャの息子の子孫ということになりますね。

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仁孝天皇(Wikipediaより)

■前田利家まで血がつながっていた!

さらに、忠隆の玄孫・広幡豊忠の子には、先の正親町家に嫁いだ娘と三条家に嫁いだ娘がいます。

ここから広幡豊忠─広幡豊忠の娘─三条実顕─三条実顕の娘─中山忠頼─中山忠能─中山慶子─明治天皇─大正天皇─昭和天皇─上皇─今上天皇というように繋がっていくことになります。

ガラシャの娘の子孫である孝明天皇の后・中山慶子は、ガラシャの息子の子孫です。

また、忠隆の妻・千世は前田利家の七女でした。


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前田利家像(金沢城公園)

このように、天皇の祖先には明智光秀、織田信長、前田利家、徳川家康など、そうそうたる顔ぶれが集まっているのです。

日本には古来から、力を持つ家が同じように力を持つ家と繋がることでその力をより盤石なものにしてきた歴史があります。

特に皇室に繋がる公家の権力は大きく、家督を継がない大名の娘が公家と婚姻を結ぶケースは多かったようです。

その中で皇室に繋がる人物が現れ、血筋が脈々と受け継がれていったと考えられます。

日本史上の有名人や偉人たちの多くが、皇室の系譜に連なっている、いわば遠い親戚同士と考えるとちょっと面白いですね。案外、日本史は上流階級の一族の歴史と言えるのかも知れません。


参考資料

  • 新・今上陛下は明智光秀の子孫だった – アゴラ 言論プラットフォーム
  • 現代の皇室の先祖には戦国武将や猛女が目白押し – アゴラ 言論プラットフォーム
  • 歴史ディレクトリ

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